(オ). 宇出津のK村さんと姫のNさんという被告発人大網健二と市場急配センターの接点

 よく考えてみると,金沢市場輸送で被告発人松平日出男を見るより,宇出津のK村さんと姫のNさんを金沢市場輸送でみたのが少し早かったかもしれません。被告発人松平日出男に関しては8月の終わりか9月の初めと記憶にあります。金沢市場輸送の事務所が移転した昭和63年のことです。

 宇出津のK村さんと姫のNさんは,8月の20日過ぎに姿を見ていたようにも思います。見かけただけではなく,その場で話もしているはずかと思います。もともとK村さんのことは知りませんでした。今も被告発人大網健二から聞いていた話以外に,K村さんの話を聞くことはありません。

 前後がはっきりしないのですが,宇出津のK村さんと姫のNさんについて,被告発人大網健二から魚の移動販売の仕事をしていると聞かされました。姫のNさんとは,昭和56年の12月から昭和58年とよく顔を合わせ,一緒に行動することがありました。昭和60年にも会っています。

 その後,姫のNさんとは会うこともなく,話を聞くことも余りなかったと思います。少し聞いたのは野々市の運送会社のことでした。昭和59年の10月に私が金沢市場輸送をやめた後,すぐに金沢市場輸送に入社して,けっこう長く4t車で長距離の仕事をしていたとも聞いていました。

 これもはっきりした時期は憶えていないですが,最初に金沢市場輸送で宇出津のK村さんと姫のNさんの姿を見かけてから,1,2ヶ月後,だったと思いますが,魚の移動販売に使っていたというトラックを,金沢市場輸送の給油機の前の駐車場に停めて,話をしたこともありました。

 二人はかなりポンコツの青い色の2トントラックで市内配達の仕事をしていたと記憶にあります。そのままスクラップ工場に置いてあるような中古車でした。その持ち込みのトラックが古かったことも印象的でしたが,金沢市場輸送での2t車の持ち込みはK村さんとNさんの二人が初めてだったと思います。

 K村さんについて,被告発人大網健二は昔からよく知っている話しぶりでした。宇出津のどの辺りに家があるとか,話を聞いたようにも思うのですが,ほとんど記憶に残っていません。ただ,消去法を交えて,宇出津の「いわいまち」とは聞いたような気がします。

 「いわいまち」というのは口伝なので,発音にも個人差があり,最近は聞かないのですが,宇出津の町内の下岩屋と上岩屋を合わせて,「いわいまち」と中学生の頃に聞いていました。近年,祭礼委員の関係で知ったことですが,川原町も下岩屋と上岩屋と同じ区分になるようです。

 新村三町内というのは,その前から聞いていたのですが,近年,これも祭礼委員の関係で,新町三町内というのも聞きました。もともと宇出津の新町といえば,上町と中町ということは知っていたのですが,大橋組を合わせて新町三町内とのことです。被告発人大網健二が住んでいたのは,この大橋組でした。

 大橋組は川原町とも隣接し,川原町は新村と隣接しています。この宇出津の町内は地図の住所にはないものになります。小さい町内は十数戸,大きい町内は100戸を超えます。この区割りや数は,祭礼委員の仕事をすることでよくわかったのですが,地元でも他の町内のことは知らないことが多いと思います。

 今,手元にある「のと町テレホンガイド」で調べたのですが,K村という漢字の名前は宇出津にありませんでした。たぶん平成16年4月発行のものです。表紙にはないのですが,中にそれらしい記載がありました。2,3日前に必要があって引っ張り出したのですが,住宅地図入りの電話帳です。

 たぶん平成9年ですが,その頃にはK村という漢字の名前が宇出津にあり,私の母親の当時の知り合いにもそれらしい名前がありました。漢字の異なるK村は今でもけっこう宇出津にあるのですが,私は早い段階で,母親から漢字のことを含めて知らされていたと思うのです。K村さんのこととは無関係に。

 疑って掛かるわけではないですが,当初,K村さんのことは余り意識せずにいました。ちょっと事情が違うように感じたのは,平成11年の2月頃のことで,金沢市役所で被告発人大網健二が,私とK村さんを引き合わせたことでした。ただK村さんとはその場で,言葉を交わすこともありませんでした。

