イ. 平成4年3月23日の夜の電話を終えてから同年4月1日の傷害・準強姦の日を迎えるまでの状況

 3月24日から3月31日になりますが,4月1日の午前中までは,彼女との関係がそれまでになく良好で穏やかだったと思います。3月23日の喫茶店でも,彼女は何か反省をしたような様子でした。紺色で地味目のよそ行きの高そうな服を着ていたことも印象的でした。

 平成5年11月28日付の手書きの書面を見れば細かく確認できることもあるのですが,今は自分の記憶のまま,わかる範囲のことを記述していきます。この間に運行は3回あったと思います。

 3月29日が日曜日だとcalコマンドで確認しました。土曜日の夜は関係者KYNの黒田二丁目のマンションに遊びに行き,そのまま朝まで寝ていました。起きたとき仕事に出たと聞いたので,すぐに出て自宅アパートに戻りました。

 calコマンドのカレンダーをみると,24日から26日の運行,26日から28日の土曜日までの運行,休み明けの30日から4月1日までの運行があったものとわかります。

 26日の運行というのが,今ひとつ記憶がはっきりしないのですが,浜上さんと高岡市中越パルプ工業で荷物を積み込み,昼の明るい時間に有磯海サービスエリアで一緒に食事をしたのが,この運行の時になるのかと思われます。

 とりわけ印象に残るのが,24日に出発したと思われる加賀市から宇都宮市への運行でした。

 3月30日に出発した市場急配センターで最後となった運行は,行きの荷物の記憶はないものの,茨城県古河市の山三青果に着いてからのことは,割合鮮明に記憶に残っています。そこで4月1日に,夕方仕事が終わってから会うという約束を電話でしました。

(ア). 加賀市大聖寺大同工業から栃木県宇都宮市に荷物を運んだ運行
 大同工業はオートバイのチェーンで有名なメーカーでしたが,最初に加賀市の会社だと知ったのも驚きでした。昭和60年に中西運輸商の仕事で初めて行き,熊本県阿蘇山の麓のような場所まで荷物を運んだのも印象的によく憶えています。

 前にネットで調べたところ,正確には大聖寺ではなく,加賀市熊坂が住所になるのかもしれません。ただ,私の記憶では大聖寺の町中にありました。

 加賀温泉郷の片山津温泉山中温泉,山城温泉に比べ,知名度は低そうですが,市役所もある加賀市の中心部が大聖寺と聞きます。大聖寺藩という藩政の歴史もあるようです。

 昭和20年代,戦争中の軍事工場のように見えたのも印象的な大きな工場でした。古い建物に見えたので,実際に軍事工場として使われた歴史もあったのかもしれません。石川製作所では,爆弾や魚雷の荷物を金沢市場輸送に続き,市場急配センターでも運んでいました。

 この運行の時は珍しく,市場急配センターの会社に立ち寄らないで,そのまま宇都宮市に向かったと思います。会社では事前に運行費をもらうのがいつものことだったと思います。加賀市に荷物を積みに行くときにもらっていたのかもしれません。

 宇都宮市でのこともいくつか少し記憶に残っています。会社の名前が政治団体のようだったので印象に残っていたというのもあります。平成5年11月28日付の手書きの書面でもその会社名が出てきて,少し驚いたのですが,そのしばらく前にネットの検索で社名は探し出していました。

 昼に宇都宮市内の書店に立ち寄り,恋愛の本を手に取って少し読んだことはよく憶えていたのですが,平成5年11月28日付の手書きの書面には,ほとんど思い出せないようなことが書いてありました。

 市場急配センターで加賀市大同工業に行ったのは,一度しか記憶になかったのですが,平成5年11月28日付の手書きの書面によると,往復の荷物だったというのです。帰りに運んだのが空タックなどとなっていました。それ以前の記憶でも荷物はホイールだったと思っていました。

 ホイールと聞いていましたが,乗用車やトラックのホイールではなかったとも思います。ラックに載せて運ぶホイールだったのでしょう。なんとなくは憶えていますが,特殊そうなものに見えたと思います。

 平成5年11月28日付の手書きの書面では,さらに驚くことが記述されていて,同じ宇都宮市行きの仕事を前にもやって3月24日の運行は2度目だったというのです。私は3月24日を間違って2月24日としていることも,最初は考えていました。

 けっこう細かく事実が書いてありましたが,それでも隙間のようなものがあって,思い出すこともできずもどかしさを感じていました。前にも同じ仕事で宇都宮市に行っているとすると,2月24日の可能性があるようにも思えてきました。

