(カ). 笹田君と被告発人大網健二の中古車販売を巡るトラブル

 記憶が薄れていますが,この笹田君と被告発人大網健二との車のトラブルは,中橋陸橋の下の商店街のような場所のことが強く印象に残っていて,そこで昼に被告発人大網健二と会っていたように思うのです。

 このあと《参考資料》としてGoogleで調べたいと考えているのですが,今記憶のまま書いておきます。六枚の交差点から金石方面に向かうとすぐに中橋の陸橋がありましたが,被告発人松平日出男に食事に誘われ最初に向かったのは,陸橋手前の右側でした。

 被告発人大網健二と会ったように思うのが,六枚の交差点から金石方面に向かう方向で,陸橋の右手の奥になります。そこに本当に商店街があったのかも定かではないのですが,滅多に行くような場所ではなく,行ったのもほんの数回だったと思います。

 今考えると,時期的に北都運輸の市内配達の仕事をしていた時かもしれません。北都運輸の市内配達ではずっと金沢市場輸送の古い4トン保冷車でした。車番は6526のような感じだったと思います。昭和59年当時にも乗務していたトラックでした。このナンバーは「石」になります。

 北都運輸の市内配達は,業務用のマヨネーズ,ドレッシング,ジャムなどが主な荷物でしたが,ほぼ金沢市内全域が受け持ちのコースになっていたと思います。それでもだいたいの範囲は決まっていて,配達の最後が金沢港の周辺であったようにも記憶にあります。

 戦災を受けていない金沢市内は,狭い路地が多いという特徴もあるのですが,4トン保冷車での市内配達でもそれほど難儀したという記憶はありません。卯辰山の上り口,天神橋を渡った先のカーブで,無理なUターンをしていたことは,よく憶えています。

911:2020-09-12_10:38:19 * 《参考資料》金沢市内,中橋陸橋付近と,大和町 https://hirono-hideki.hatenadiary.jp/entry/2020/09/12/103818

 平成元年当時とは町並みも変わっていると思いますが,まじまじと中橋陸橋周辺の地図を見たのは今回が初めてかもしれません。中橋町とありますが,これも初めて目にするような金沢市内の住所です。

 今回,Googleマップを見て,六枚の交差点から中橋陸橋を渡った先の,初めの大きな交差点の名前が中橋の交差点ということをずいぶんと久々に思い出しました。

 中橋の交差点で金石街道と交差するのは,Googleマップで県道60号線と見えますが,大豆田大橋方面が「まめだ大通り」,諸江方面が「もろえ通り」ともなっています。どちらも余り聞いたことのない道路の名前ですが,よく通行する道路でした。

 中橋陸橋は,金沢駅から最も近い陸橋になると思いますが,昭和55年当時からあったと思います。金沢駅から歩いて,被告発人大網健二が住んでいた大和町のアパートに行った記憶があり,六枚の交差点から中橋陸橋が見えたような記憶もあって,その風景は平成に入ってからも変わらぬものでした。

 金沢駅に近いだけあって賑わいは感じられましたが,店などはほとんどなかったと思います。入ったことはなかったですが,中橋の陸橋の下の道路には飲食店がありそうな雰囲気でした。六枚の交差点から増泉の方に向かうと,右手に婦人会館のビル,左手に職業安定所がありました。

 職業安定所の住所は芳斉だったと思います。Googleマップで確認すると前の道路が昭和大通りとなっていました。これは聞いたことのあるような道路の名前です。よく婦人会館と聞いていた建物は石川県女性センターとなっています。

 少し手前に金沢中央郵便局とありますが,平成4年には出来ていた新しい建物で,市場急配センターの仕事で行ったことがありました。イヨカンを積み込んだような気もするのですが,それを金沢中央卸売市場で降ろした時かもしれません。

 石川丸果の課長という人物がいて,被害者安藤文さんとよく似た年頃の娘と思われる人を連れていました。この課長については他にも話を聞いたのですが,被告発人松平日出男と昵懇でよろしくやっているという話でした。