 商工会の融資のような話だと被告発人大網健二は私に説明をしていましたが,余り実態のありそうな話には思えませんでした。それでもK村さんは,思い悩んだ様子で,被告発人大網健二を頼りにしていると映りました。しかし,今考えても電話で済みそうな話です。

 印象的だったのは,その時,K村さんが乗ってきたという車の話で,車体が大きすぎて金沢市役所の駐車場には駐車が出来ず,石川県庁の駐車場に停めてきたというような話をしていました。ベンツとは聞かなかったですが,ヨーロッパの外車の大型車のようでした。

 この宇出津のK村さんと姫のNさんは,被告発人松平日出男と前後して金沢市場輸送で市内配達の仕事をトラックの持ち込みで始めたことになります。そもそも被告発人松平日出男というのは,市内配達のトラック運転手の仕事などは知識も経験も皆無の様子で,右も左もわからなかったはずなのです。

 被告発人大網健二の話では,K村さんは以前に,車のブローカーをやっていたという経歴がありました。

 これが被告発人松平日出男との共通する接点になりそうとは考えたのですが,被告発人松平日出男がK村さんと話をする様子は,余り見た覚えがなく,そもそも被告発人松平日出男の姿は麻雀以外に見かけずにいました。

 金沢市場輸送の事務所に被告発人松平日出男の机というのはなかったと思います。昭和63年の9月から平成2年の4月頃までの間のことです。2年以上の間ですが,思い返しても,被告発人松平日出男が机を前に椅子に座って何かをしているというのは見た憶えがありません。

 被告発人松平日出男がどんな車に乗っているのかもわからなかったのですが,平成3年には竹沢俊寿会長が乗っていたベンツに乗るようになっていました。竹沢俊寿会長がシルバーの2枚ドアのジャガーに乗るようになったあとのことと思いますが,けっこう前にベンツから乗り換えていたはずです。

 平成3年の春頃には,ほとんど車の運転をしなくなっていたと思う竹沢俊寿会長です。夫人のエスティマで送り迎えをされている様子でした。会社に顔を出すこと自体,少なくなっていたかもしれません。あのエスティマも一番初期の頃のモデルだったと思います。

トヨタエスティマ - Wikipedia https://t.co/CekszsCCo5 それから約半年後の1990年5月12日に市販化され、その卵をイメージさせる未来的なスタイルで「高性能ニューコンセプトサルーン」として注目を集めた。

 わかりやすい時期のことが書いてありました。平成2年5月12日に市販化されたとあります。そういえば,昨日辺りに被告発人安田繁克と雪のスリップのことを書きましたが,ちょうど同じ頃に,金沢市場輸送の事務所前で,同じく積雪の状態でベンツを移動させたことがありました。

 ギアを高めに発進させたのですが,さすがにすごいパワーだと思いました。それから少しして,雪が降らなくなった時期に,ジャガーにかわったとも思います。ジャガーもけっこう長い間,金沢市場輸送で見かけていた印象があります。おそらく見かけなくなったのは,竹沢俊寿会長の体調悪化なのでしょう。

 もっとも竹沢俊寿会長の健康状態に関しては,ずいぶん前から詐病の疑いもありました。糖尿病で石川県立中央病院に通院していたことは事実のようですが,主治医でもないと実際の健康状態のことはわからなかったと思われますし,疑いの目で見る人もけっこう周りにいた感じでした。

 まだ金沢市場輸送で長崎県の長与農協にミカンを積みに行っていた時期で,昭和63年の正月前後になるかと思いますが,だいたいその時期のことで,金沢市場輸送の運転手の武田さんが,竹沢俊寿社長の還暦祝いに赤いチャンチャンコを贈るような話をしていました。

 昭和63年に60歳だとすると,平成3年の秋には63,4歳と推定されますが,杖をつきやっと歩いている状態となっていました。12月には夫人が介添をするようになっていました。今より糖尿病に関しては,目が見えなくなるとか色々と深刻な話を聞く時代ではありました。

 最後に竹沢俊寿会長と話をしたのは,電話でしたが,平成9年の2月頃のことになります。弁護士を紹介してやるといい,しきりに私に会いたがっていました。電話の声を聞いた感じでは,平成4年当時と変わりがなかったと思います。