 たぶん2月24日というのは,運行上は,愛媛県松山市の近くで積み込んだイヨカンの荷物を,新潟でおろしたことになっているはずですが,夜中に新潟で荷下ろしをして,夜中の2時か3時頃には金沢に戻っていました。

 このときも諸江の24時間営業のような酒屋のコンビニのような店で買い物をし,市場急配センターの会社に戻ってから1時間ぐらいは,大型トラックの運転席で,被告発人多田敏明と話をしていたはずです。新潟への運行に彼を同乗させていました。

 今,業務日報で確認したところ,2月24日から26日は,確かに協共でホイル,宇都宮となり,帰り荷が石灰で,丸一が荷主,栃木から七尾となっていました。小杉インターで降りた領収書が8,400円となっています。

 ちょうどその頃に,栃木県内で石灰を積んで七尾市に向かったとき,関越トンネルで通行止めに遭遇し,大渋滞で七尾市に着いたのが夕方近くということがありました。

 午後になっていたと思いますが,大渋滞から抜け出し,関越道に乗ったのは,はっきり思い出せないですが,越後川口インターの辺りだったと思います。今,Googleマップで場所をみると,小千谷市の近くでした。

 小千谷市の次が,北陸自動車道との分岐点にもなる長岡市になります。余り思い出せないのですが,これを見ても関越トンネルだけの通行止めではなく,湯沢インターから次に通行止め解除に関越道のインターに乗るまで,早朝から午後まで時間が掛かったように思います。

 他の領収書をみていると,2月13日に富山インターで降りたのが10,800円となっていました。山三青果の仕事なので,この時期なら群馬県の高崎インターから乗っていた可能性が高いと思います。

 栃木から七尾市に向かったときは,富山インターの一つ先の小杉インターで降りています。その料金が8,400円だと,通行止めに遭い新潟県内の関越道のインターから乗っていた可能性も出てきそうです。これはいずれも大型車の料金になります。

 以前,この2月下旬とも3月上旬の運行とも考えていた,我孫子警察署で大型車の通行許可証をもらった運行が,運行日報の記録で,2月13日付の通行許可申請書を確認しています。午前2時から午前10時までともなっています。

 2月12日付として花園インターで降りた領収書が11,050円となっています。日付が変わる前に降りていたようですが,当時の高速道路の領収書に時間の刻印はありません。これもどこのインターから乗ったのか気になっています。

 ふと,給油の領収書を見たところ,3月1日付で,「R-8カナザワSS」となっていて,時刻は13時30分となっています。今頃気がついたのですが,太陽鉱油のカードは,市場急配センターではなく金沢市場輸送のようです。「カナザワイチバ ユソ」となっています。

 運行が2月28日から3月1日となっていたので,これもcalコマンドで確認したところ平成4年は2月が29日までありました。太陽鉱油の領収書は国道8号金沢という意味の記載でしたが,場所はほとんど河北郡津幡町で,検問所の近くだったと思います。

 13時30分に津幡で給油となると,高岡市中越パルプに荷積みに向かっていた可能性があります。道も混む昼に津幡に給油に行ったことは少なく,一度だけ,急に入った仕事で北陸ハイミールから七尾市に向かうときに,立ち寄り給油をしました。能瀬からの電話の時です。

 市場急配センターの業務日報と領収書ですが,被告発人松平日出男は見つからないといって3月分は渡してくれませんでした。

 2月28日から3月1日の業務日報には,荷主が「北都ん」となっています。運行指示書にも同じ「北都ん」とあるのでまねたのかもしれないですが,おかしな書き方です。それに北都運輸ならば,前年7月の7月頃には,倒産したと新聞に出ていました。

 積み荷と思われる「品名」の項目が,「B脂」とあり,小松市からの積み込みとなっていますが,これはよく憶えている仕事でした。食肉の工場に皮を剥いだ大きな牛が上からぶら下げられていました。けっこう衝撃の光景でした。

 運行指示書には大宮,業務日報には埼玉県大利根とありますが,この多分牛脂の荷物の卸先は,東北自動車道を走行中に見える工場であったように思います。たしか地名が羽生などとなっていたように思います。