 この告発状の本文には書いていないかもしれないですが,平成3,4年当時,市場急配センターの事務所の横の空き地に,いつも郵便局の大型トラックが駐車していました。いつも2台いたような気がします。金沢中央卸売市場との間になる空き地です。

 その空き地はずいぶん前から市場急配センターの給油所になっていて,Googleマップで確認が出来ると思います。平成3,4年当時はただの空き地ではなく,草が生えた放棄地のような空き地で,舗装などもされていなかったと思います。不思議と郵便局のトラックの出入りは見たことがありませんでした。

 金沢中央卸売市場やその周辺で,郵便局の大型車が仕事をするのも見たことがなかった気がします。新車のような新しいトラックで,いつもピカピカに洗車されているような状態だったのも印象に残っています。ときどき不思議に思っていたのですが,余り話題になることはなかったと思います。

 一度誰かに,郵便局大型トラックの疑問をぶつけ,何か話を聞いたような気もするのですが,忘れてしまったのか思い出せません。あの土地の所有というのも不可解でした。角地になりますが,そこを残して,賃貸か売買かはわかりませんが,市場急配センターが事務所と駐車場を作ったことになります。

▶▶▶ kk_hironoのリツイート ▶▶▶

> 2020-09-12-112109_平成4年当時の市場急配センターの事務所と給油所になった空き地の場所.jpg https://t.co/Ukr7ZkWlO8

 スクリーンショットを作成しましたが,あらためてGoogleマップで給油所となった空き地を見ると,平成4年当時の記憶より倍ほどにも感じるほどの広さがあります。金沢中央卸売市場横の道路の角地ですが,すぐ近くに金沢中央卸売市場の立体駐車場の出入り口があります。

 ストリートビューでみると金沢中央卸売市場の建物は4階建てですが,売り場のある1階が,そのまま2階分ぐらいの高さとなっています。2階には一部事務所があって,用事で行ったこともある記憶ですが,他の階などはデパートによくある立体の駐車場となっていました。

 大きな駐車場で,何度か行ったことがあるのですが,広く大きな駐車場だったわりには,車の出入りを見かけることが少なかった気がします。市場急配センターの裏駐車場の横がその出入り口になりますが,特に夕方から夜は,車の出入りを見ることがなかった気がします。

 中橋陸橋の話に戻します。商店街があるようにも,あったようにも見えないのですが,当然ながら陸橋を渡らずに,向こう側には行けず,踏切りがあったという記憶もありません。割と広い道路で,それが一直線に長くなっていたとも記憶にあります。

 中橋の陸橋周辺ではなかったと思えてきたのですが,他にそれらしい場所というのも思い当たるものがありません。なぜ中橋陸橋の周辺として記憶していたのかもわからないのですが,かなり衝撃的に焼き付いた記憶となっています。

 なぜその場所で被告発人大網健二と出合ったのかも不思議でした。それだけではなく,いきなりの興奮状態で私にまくしたてたのは,笹谷君に対する不満でした。同じ金沢市場輸送の会社だから知っていて当然という思いが彼にあったことは否定できないですが,私の立場ではずいぶんと意外でした。

 何度か言葉を交わしたというのもたぶん笹田君ではなく峰田君だったと思います。いつも二人でぴたりと一緒にいたので,どちらとも話をしている感覚ではありました。女子ではよく見かけた仲良さですが,男では他に今まで見たことがない気がします。思い当たる人物がありません。

 背格好も似ていたと思いますが,峰田君の方が細身であったような気がします。笹田君は中肉中背だったと思いますが,どちらかといえば小柄であったような印象があります。

 笹田君も峰田君も他の社員とは,余り話をするのを見たという記憶がありません。今考えると,何か時間をつぶす必要があって夕方に割と遅めの時間まで金沢市場輸送の運転手休憩室に残っていたのかもしれません。他の運転手には見られない行動でもあったので,余計に印象に残っています。

