ア. 平成4年3月23日の夜,被害者安藤文さんの自宅に掛けた電話

(ア). 最初に被害者安藤文さんの方から掛けてもらった電話
 この夜の電話のことを,私はずっと夜の22時台で遅い時間だったと考えていたと思うのですが,最初に被害者安藤文さんの方から掛けてもらったことを考えると,私の方で時間指定をしていて20時の可能性が高いと思えてきました。

 この3月23日は,午後だったように思いますが,金石街道沿いの喫茶店で,被告発人松平日出男と被害者安藤文さんの3人で話をしています。その場で,夜に電話を掛けてくれるように頼んだとも思います。

 6月の初めになると思いますが,平成5年11月28日付の手書きの書面を部分的に読んでいたところ,3月23日の夜の電話と,3月5日の夜の電話で,記憶が混同しているように思われる箇所がありました。

 3月5日の夜の電話は,長い通話時間ではなかったと思いますが,現在憶えていることも少なくなっています。

 市場急配センターの会社にいる被害者安藤文さんに電話を掛け,夜に私の自宅アパートに電話を掛けてもらったのは3回だったと思います。10月5日,3月5日,そして3月23日ですが,前述の通り,喫茶店で彼女に口頭で伝えた可能性もあります。

 喫茶店にいるときの彼女は,うなずくような返事以外に言葉はなかったと思いますが,感情を抑えているようにも見えました。電話に出た被害者安藤文さんは,そこ堰が切れたかのように,勢いよく次のように話し出しました。

 「私,広野さんに私の気持ち伝わっとるとばっかり思うとった。」

 それに対して私は,ちょっとふざけたような声で,「なんやそれ?」と言い返しました。逆上というほどではなかったですが,やや感情を高ぶらせ,彼女は次のように言いました。

 「私,広野さんとつきあう気持ちないってこと。好きな人おるって,付きあっとる人おるってこととおんなじことやろ」

 あとで冷静に考えれば,違った解釈というか受け取り方もできたと思うのですが,そのあとの私の言葉で,彼女はすすり泣きを始めることになります。

 ただ,これは私がかけ直した後の会話になると思います。そのまましばらく時間が過ぎ,一度,彼女の母親が電話口に出る感じで,「いつまで話とるが」と軽く注意をするようなことを言い,私の方から電話を切るまで通話が続いたはずです。

 彼女の家の電話は,当時最新に近い電話機で,ワイヤレスの子機があったようです。直接見ていないので想像と推測になりますが,10月12日の電話では,彼女が電話機をもったまま会談を駆け上るような物音が聞こえていました。

(イ). 出先の金沢市久安から掛けているという被害者安藤文さん,両親と話をするつもりで自宅に掛け直すと,すぐに彼女が出た
 昭和の時代のバラエティのようなテレビドラマで,夜に屋根の物干し台のような場面が決まって出てきたと記憶にあったのですが,車が通過する物音も聞こえていたので,彼女はベランダのような物干し台で,外から電話を掛けている様子が感じられていました。

 車が通行する音から外には間違いないと思ったので,どこにいるのかと彼女に確認しました。彼女は久安にいると,答えたと思います。彼女の自宅があると聞く住所から比較的近くには思いましたが,信号待ちもあるので車で5分程度はありそうに思いました。

 彼女が自宅ではなく外にいるということを知ったので,この機会に彼女の自宅に電話を掛け,両親に彼女の不可解な言動について説明し,親としての指導監督を促すつもりでした。

 平成5年11月28日付の手書きの書面では,この久安のことを3月5日の出来事のように書いてあったと思うのです。外にいるはずの彼女が自宅の電話に出たのは驚きでしたが,先日記述を済ませたところの,1月21日深夜の電話でも,午前2時頃に彼女が出ました。

(ウ). 3月28日夜の電話で印象的なのは,電話口に時代劇のテレビドラマの音声が聞こえていたこと
 まだ一月は経っていないと思いますが,宇出津の図書館で平成4年3月の北國新聞縮小版のテレビ欄を調べてきました。今確認はしていないので,やや記憶が不確かともなっているのですが,20時からの放送ということはよく憶えていて,ドラマは「大岡越前」だったと思います。

 ずっと長い間,22時台の電話で,22時台に放送のテレビの時代劇という感覚でいました。今では年に数回しか見かけることがなくなった時代劇ですが,平成4年当時はまだ数が多かったと思います。

 平成4年当時より少し前の年代になるかもしれないですが,たぶん日曜夜10台の放送として,印象深く記憶にあるのが,「必殺仕事人」になります。2ヶ月ほど前になるのか,今年は夏に近い時期に年に一度と思われる放送をみました。「必殺仕事人2020」となっていたと思います。