 最後に竹沢俊寿会長と会ったのも,はっきりとは思い出せないですが,夕方,外が暗くなった時間に,夫人と二人で食事に誘われたことがあり,そのあとにも1回ぐらいは姿を見たような気がします。

 食事に誘われる少し前には,被告発人東渡好信と浜上さんが,子供のいない竹沢俊寿会長夫妻が,私を養子に迎えて会社を継がせたいと考えている,というような話を私にしたことがありました。真偽はともかく,私より被害者安藤文さんに影響を与えそうな話だとは思いました。

 竹沢俊寿会長夫妻に食事に誘われた数日後とも思うのですが,同じような時間に,被告発人松平日出男の誘いで食事に行くことになりました。被告発人東渡好信と浜上さんもいたと思います。他のメンバーは今思い出せないですが,全部で6,8人だったように思います。

 最初に中橋の陸橋の下の焼き鳥屋のような店に行ったのですが,満席で断られたように思います。車の中に乗ったままでいました。そのあと金沢駅の西口に行き,そこで食事をしたと思います。開発されたばかりの金沢駅西口でした。これも調べれば情報が見つかりそうです。

金沢百番街 - Wikipedia https://t.co/mCRe0qKQY6 合計で100店舗を超えるテナントが集積している。JR西日本の子会社である金沢ターミナル開発が1991年(平成3年)3月20日に開業させた。

 「JR金沢駅西口ビル(あんと 西)」とあるので間違いはなさそうですが,金沢百番街という聞いたことのある名称が,西口とは結びつきがありませんでした。平成3年3月20日開業とあります。

 平成16年か17年に,電話で被告発人梅野博之が意味ありげに,宇出津のNという名前の話を始めました。姫のNさんと同じ苗字ですが,電話帳で調べたところ,同じ小棚木の町内に家があったので,直接,その家を訪ねて,市場急配センターとの関係を確認したということもありました。

 被告発人浜口卓也の場合も,姫に隣接した集落の真脇でしたが,金沢では宇出津の出身と話していたようです。

 インターネットも普及していなかった平成4年以前は,能登の宇出津だと言っても通じないことがありましたが,当時の鳳至郡能都町で役場もあったのが宇出津なので,宇出津と説明をしていても不思議はない話です。

 ただそのときの被告発人梅野博之の口ぶりが,かなりあざとく感じられるもので,気になって調べておくことにしたのです。

 まだ金沢市場輸送にいた頃,そのときも給油機の前辺りでしたが,見慣れない人に声を掛けられ,しばらく話をしたのですが,持ち込みの市内配達をしているといい,松任市で宇出津のK村さんや姫のNさんと同じアパートの部屋に住んでいて,紹介で仕事をするようになったと話していたと思います。

 全体的に記憶の方が薄れているので断定は出来ないのですが,少なくとも姫のNさんと同じアパートの部屋に住んでいるという話で,宇出津のK村さんも一緒のようにも聞こえました。どちらかの名前を出し,「ら」という複数形にしていたのかもしれません。

 ずいぶん変わった名前だったので,今でもよく覚えているのですが,今年の春辺りに名前を検索で調べたところ,七尾市の近くによくある名前のようでした。簡単にはみつからなかったのですが,歴史遺産にもなっているような旧家の名前のようです。

 市場急配センターに移ってからも,裏駐車場で一度は顔を合わせているのですが,その後は姿を見なかったように思います。平成4年の1月4日だったと思いますが,市場急配センターの2階事務所で新年の顔合わせがあり,意外ほど大勢の運転手が一同に集まっていましたが,姿は見なかった気がします。

 持ち込み運転手の場合は特に,用事以外に市場急配センターの会社に姿を見せない運転手がいる様子でした。2t車なので,乗用車と同じ通勤にも使っているので,なおさら顔を合わす機会が少なかったのだと思います。金沢中央卸売市場の仕事もけっこう時間にばらつきのあるものでした。

 姫のNさんが松任市に住んでいることは,最初に被告発人大網健二から魚の移動販売の仕事の話を聞いた頃から聞いていたと思います。松任市としていますが,会話では,「まっとう」とだけ呼んでいました。現在は白山市の一部になって白山市全体の範囲が大きく広がっています。