 なぜ被告発人大網健二があそこまで感情をむき出しにして怒っていたのか,今考えられる結論は演技です。当時もおかしいとは思い頭をひねっていたのですが,思い当たることがないまま漠然としていました。

 これまで重要視する事実関係の1つとしながら深くは考えてこなかったのですが,被告発人大網健二と出合った場所が思い出せません。当然ながら携帯電話など普及していなかった時代で,ポケットベルというものはありましたが,持ったことも使ったこともありませんでした。

 昭和58年の春にポケットベルをもたされたことはあったかもしれないですが,私個人ではなく二人以上はいて従という立場だったと思います。

 松元組という暴力団の組員で,北友会の幹部と聞いていました。当時の石川県の暴力団の多くは,山口組一会の傘下に北友会があって,北友会の事務所は中央通りにありました。事務所に入ったこともあったのですが,片町の繁華街のすぐ側で,まるで警察の交番のような雰囲気があったと記憶にあります。

 秋田県能代の浜に死体で上がり,入れ墨で身元が判明したような話を聞いたのも,最後に会ってから1〜3年後のことだったと思います。白菊町のFNさんのアパートでよく会ったのですが,姫のNさんに対して本気で怒っていたことが印象的でした。理由は聞いていません。

 被告発人浜口卓也も同じ松元組の元組員だったのですが,不思議とそのMUという暴力団員と接点のある話は耳にしませんでした。私はそのMUという人物のつてで,金沢市松村町のダクトの会社で仕事をするようになったのですが,先にMUという人に紹介されたDDさんの紹介だったのかもしれません。

 ダクトというのは空調設備のことですが,仕事をしたのは長くて2ヶ月ぐらいだったと思います。そしてその会社をやめたすぐ後に,金沢市場輸送に入社しています。昭和59年1月のことです。やはりMUさんの直接の紹介ではなかったと思います。MUさんに最後に会ったのは遅くても夏のことだと思います。

 DDさんですが,昭和58年の8月の終わり,宇出津のDDさんの家で,被告発人安田敏に会ったことがきっかけで,被告発人安田敏の金沢市観音堂のアパートに居候することになりました。居候は11月の10日頃まで続き,その後に出雲町の運送会社とダクトの会社で仕事をしたように思います。

 出雲町の運送会社では,社長に,他の社員に無事,正月を迎えさせたいので辞めてくれと言われ首になりました。だいぶん普通ではなかったのですが,これはその後の金沢市場輸送でも問題児扱いされることになります。

 昭和59年の1月から10月まで金沢市場輸送にいて問題を起こし問題児扱いされたことは確かなのですが,そのギャップが大きかったことで,昭和61年8月の入社以降は,自分でいうのもなんですが,大きな信頼と実績を残すようになりました。とりわけ評価してくれたのが竹沢俊寿会長夫妻になります。

 出雲町の運送会社にいたことを考えると,ダクトの会社にいたのは一月より短い間だったのかもしれません。和倉温泉の美湾荘に仕事に行ったことと,民宿での泊りがけで富山県黒部市YKK吉田工業の大きな工場の現場に行ったことが印象に残っており,富山に通ったのは雪の降る時期でした。

 夜になっていましたが,金沢に帰る北陸自動車道で,ちょうど有磯海サービスエリアの出口からの側道が交わる辺りのカーブで,北海道の地図を象った模様と,札幌と書いてあったと思いますが,高速で雪を巻き上げて走る姿に感銘を受け,長距離トラックの運転手になりたいと思ったのです。

 平成元年ですが,北都運輸の市内配達の仕事を始めたのは5月か6月だったと思います。金沢市場輸送の給料の締切日と給料日が思い出せないのですが,25日締めの翌月5日払いという市場急配センターの給料日とは,違っていたような気がします。考えられるのは月末締めですが,確信は持てません。