 そもそも大宮というのが,東北自動車道からは離れているのではないかと思います。大利根というのは聞いたことがありますが,調べてみないと場所がわかりません。

 Googleマップで検索しても大利根という地名は見当たらないものの,情報が加須市に集中しています。その加須市の左上には羽生市が見えました。

 国道125号線が,栗橋で国道4号線にぶつかっていますが,その辺りもよく通行する道路でした。馬鈴薯を運んだ東京の大田市場から古河市に向かうときも,栗橋で国道125線から国道4号線に出ていました。

 加賀市大同工業で荷物を積み出発してからは,国道8号線沿いの北陸食堂で食事をしたように平成5年11月28日付の手書きの書面には書いてありましたが,被告発人多田敏明を連れて,岐阜県大垣市から石灰を積んできた帰りも,北陸食堂に立ち寄ったようなことが記述されていました。

 ざっと2月の業務日報に目を通したところ,2月14日に大阪の本場市場に行き,空荷で戻っていたのも意外でしたが,その次の運行の出発が2月17日となっていました。

 その2月17日の業務日報には,小林運送の仕事で,豊橋から小松・金沢となっていますが,渥美と書いてあったところに訂正線が入り,下に豊橋と書き込んであります。空荷で向かった運行になりそうですが,名北の市場で馬鈴薯をおろしたあとに向かったものと考えていました。

 平成5年11月28日付の手書きの書面では,栃木県での石灰の積み込み先を,葛生町と鍋山に分けていました。今,Googleマップで確認すると鍋山が栃木市だったのは納得したのですが,葛生町佐野市になっているのは,ちょっと驚きでした。当時は郡部だったような気もします。

 そういえば阿蘇に似た漢字の郡部があったことを思い出しました。調べたところ「安蘇郡」とあります。読み方まで熊本県阿蘇と同じ「あそ」ぐんのようです。

 宇都宮市内から石灰を積みに向かうのに,どの道を通ったのかも気になるところですが,余り記憶にはないものの一度だけ,佐野市内とは,逆方向から向かったような記憶は漠然ですが,あったような気もします。

(イ). 協共運送の仕事だった加賀市大同工業から栃木県宇都宮市への運行
 業務日報にも荷主が「協共」とあるのですが,協共運送のことだと思います。あるいは協共運輸かもしれないのですが,河北郡津幡町の国道沿いにある運送会社でした,立ち寄ったことはなかったですが,広い道路で会社の前を通過したことはありました。

 金沢市場輸送の藤田さんが再就職先としたと聞いていた運送会社になります。平成5年11月28日付の手書きの書面に協共運送の仕事で宇都宮市という記述を見たとき,ちょっと驚いたように思います。

 協共運送のことで強く記憶にあるのは2月の初めの九州,福岡市への運行でした。九州に協共運送の営業所があるらしく,九州自動車道から何度か電話を掛けさせられていました。

 福岡県の福岡市と久留米市の間で佐賀県になる鳥栖市は,九州の交通の大きな分岐点となり,長距離トラックのガソリンスタンドが多く,トラックステーションもある場所でした。中西運輸商でも帰りの荷物待ちで,よく連絡待ちで待機をさせられていた場所になります。

 それだけに思い出の場所でもありましたが,一晩泊まるといたたまれなくなり,私は被告発人松平日出男に空車で帰ると言って,九州自動車道に乗ったのです。鳥栖インターから太宰府インターがあって,その先が福岡インターだったと思います。

 その太宰府インターと福岡インターの間の辺りに,パーキングエリアがあって,被告発人松平日出男の強めの指示で,そこから協共運送に電話を掛けさせられていたのですが,中西運輸商のとき一緒だった運転手が,代わる代わる電話口に出ました。

 一人は口髭と顎髭がつながった人で,よくある名前の人でしたが,福岡県大牟田市に家があると聞いていました。もう一人は,九州出身なのか憶えておらず,関西弁だったと思うTさんでした。

 当時の石川郡野々市町に大きな立派なマンションがあって,飲み屋のママらしい女性と同棲をしていて,一度遊びに行ったことがありました。女性とあったのもその場が初めてだったと思います。

 そのあと平成2年か,あるいは平成3年の春先になるのか,一度,国道8号線沿いから少しだけ離れた小さな工業団地のような場所,当時の能美郡,現在の能美市になる川北町と思います。そこに仕事に行ったとき,行った先の工場で,Tさんに出会い,驚いたことがありました。

