(イ). 昭和58年,被告発人安田敏が入院していた金沢西病院

 市場急配センターの会社の近くの病院ということで思い出したのですが,国道8号線バイパス藤江陸橋の側に金沢西病院がありました。今年の3月金沢に行ったとき,病院の前を歩いたのですが,建物は新しくなっていました。

 昭和58年当時はかなり古く見える建物の病院でした。目立つ場所にあったので憶えていますが,病院の中に入ったことはありませんし,他に病院の話を聞くこともなかったと思います。

 被告発人安田敏と再会したのは宇出津の先輩の家で,8月の終わりだったと思います。そのときに金沢のアパートに遊びに来るように誘われ,9月に入ってすぐに遊びに行き,そのまま居候のような生活をすることになりました。それが金沢市観音堂のアパートです。

 当時,観音堂には運転免許センターがあり,多くの若者が集まる場所でもありました。金石街道から入ると,左手に運転免許センターがあり,そのまま道沿いに行くと,T字路に突き当たったと思います。

 そのT字路を左折するのも右折するのもよく通った裏道だったのですが,右折すると高畠から金石に行く犀川沿いの道路がちょうど犀川を渡った辺りに出たと思います。そこを右折してすぐの辺りではなかったかと思います。被告発人安田敏には板金屋と聞いたように思います。

 その前を通りかかったと頃に被告発人安田敏が話をしていたのですが,前に仕事をしていた職場で,そこで指を切断するという怪我をし,金沢西病院に入院していたという話でした。指に肉をつけるためお腹に縫合していたとも話していました。

 その大怪我でまとまったお金が入ったらしく,100万円ぐらいと聞いたようにも思います。そのまとまったお金が入ったことで,仕事をせず毎日遊び回っていたところに,私が転がり込むことになったわけです。

 私は大怪我でお金をもらったという経験がないのでよくわからないのですが,この保険金のようなものが被告発人安田敏の成功体験になった可能性はあるかもしれません。岐阜へ出稼ぎに行った後の失業保険についても似たような話をしていました。出稼ぎだと降りるのが早いとか。