 いずれにせよ,北都運輸の仕事は11月一杯となっていたと思います。私にとって続けて2回目のイワシのシーズンでしたが,前年は12月21日辺りに出発した運行を大型保冷車での長距離の運行の最後としました。YTを同乗させ,宮城県石巻市ハローマックに向かった運行です。

 到着した石巻での冷房のこともあるので,ハローマックに間違いはないと思うのですが,この行きの荷物は富山県高岡市の古くて大きな倉庫のような場所で夕方暗くなった時間に積み込んだような記憶があります。

 ハローマックの仕事は他に,高知県高知市宮城県岩沼市あるいは名取市が記憶にあるのですが,いずれも金沢市内の浅野本町の辺りで荷物を積み込んだ記憶があります。金沢駅から鳴和に向かうと右手でした。道路の名前は東大通りとなっていましが,右手に1本か2本入った通り沿いでした。

 当時,テレビCMがよく流れていた子供向けの人形の会社だったと思います。端午の節句の人形などです。荷物は箱詰めされ中身はわからなかったと思いますが,ハローマックは全国展開する玩具店で,金沢にも八日市辺りに店舗がありました。

 1年目は,そもそもイワシを運搬する水槽が出来るのに,シーズン開始を過ぎていたかもしれません。ほぼ同時に5台の大型平ボディ車が納車されました。いすゞは2台で,三菱ふそうが3台だったと思います。

 5台ともそうだったのかは記憶にないですが,トラックの運転席と助手席のドアの横には,社名を入れることが決まりになっていると聞いたのですが,そこには金沢市場輸送ではなく「両合物産」となっていました。

 蛸島の浜田漁業の関連会社の社名です。おそらくは税金対策ですが,関連はよくわかっていません。浜田漁業は,濱田が正確なのかもしれません。トラックは浜田になっていたと思うのですが,濱田という社名もどこかで見ていたように思います。

 なにか行政処分のようなものを受け,新車の納入が出来ず,それで両合物産の名前を借りたと聞きました。原因は北陸自動車道新潟県糸魚川インターでの重量オーバーの摘発でした。運転手が会社の指示で嫌々積んだような話をしたため,大事になったと話を聞きました。竹林から聞いたように思います。

 イワシの水槽は竹沢俊寿会長が調べ上げて業者に発注をしたという話で,和歌山県田辺市の工場でした。一回だけだったと思いますが,水槽を載せたトラックを,これから水槽を載せるトラックに乗って引き取りに行ったのです。たぶん1月の年明けだったように思います。

 しかし,それをイワシの運搬のスタートと考えると,12月21日頃に大型保冷車での最後の運行をした意味がなくなります。大型の平ボディ車の新車もまだ秋のような季節,11月中に入っていたような記憶もあります。工事中で通り抜けできない道路に,その平ボディ車を駐車していました。

 石7599号での最後の運行は,とりわけ印象に残るものだったので大体の日付もよく憶えています。たぶん出発が12月21日ですが,20日という可能性もあるかもしれません。

 2年目のイワシの運搬の仕事の始まりは,日付が特定しづらいのですが,ずっと前から12月の15日頃という記憶になっています。まだ正月やクリスマスが近づいたというあわただしさもなかったという感覚が残っています。

石川県(漁協) 金沢港支所 - Google マップ https://t.co/YRT10LUhsL

〒920-0331 石川県大野町4丁目イ - Google マップ https://t.co/WR3zEIUr5G

 Googleマップで見ると,「4丁目イ」となっていますが,たぶん1年目のイワシのシーズンは,ずっとこの場所でイワシの船の水揚げから運搬をしていたと思います。

 割と最近になってGoogleマップで気がついたのですが,橋があってずっと川だと思っていたものが海の通り道で,大野の地域自体が出島のような地形になっているのだと知りました。起訴状などでは大野埠頭となっていたかもしれません。

 Googleマップでは「石川県(漁協) 金沢港支所」ですが,運転手の間では県魚連と呼んでいたように思います。魚市場のようなものですが,Googleマップには市場とは書かれていないようです。近くにもう一つ魚市場があって,そちらは南浦と呼ばれていたように思います。地名とは関係なさそうです。