 同じ工場か確認できませんが,ちょうど同じ工業団地にある工場が,オウム真理教の教団に買収され,アジトのようになっていたと,何かの情報で知りました。

オカムラ鉄工乗っ取り事件 - Wikipedia https://t.co/qpW4aHqD04 社長は教団の在家信者で、教祖の麻原彰晃に相談したことから、
教団が経営に関与することになった。麻原は「2ヶ月で無借金経営にする」と豪語し、1992年(平成4年)9月14日に自らが社長に就任 した。

 社長がオウム真理教の在家信者という情報は初めて見たように思います。穴水町に別荘地があって,国道249号線からは離れているので,滅多に通る場所ではないのですが,そこもオウム真理教で死刑を免れた主犯格の医師の潜伏先だったという情報を見かけています。

 オカムラ鉄工は,川北町ではなく寺井町とありました。そもそも川北町には工業団地がないのかもしれず,工業団地という名称は記憶にないのですが,国道8号線が間近に見える場所に,工場がいくつかあって,工業団地らしい感じにはなっていました。

(1) 麻原を石川県で見た! オカムラ鉄工 岐部哲也、林郁雄逮捕 松本剛 - YouTube https://t.co/RBnBhmOZTq

 今,Googleマップで寺井町を調べてみると,驚くほど狭い範囲でした。昭和61年には,朝のマルエーの鮮魚の配達で,松任店,美川店,そしてこの寺井店が毎日の配達先でした。手取川から小松市側になるようですが,手取フィッシュランドの住所も能美市粟生町となっています。

 今は白山市となっている松任市ですが,松任市小松市の間には,海にも面した美川町と,国道8号線から山側の寺井町が,知名度の高い地名としてよく見聞きしていたものです。道路の標識にも美川と寺井がよくありました。

 中西運輸商でメインの仕事だったのは佐川急便の広島・九州便で,福岡市内には福岡店と,東福岡店がありました。九州のコードは01から09だったと思いますが,東福岡店は014などとなっていたように思います。

 福岡店は太宰府インターで降りて,福岡市内に戻るかっこうで,国道3号線沿いの右手にありました。金沢市場輸送で多かったトナミ運輸の福岡便も,その先になりますが,福岡市内に入った頃の左手に,九州西武運輸の会社があり,そこで荷下ろしをしていました。

 佐川急便の福岡店は,九州全域の荷物の中継点となっていて,東福岡店は福岡市内の配達を拠点としているようでした。中西運輸商で,帰り荷として荷物を積んだのは,東福岡店になります。住所は思い出深くもある箱崎になっていたかもしれないですが,国道3号線よりは山側でした。

 もともと中西運輸商で一緒だったYTと藤田さんは,中西運輸商がやっていた広島・九州便を奪い取り,自分らが配車をするという目的を明らかにし,そこで選んだ運送会社が,なじみでもある私が運転手をしていた金沢市場輸送になります。

 金沢市場輸送を退社したあとの,再就職先が,YTは守田水産輸送の子会社であった金沢市示野に事務所があるという都商事,藤田さんが河北郡津幡町の協共運送という違いはありました。

 この話は,もともとあのワンマン社長の中西運輸商から仕事を奪うという点で引っ掛かりがあったのですが,平成2年2月の初めに福岡の協共運送の営業所に電話をさせられた時点では,目的を達成したのかと思える状況でした。

 なお,私は一度だけ,金沢市場輸送の保冷車7599号で,中西運輸商の下請けとして,佐川急便の九州便をやったのですが,当時,戦前の軍隊のような教育が徹底していた佐川急便では,会う佐川急便の社員すべてに挨拶をするという決まりで,金沢市場輸送の運転手は端から相手にしていませんでした。

 今では全く情報を見かけないので,知らない人が多そうですが,当時の佐川急便というのは,軍隊式の過酷な労働で有名を馳せていました。私が長距離の仕事をしていた昭和60年は,ちょうどその分岐点で,山口支店にも査察が入り,しばらく待機するように指示を受けたことがあります。

 もう少しあとには,大きな政治問題となった佐川急便で,当時の創始者でカリスマ的存在とされた佐川急便のトップが,金沢市内の女友達を車で送迎した病院で,裁判所の追及を阻止していたことは,金沢刑務所の拘置所にいるときに,ニュースで見たという記憶もあります。

 時刻は21時41分になります。台所で午後に冷蔵庫に入れ,半解凍状態となっていたキンキを焼いて食べたのですが,思い以上の期待外れで,まるで赤魚でした。アメリカ産となっていたので,余り期待はしていなかったのですが,250gぐらいはあったので,いくらかの期待はありました。