 平成15年の1月,関係者KYNの会社事務所で彼と話をしたとき,話の最後に彼が姫のNさんとの付き合いを語りだしたのはずいぶん意外でしたが,そこには大きなものが秘められていると感じ,姫のNさんや宇出津のK村さんに対する注目度を大きく高めたことは確かです。

 松波のAKさんとも会うことがなく,どこに住んでいるのかも聞かなかったことも大きな意味があると感じていました。いしかわ動物園のアザラシ館の水槽の基礎工事で,松波のAKさんらしき人の姿を見ていたことも記憶には記述があると思います。人形のように黙って座り,目を動かさなかったのも異様でした。

 色の濃い眼鏡かサングラスを掛けていたので表情は読み取れず,横に3人ほど並んで座り,おばさんも一人いたと思います。少なくとも3人はいましたが,同じような行動なのが演目を演じているようにも感じられました。とても松波のAKさんに似ているとは思いましたが,確信にまでは至りませんでした。

 その人たちは型枠大工のようでしたが,その少し前には松波のAKさんが,被告発人大網健二の兄関係者OSNの鳶職の会社をやめ,型枠大工の仕事をしていると聞かされていました。被告発人大網健二に聞いたとも思いますが,そういう話はしたのに,どこに住んでいるのか話さなかったのが気になりました。

 松波のAKさんの妻とは,平成3年12月21日の夜,片町のオーロラ会館の5階ぐらいの飲み屋で会っています。被告発人浜口卓也に連れられて入った店でした。これも記録には繰り返し詳細に記述してある事実のはずです。

 金沢駅の近くに全日空のビルがありますが,松波のAKさんが被告発人大網健二の兄関係者OSNの鳶職の会社で仕事をしている頃,高い階層から足場組立の材料を大量に落下させる事故があったと被告発人大網健二に話を聞き,別かもしれないですが,太ももに鉄パイプが突き刺さったような話も聞きました。

 金沢市場輸送で姫のNさんと顔を合わすようになってからもほとんど会話をした記憶はありません。不思議なほど寡黙でした。他の誰かと会話をしているのも見たことがないのですが,夕方近くに金沢市場輸送の運転手の休憩室の机で,真剣に伝票の整理をする姿は何度か見かけていました。

 少し言葉を交わしたのは,一度,金沢市南新保の被告発人浜口卓也のアパートで会ったときです。被告発人安田敏も一緒にいました。たぶん被告発人浜口卓也に誘われてアパートに行き,しばらくして姫のNさんが来たように思います。言葉は少なかったですが,ずいぶんと穏やかで思慮深く感じられました。

 これは市場急配センターで市内配達の仕事をしている頃のことで,夕方だったと思いますが,早い時間で16時台だったように思います。それより前に,被告発人浜口卓也のアパートに行ったことは,今のところ思い出せません。そこで姫のNさんに出会ったのは,偶然とばかり考えてきました。

 ここでは特定を避けるため曖昧にしておきますが,共通の友人・知人にKという女性がいて,被告発人安田敏とも関わりのあるTさんと結婚していたのですが,平成元年の1月,そのTさんが松波港で新車の赤い軽四で海に飛び込み自殺をしました。

 平成3年の9月,20日頃だったと思いますが,共通の友人・知人にKという女性が再婚したとか再婚するという話を聞き,再婚相手も金沢市大場町東の被告発人大網健二の家で会いました。そのときも松任市と聞いていたように思います。

 その後,2億とも聞いた保険金の話がありました。億の単位でしたが1億ではなく端数はなかったように思いますが,だいぶん前から正確な金額が思い出せずにいます。3億ではなかったと思うので,2億円の可能性が最も高い気がします。端数のことも完全には否定できないです。

 松任市で重機を扱う会社というような話も聞いていました。保険金の話はある場所で,ある人から聞いていますが,それ以外には一切耳にしたことのない話です。これも知っていることのすべては記録に記述があるはずです。今でも名前は憶えています。

 松波港で新車の赤い軽四で海に飛び込み自殺をしたTさんは,高校卒業後に金沢市場輸送で長距離の運転手をしていたとも昭和59年より前に聞いていましたが,昭和61年の12月頃には免許取り消し中でしたが,再度,金沢市場輸送に入社し,ミールの倉庫移動など一緒に仕事をしていました。