石川県漁業協同組合かなざわ総合市場 - Google マップ https://t.co/xrWpIA3NET

 Googleマップでは,これも聞いたことのない名前になっていました。県魚連の市場の方が荷物も多かったですが,だいぶん前から建物の一部が海産物の直売所になっている話はテレビで聞いていました。Googleマップでは次の名称となっています。

金沢港いきいき魚市 (株)新田商店 - Google マップ https://t.co/vhlJViXzMb

 そういえば,新田商店は昭和59年当時,河北郡七塚町に会社があると聞いていました。被告発人松平日出男の出身地と聞いたのも同じ七塚町ですし,今考えると年齢もだいたい同じぐらいになりそうです。昭和59年当時は4トン保冷車が4台で,白ナンバーでした。

 昭和59年当時,金沢市場輸送は丸中水産の仕事で,金沢港からスルメイカを積んでいたのですが,それとは別に2,3度,茨城県の今の鹿嶋市行きのあさり貝を積み込んだことがあり,それが新田商店の仕事でした。

 金沢市場輸送は昭和59年当時,丸中水産で新潟の定期便をしていたのですが,昭和61年の8月に私が二度目の入社をした頃にはなくなっていて,代わりに守田水産輸送がするようになっていました。もともと丸中水産は金沢市場輸送と手を切りたかったという話です。

 昭和59年当時の丸中水産は若社長で,先代から引き継いだばかりとも聞いたように思います。まだ20代という感じだったので,今だと9歳前後になるのかもしれません。これまで余り考えたことがなかったですが,当時の金沢市場輸送や竹沢俊寿社長の実像をよく知る人物となるのかもしれません。

 もともと腐れ縁で,金沢市場輸送が丸中水産の仕事をしているという話もありました。金沢市場輸送は朝から人足を出して魚の積み込みを手伝わせていたのに,なぜそこまで悪く見られるのか不思議でもありました。大きなミスや悪さを運転手がしたという話もなかったように思います。

 昭和59年当時の金沢市場輸送は,大型運転手は別かもしれないですが,朝8時か8時半の出社で,決まって金沢中央卸売市場の鮮魚の売り場に行き,丸中水産の新潟便の積み込みを手伝わされたのです。気楽な面も大きかったですが,この辺りはしっかりと徹底したものが規律のようになっていました。

 夜中に長距離を走ることを前提とした朝8時か8時半の出社でした。それで給料が固定で20万円。まだ不景気という時代でもありましたが,市場急配センターの市内配達でも固定給で20万円と聞く時代に,数年後には変わったことになります。

 Googleマップに「石川県(漁協) 金沢港支所」とある場所ですが,今のGoogleマップには見当たらないものの以前は「無量寺埠頭」となっていたように思います。人工的に作られたと思われる埠頭ですが,この奥に向かって中央から右端辺りが,もう一つの別のイワシの水揚げ場所となりました。

 1回目のイワシのシーズンに1回もなかったとは断言できないですが,2回目のシーズンから始まったとすると,その初日だったと思います。水揚げ場所が増えたのは,北陸ハイミールの仕事が増えたからで,イワシを捕獲し水揚げをする船団も浜田漁業お抱えの蛸島丸に,輪島丸が加わりました。

 余りはっきりとは憶えていないものの浜田漁業金沢工場のイワシの処理は一日で600トンと聞いていたように思います。北陸ハイミールはそれが1600トンで日本海側最大という話でした。北陸ハイミールは北海道の釧路の会社らしく,愛国運輸もイワシの運搬に加わりました。

 3週間か4週間ほど前,テレビで大阪府岸和田市の辺りでしたが,イワシ漁の紹介をしていました。大きな網で漁をしていましたが,はっきりとは記憶していないものの,運搬船の大きさなど2,30トンという話であったように思います。浜田漁業の運搬船は大きなもので400トンでした。