 事前にネットで調べたところ,アメリカ産というキンキは,アラスカ産の可能性がありそうです。キンキはロシア産の冷凍もあるという情報でした。アジやサバもそうですが,近年は脂の落ちた魚が目立っているとも感じるところで,地球規模の環境の変化になるのかもしれません。

 今日もどんたく宇出津店では,銀ダラの弁当が半額で1つだけ残っていて,最初に手に取ったのですが,あとにはコンブ巻きのサバの寿司に寿司に交換しました。値段も半分ぐらいだったと思います。鮮魚には石川県産の鱈の切り身も目立ったので,確認をしたのですが,やはり銀ダラとなっていました。

 YTが私に金沢市場輸送で中西運輸商の広島・九州便を引き継ぐため配車係をしたいと連絡を寄越した頃,一度,彼の自宅に行ったのですが,それも松任市の外れで川北町に近い,オレンジ団地という振興の住宅地の集合住宅でした。

 以前の検索では情報が出てきたのですが,今,Googleマップでオレンジ団地を検索すると,情報が見つかりませんなどと出てきました。

 Googleで「松任市 オレンジ団地」,「石川県 オレンジ団地」と検索をしても情報が見つからなくなっているようです。Twilogには情報が残っていると思います。

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> 団地といっても、大きなところではなく、公設の住宅とも聞いてはいなかったように思うのですが、名称が変わっていたので、よく憶えています。まだ調べたことはないのですが、「オレンジ団地」と聞いていました。あるいは平仮名で「おれんじ団地」とも考えられます。

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> Googleマップでは、「オレンジ団地」としても「おれんじ団地」としても該当はありませんでした。全国的に見れば、ありそうに思っていたのですが、思っていた以上に珍しい名称だったようです。

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> Googleで、オレンジ団地や白山市松任市との組み合わせで調べましたが、それらしい情報は見つかりませんでした。当時の松任市の最果てのような場所で、新しい建物だったことも記憶に残っています。

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> Googleマップでそれらしい場所を見ていると、先ほどの検索結果で少し見かけていた「信開ウェラコートオレンジ」というのが出てきました。ただの建物の名称だと思っていたのですが、新開オレンジマンション、A棟、B棟が隣接しています。通称がオレンジ団地だったのかもしれません。

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> YTが金沢市黒田に住むようになったのは、そのあとだったのかもしれません。オレンジ団地の住所は源兵島町になるのかもしれません。聞いたことはない地名ですが、道路標識としては見かけていたような気もします。

刑事告発・非常上告_金沢地方検察庁御中(@kk_hirono)/「オレンジ団地」の検索結果 - Twilog https://t.co/pogz84nhto

奉納\さらば弁護士鉄道・泥棒神社の物語(@hirono_hideki)/「オレンジ団地」の検索結果 - Twilog https://t.co/XosVt14JWg ツイ ートが見つかりませんでした

 もう8年ほど前になると思いますが,昼に宇出津新港の堤防の先端近くの曲がり角付近で魚釣りをしている人と,会話をしていたところ,YTの運送会社で運転手をしたいたという話を聞きました。余り記憶に残っていませんが,釣り道具の小物がとても多かったことが印象に残っています。

 記憶が薄れているものの,YTが経営する運送会社は,金沢市内でも木越の近くと聞いたようにも思います。木越というのは金沢東インターの近くで,その後に瑞樹団地という住宅地もできていますが,佐川急便の近くでもありました。

 被告発人安田敏が私に,金沢市場輸送の山田さんがその後に始めた運送会社で,しばらく働いていたというのも,場所が木越という話でした。運送会社があるような場所として考えられたのは,木越でも河北郡内灘町との間で,ちょうどその辺りには被告発人浜口卓也の浜口商運の会社がありました。

浜口商運 - Google 検索 https://t.co/f0pI29A2q9

 数年ぶりに浜口商運で検索をしてみると,以前と同じような求人募集の情報だけが集中して出てきましたが,代表者の名前は見当たらず,以前と同じような建物の写真は見当たりました。もう何年前かと思いますが,当時と変わらぬGoogle検索の結果になります。

大網商事 - Google 検索 https://t.co/iHU3nsnA9l

 大網商事でも同様に検索をしてみたところ,2件ほど以前と同じような求人募集の情報が出てきましたが,2015年11月辺りの情報で止まっているようです。被告発人大網健二の兄,関係者OSNの鳶職の有限会社になります。