(エ). 3月23日の夜の電話,のんきのも思えた被害者安藤文さんの母親の声
 さきほど考えていたのですが,他の電話機からの割り込みの声であったように思えます。被害者安藤文さんは,ずっとすすり泣く様子で,ほとんど話しませんでした。

 「彼氏おるんやったら,彼氏だけにしておけや,ほんでいいやろ」などと,私は何度も彼女に確認を求めていたのですが,彼女は答えることなく,その繰り返しのときに母親の声が聞こえたと思います。そして,もう一度ぐらい同じ問いを繰り返し,返事がなかったので電話を切りました。

 当時の最新の電話機の機能は,よくわからないのですが,市場急配センターの会社の電話も新しいもので,2階の事務所と1階休憩室の間の電話機で通話ができました。専用のダイヤルがあったとも思います。

 2階の事務所は電話機が少なくとも被告発人池田宏美,被害者安藤文さんの机にあって,たぶん被告発人松平日出男の机にもあって,被告発人梅野博之の机にもあったと思うのですが,電話番号は1つだけでした。

 その割に話し中というのが余り記憶になく,1つの電話番号で一度に複数の通話ができたのか不明です。1階休憩室の電話は,余り鳴ることがなかったとも思います。

 その1階休憩室の電話で,唯一外部からの電話で,電話を取ったと記憶にあるのは,3月の最後の日曜日の午前中,被告発人安田敏に掛かってきた女性の電話でした。顔を合わせても話はしていなかったと思いますが,その場で被告発人安田敏と二人だけで居合わせたのも気になる偶然です。

 電話口で娘がすすり泣いているのに,母親が側にいて動揺しないというのもおかしなことと思っていました。すでにその前の電話で,彼女の母親が私に対して,警戒感を示す態度を見せることがありました。1月25日かと思います。

 2月の半ば過ぎにも一度,被害者安藤文さんの自宅に電話をしていると思うのですが,そのときは1月21日の夜以来,2度目に父親が出て,このときは被害者安藤文さんに対して,怪訝を向けた様子で,電話に出るのか確認をしている様子が伝わりました。

 平成5年の5月か6月と思う,控訴審で,判決前最後となった審理で,被害者安藤文さんの母親と思われる女性の姿をみました。出入り口前の一番後ろの席で,安藤健次郎さんと一緒に座り,ずっとうつむいたまま泣き続けている様子でした。

 たぶん,被告発人小島裕史裁判長は,その審理の公判で結審をする腹づもりだったとも考えられるのですが,次回判決という告知はありませんでした。

 その3月23日の夜の電話は,それほど長くなっていなかったと思うのですが,11月25日の夜の電話か,10月12日の電話がかなりの長電話となっていました。やはり10月12日だと思います。それも遅い時間に掛けた電話でした。私の自宅アパートに掛かった無言電話がきっかけです。

 彼女の母親の声は,「いつまで話とるがぁ」でしたが,不満をぶつけたものの優しい声でした。なにか他に電話が掛かるとか,そういう用事があったのかもしれません。

 そういえば,一度,彼女の自宅の電話で,会話中に他から電話が掛かり,切り替えをするような話が出たかもしれません。これはずっと眠っていた記憶で,それも曖昧模糊としています。

(オ). 今から東力2丁目の自宅アパートに来るようにいうと,「行ける,行けるけど,今日は行けん」と答え,理由を問い詰めると「怖い」と答えた
 彼女の生活ぶりというのは,実際よくわかっていなかったのですが,2月中に,小杉インターと富山インターの間にある呉羽パーキングエリアから掛けた電話での,彼女の二面性を強く印象づける言葉が大きくありました。

 彼女の反応を試すという目的で,「お前,今から俺のアパートに来い。一発やらせるか,土下座をせい」などと申し向けたのです。これも繰り返し問いただしたのだと思いますが,時間が経ってから「行ける,行けるけど,今日は行けん」と彼女は答えました。

 そして理由をたずねると,これも時間をおいて「怖い」と答えました。私は,「怖くさせたん,お前やろ,怖けりゃこんでいいわい。彼氏おるんやったら彼氏だけにしておけや。彼氏かわいそうやろ。」などと説教をする感じでいいました。

 私は彼女と関わることで,危機感を募らせるようになっていました。一方で,私がこの電話で終わりにするという趣旨の「ほんでいいやろ」という確認に対して,彼女は最後まで返事をしなかったことで,やはり彼女のいう彼氏が,最初から自分のことなのかとも考えました。