 浜田漁業の運搬船は4隻ぐらいだったと思います。輪島丸の方が少し多かったような気もしますが,小型でした。

 12月の金沢は17時半になるとすっかり夜の暗さになっていたと思いますが,19時から21時の間の時間だったと思います。ちょうど決められた集合時間頃だったとも思うのですが,トラックの運転席にいたところ,下から声が掛かりました。大型車の運転席なのでけっこう高いです。

 これもいきなりの興奮状態で,受け取り次第では喧嘩腰にも思える勢いがあったのですが,突然にわけのわからないような話を始めたのが笹田君でした。たぶんすぐには誰なのかわからなかったと思いますし,普段は無口で大人しいだけに,まるで別人のようでもありました。

 すぐに被告発人大網健二の名前が出たので,だいたいの用件というのは理解ができましたが,一緒にいた若者がチンピラヤクザ丸出しで,短いパンチパーマでした。

 本物のヤクザというか暴力団員を連れてきたものと思ったのですが,しばらくしてそれがS藤だとわかったときは驚きました。前は長髪だったので見た目もずいぶん違っていました。

 二人が乗ってきた車は笹田君の車で,トヨタのレビンかトレノだったと思います。どちらも確かカローラの仲間で,テールランプの形状など外観の少しの違いがあるだけだったと思います。新車のようでしたが,新車と聞いたかもしれません。

ファミリーマート 金沢みなと店 - Google マップ https://t.co/lDMrw0j1QW \n 石川県金沢市大野町4丁目ヲ31−1

 上記の「ファミリーマート 金沢みなと店」となっている場所には,かなり遅くまでやっている今のコンビニのような酒店がありました。どこに行ったのか思い出せないのですが,笹田君の車に乗って,その店の前辺りを走行していた記憶があるのですが,たぶんその店に買い物に行ったのだと思います。

 いくらか前の時期の話に戻りますが,11月一杯で北都運輸の市内配達の仕事をやめたとして,そのあとイワシの運搬の仕事が始まるまで,どんな仕事をしていたのか思い出せないのです。12月の20日頃までは,イワシの水揚げが,量と回数ともに少なく,仕事は回転も早いダンプが優先となっていました。

 被告発人大網健二から話を聞いたのが先だったのは間違いないと思いますが,笹田君が私に被告発人大網健二に対する苦情をぶちまけにくるまで,どれぐらいの日数があったのか,今は思い出せなくなっています。そもそも私に何かを言って解決するような話ではなかったはずです。

 今は,笹田君が何を言葉にしていたのか思い出せないですが,「いったい,あの人(あるいは,あの男),どうなるがけ!」というような感じだったとは思います。怒りと驚きが入り混じったような様子でした。普段大人しい人ほど,怒ったときに爆発するとは聞いていましたが,尋常ではなかったです。

 特段とりなしたり,なだめたつもりもないのですが,これも何を話したのか記憶にないものの,受け答えをすると笹田君はすぐに落ち着いたように思います。要するに注意をしてくれという話であったと思いますが,具体的に何をしてくれという話はなかったはずです。

 ちょうど同じ頃,被告発人大網健二のアパートに遊びに行きました。たぶん初めて行ったときだと思います。そこで笹田君の話をした記憶はないのですが,終始穏やかで上機嫌だったような印象が残っています。ようやく神戸から戻ってきた金沢での生活が落ち着いたという,安堵感も感じられました。

 S藤は,見た目とは異なり,最初から大人しい感じでした。笹田君が話す,被告発人大網健二とのトラブルも理解しているようには思えず,不思議そうにもしているとも感じられました。

 その場で,市場急配センターを辞めたような話は聞いた憶えがないのですが,ずいぶん長く顔を見ていなかったので,辞めていたと考えられます。ただ,最初に続けて何度か会った後は,ずっと会うことがなかったと思うので,他の運転手とは違った生活スタイルの仕事をしているようにも思えました。