 2月3日に出発した市場急配センターでの九州福岡市へのミールを運んだ運行は,事前の2月1日に被告発人安田繁克が不自然な参上をしたこと,当日の2月3日に,被害者安藤文さんが裏駐車場の駐車をやめたことなどでも,私に大きな影響を与え,綿密に練られた計画性を窺わせる重大な事実です。

 はっきり指摘をしておきますが,中西運輸商で私に掛けられた保険金が目的で,一連の被害者安藤文さんを被害者に巻き込んだ私こと廣野秀樹に対する保険金目的殺害の計画性がありうるところであり,徹底した捜査は,もうずっと昔に御庁つまり金沢地方検察庁にもお願いをしたいたはずです。

 YTについては,被告発人安田敏とも私の東力のアパートで直接出会った面識がありましたが,その後に聞いた話では,被告発人浜口卓也とも商売関係での付き合いがあり,一緒に飲みに行ったというような話も聞いていました。

 この殺人計画が仮に事実であるとすれば,悪質の極みであり,関係者全員を無期懲役刑に処するべきだと,前にも書いたように思いますが,改めて申し添えをしておきます。重ねておきますが,二度と社会に戻ることのない無期懲役刑になります。

 ことの重大さに比較し,確証を持てないのでYTのことは,仮名としてきました。確証が持てず,被疑者だと決めつけられないのも事実になります。被告発人安田繁克のことなど接点はありますが,間接的な関与になるので,重ねておきますが,殺人計画の共犯者とは,はるかに断定ができません。

 明らかに虚偽の事実を私に吹き込んだと思われる被告発人浜口卓也とは事情も違います。被害者安藤文さんが被告発人安田繁克と交際していたという事実ではない可能性の高い話を,弁当の具体的事実を交え,私に最初に吹き込んだのが被告発人浜口卓也になります。1月21日の夜のことです。

 何のためにありもしない事実をでっち上げたのかという疑惑から始まる問題になりますが,本件殺人未遂事件としての真相解明には欠かすことのできないのが被告発人とした被告発人浜口卓也のことで,これは被告発人大網健二との関わりも大きなものとなります。

 その後の関係は全く確認をしていませんが,被告発人大網健二は,ちょうど一年ほど前の昭和59年4月頃の金沢市場輸送の入社と同じく,少し期間は短く6月頃までだったと思いますが,私の紹介で中西運輸商に入社し,4トン車で長距離運転手の仕事をしていました。

 金沢市場輸送の竹沢俊寿社長は,私に中西運輸商の社長の窮地をお金で救ってやったと私に何度か話したことがあり,その中西運輸商の社長,中西富も私に対して,金沢市場輸送の竹沢俊寿の話題で,意味ありげな苦笑いの表情を見せたことがありました。七尾市石崎町出身という中西の社長になります。

 中西運輸商では生命の危険を感じる運行が普通にありました。当時は若気の至りというのか,あえてその今で言うブラック企業性に飛び込んでいた私ですが,事故死で保険金が入る可能性が高いとして,会社で保険金を掛けられていた可能性はあると思います。警察,検察では確認済みのこととも思います。

 中西運輸商はそのブラック企業性と事故の多さで,佐川急便の広島・九州便から切られたと聞いていました。九州の運転手が大半以上だった中西運輸商ですが,終わりの頃は,今で言うブラック企業性で,大きな暴力団から脅しを掛けられていたという話もありました。

 身内思いで近親愛が強いとも感じた七尾市石崎町出身の中西運輸商の社長,中西冨になりますが,稼げるときに思いっきり稼いで,その後は稼いだ金で悠々自適の生活をするという人生設計が,当時は社会経験が乏しかった私にもうかがえるところの公明正大な露骨さがありました。

 一枚かんだのは後発の被告発人松平日出男だった可能性もありそうに思えるところがあります。被告発人松平日出男も中古車販売の経営の経験とともに,車の保険に関しても精通していたらしく金沢市場輸送の保険の問題も一手に担当していた様子です。能生町と北九州の事故のことがありました。

 これも過去の記録では再三指摘してきたところと思います。中西運輸商の延長上に保険金目的の私に対する殺人計画があり,それに被害者安藤文さんが巻き込まれた可能性というのは,徹底した捜査と事実であれば苛烈を極める無期懲役刑の処罰が金沢地方検察庁に求められる公益性になります。