 金沢市場輸送の仕事で昼に金沢中央卸売市場に入ることは滅多になかったということもありますが,このS藤や被告発人安田繁克が市内配達の仕事をする様子というのも見たことがなかったように思います。

 金沢市場輸送の仕事で昼に金沢中央卸売市場に入るのは,筍の仕事ぐらいで,それも長くて2,3週間だったような記憶です。ちょくちょく行ったのは,魚箱の発泡スチロールを捨て場所から拾ってくる用事で,これは鮮魚の積み込みをするとき,隙間に入れて固定するために必須のものでした。

 一番,市場急配センターの運転手と顔を合わせる機会が多かったのは,金沢市場輸送に一台だけあった給油機かもしれません。給油機には鍵があって,最初のうちは金沢市場輸送の事務所で,女子事務員に借りていたようにも思います。

 金沢市場輸送と市場急配センターは給油機の鍵が別になっていたのですが,9月には被害者安藤文さんが預かるようになっていました。8月中にも一度,二階の窓から落としてもらったような記憶があるのですが,それは市場急配センターにある洗車機の鍵だったかもしれません。

 この金沢市場輸送の給油機の鍵というのも,私と被害者安藤文さんと接近するきっかけの1つとなっていました。おそらくは仕組まれたものです。この給油機の鍵のことだけでも色々とあったのですが,今は全体がぼやけわずかに思い出せる程度となっています。

 12月中にも金沢市場輸送で給油をしていた記憶があるのですが,市場急配センターから鍵を持っていった記憶はなく,金沢市場輸送の女子事務員の預かりとなっていたような気がします。年が明け平成4年となると,今度は金沢市場輸送に給油に行ったという記憶自体がなくなってきます。

 なにか指示を受けたという記憶はないのですが,かなり面倒に思いながら津幡町の太陽鉱油まで行って給油をしたことは,何度か記憶にあります。往復だと30分以上は時間が無駄にかかったと思います。こういう無駄な走行というのは,かなり苦痛に感じていました。

 被告発人大網健二と笹田君の間でトラブルになったという車は,アルトワークスでした。軽四でしたがツインカムターボのマニュアル車でした。これも時期がはっきり思い出せないのですが,4月か5月だったと思います。その笹田君が乗っていたというアルトワークスを私が買うことになったのです。

 きっかけは,それまで乗っていたホンダのプレリュードの故障でした。春と記憶にあるのですが,いきなりギアがおかしくなり,どこかの自動車工場でみてもらうと,ミッションの載せ替えで,ずいぶんと修理代が掛かるようなことを言われました。このプレリュードもマニュアル車です。

 ちょうど同じ頃に,被告発人大網健二は別の人とのトラブルめいた話を私にします。はっきりした記憶ではないのですが,私が査定0の下取りに出したプレリュードの転売が,その原因と聞いたような気もします。相手ははっきりしています。


第58回
1974年
昭和49年 石川水産(石川)

[source:]歴代優勝校・優勝者|高等学校相撲金沢大会 https://hk-event.jp/sumou/winner/

歴代優勝校・優勝者|高等学校相撲金沢大会 https://t.co/4Zz0Zb42BO \n 第58回 \n 1974年 \n 昭和49年石川水産(石川)

 高等学校相撲金沢大会とありますが,卯辰山の相撲大会として知られています。昭和49年に石川水産が優勝していますが,この大会の関係者として,ずっと前から何度か名前は聞いたことのある人でした。全国優勝と考えるとずいぶん小柄にも思え,勘違いがあるのかと考えもしました。

 被告発人大網健二からもはっきりした話は聞いていなかったと思うのですが,被告発人大網健二からその人の話を聞く前に,私はその人と出会って,直接,会話をしていました。会話の内容も話をした場所も思い出せないのですが,たぶん守田水産輸送の大型保冷車の運転席だったと思います。

 重なる時期ではなく,たぶん前だったと思いますが,同じ守田水産輸送の大型保冷車の運転手として,宇出津の小棚木のNさんとも出会っています。被告発人東渡好信の知人として市場急配センターに来ていたことを,すでにこの告発状本文に記述済みと思います。

 宇出津の小棚木のNさんの場合は,宮城県石巻港の魚市場の前で,駐車した守田水産輸送のトラックで話をしたという記憶が,割合はっきりと残っています。同じような状況で話をしたのが,息子が笹田君,峰田君の友人という松ちゃんと呼ばれる運転手で,その人とは複数回似たことがあったと思います。

 笹田君のときほど猛々しいことはなかったと思いますが,負けないぐらい強い調子で,その人に対する不満を被告発人大網健二は私に話していました。たぶんですが,守田水産輸送には長くいなかったと思われ,その後,姿を見ることもありませんでした。

 何月ごろから始まったのか思い出せないですが,ちょうど丸一年ぐらい,守田水産輸送の青森定期便の仕事が続きました。守田水産輸送の自社便とは一日交代でしたが,青森の運送会社に帰り荷として仕事を出すこともあったようです。漢字が思い出せないですが,「しんせい運輸」だと思い出しました。

青森 新生運輸 - Google 検索 https://t.co/1acmNg8mGM

 昭和60年代に見ていたのと同じような青森の新生運輸の大型トラックの写真がぞろぞろと出てきましたが,後ろの扉に大きな赤い文字で港とあるのは,ちょっと見た記憶がないです。

 守田水産輸送は,金沢で三人兄弟がそれぞれ別の運送会社を経営しているとも聞いていましたが,大型保冷車の数は少なく,その割に長距離の運行が長いと聞いていました。同じ保冷車でも他の会社は冷凍食品など運んでいるという話でした。

 金沢から青森まで鮮魚を運ぶと,青森から帆立貝を積んで九州に行き,九州から荷物を積んで金沢に戻るのが,一運行のパターンだと聞きました。ただ,その割に九州方面で守田水産輸送のトラックを見たことはなかったか,少なかったと思います。対向車としてすれ違うこともなかったです。

 被告発人大網健二から売ってもらったアルトワークスの値段は50万円でした。笹田君からの買取価格と同じ値段と被告発人大網健二は言っていましたが,カーステレオのコンポなどを取り外したなどと言っていました。けっこういいのが付いていたような口ぶりでした。

 被告発人大網健二はそれを当然のことのように話し,それでも不満があるいう口ぶりでした。一方の笹田君ですがお金に関する不満は言っていなかったように思います。だからなおさら理解に苦しむ話だったのですが,いきさつはともかく笹田君も新しい車を買ったことで満足をしているようにも見えました。

 被告発人大網健二が神戸から戻った時期というのもすぐに思い出せないのですが,昭和63年のお盆には神戸から帰省していました。神戸から戻って最初の頃,車のブローカーをしているような話をし,福田自動車という名刺をくれたと思います。会社の住所は,金沢市高畠か,少なくともその周辺でした。

 その辺りを車で通りかかって,それらしい車を見たような気もするのですが,私としては余り関心もなく,自分から内容を尋ねることもなかったと思います。

 もともと車のトラブルであれば,被告発人松平日出男が出てこないのも気になっていました。笹田君として頼みづらいか頼みたくはない事情でもあるのかとは想像しましたが,それ以上のことはわかりませんでした。被告発人松平日出男が社員に車の売買をしたという話も聞くことはなかったように思います。

 平成3年12月28日頃,諸江の焼肉店で,笹田君もいたと思うのですが,峰田君のことしか印象に残っていません。笹田君の姿がなければ,なにかあったのかともっと印象に残っていたという気はします。峰田君は割合,社交的で,笹田君の方はいくらか内向的だったとも思います。仲はとても良さそうでした。

 平成3年12月28日頃ではと思ったのですが,この日は市場急配センターの仕事納めの可能性があり,だとすれば,違うような気もします。その日は,強い風で車のドアが歪んだこと,夕方にパチンコオークラに被告発人安田敏を探しに行ったことを憶えています。