キ. 平成5年11月28日付の手書きの書面で見つけて思い出した,被告発人安田敏の追突事故の被告発人東渡好信の口利き


 5月中だと思い込んでいた金沢西警察署刑事課強行主任からの最後の電話ですが,電話があったのが6月4日と,この前,確認して驚いたのです。平成5年11月28日付の手書きの書面を読み出したのもその2,3日前と思います。

 被告発人東渡好信については,平成3年の2,3月になるとほとんど会社で姿を見かけなくなっていたという印象が強く残っていて,何を考えているのかわからない様子で,精神異常者を装う素振りも感じられました。

 そんな被告発人東渡好信を浜上さんが心配をしていたのですが,余り会社に来なくなって,別に仕事を始めるようなことも話していたようです。ある程度,具体性のある仕事内容だったと思いますが,これも今は思い出せない状態です。

 3月のいつ頃かは憶えていないものの,被告発人安田敏が追突事故に遭ったという話をし,示談金をせしめるようなことも話していたと思います。私がその場で,「首を切り落としたら直るぞ」と被告発人安田敏に言ったようなことも少し憶えています。市場急配センターの一階,休憩室でのことでした。

 そういえば,平成5年11月28日付の手書きの書面を読むと,その追突事故の示談金のようなもので,被告発人安田敏が新車を買ったとなっていました。この新車のことはずっと忘れることなく憶えていました。車種も特徴のあった車です。

 この被告発人安田敏の新車のことは,3月でも初めの方だと記憶にあります。150万円で購入したという話でしたが,私に前借りした50万円も満足に返済せず,2月14日の午後には,私が叩き返すような感じで,20万円あるいは25万円を完済したのです。

 もしかすると30万円かもしれないのですが,20万円から30万円の間であったことは確かです。その場で北國銀行中央市場支店に行き,ATMだと思いますが引き下ろしてきました。そして,市場急配センターで被告発人池田宏美に渡したと思うのですが,その場面は余り記憶に残っていません。

 追突事故の相手は女性とも被告発人安田敏は話していたように思います。30歳ぐらいの女性で,ちょうど被告発人安田敏の妻と同じ年頃の女性を想像していました。その妻の年齢も聞いていたと思うのですが,同級生か,それともいくつか年上と聞いたように思います。

 平成4年の3月頃私は27歳だったので,二つ年上で12月生まれという被告発人安田敏は29歳ということになります。そういえば供述調書にも29歳と記載があったように思います。30歳というのが当時の記憶にあるので,妻の年を30歳と聞いていたのかもしれません。

 ただ被告発人安田敏が追突事故でもらったというお金は,30万円か多くて50万円と聞いたように思います。怪我をしている様子などなく仕事をしていたので,100万円など請求すれば,恐喝で警察に相談されていた可能性,リスクもありそうな気がします。

 被告発人安田敏は平成3年の5月から市場急配センターで仕事をしていたはずですが,50万円の前借りをようやく支払うようになったのが12月でした。これは被告発人池田宏美が,心配そうに私に話してきたことで,2階事務所,被害者安藤文さんもその場にいました。

 被告発人安田敏の不可解な言動は,被害者安藤文さんに対しても欺罔の手段として最大限利用されていたはずです。

 市場急配センターの長距離,大型運転手の給料は,固定給で月50万円となっていました。ただ,手取りで40万はもらったことがなかったとも記憶にあり,金沢市場輸送では手取りで43万円もらったことがありました。離婚していたので引かれる税金の額が違っていたことは確かです。

 被告発人安田敏が市場急配センターで本格的に大型車の長距離の仕事を始めたのは10月になると思います。9月中は似たようなこともやっていたはずですが,たぶん長距離に出る回数も少なかったと思います。

 市場急配センターの給料は25日締めの翌月5日払いとなっていたと思います。支払日はよりはっきり憶えているものです。50万円もらえなかったと被告発人安田敏が不満を言っているという話を聞いた憶えがありますが,本人の言い分などは余り憶えていません。

 5月に50万円の前借りをして12月まで全く支払いをしなかったという話ですが,見かねた被告発人池田宏美が被告発人安田敏を説得し,いくらか給料から天引きで返済に充てるという話でした。当時は余り気にしていなかったのですが,会社がそこまで猶予しているのも疑問でした。

 平成4年というのはすでにバブル景気が終わって不景気になったという情報もネットで見かけるのですが,少なくとも石川県の金沢では,景気の後退で仕事が減るような話を聞くことはなかったと思います。

 そのバブル景気ということで,運送の仕事はいくらでもあると言われていたのが平成2年のことですが,同時に運転手不足が深刻で,運送会社の間で運転手の取り合いにもなっており,協定が必要と竹沢俊寿会長が言っていました。月に6休と聞いたのも同じ頃と思います。

 金沢市場輸送では,荷物を積んで運んだ距離数だけだった歩合が,売り上げも計算に入れたものに給料計算の変更がありました。はっきりいってまるっきりわけのわけらないような給料明細になったと思っていました。

 市場急配センターも同じですが,長距離には運行費という食事代が支給され,税金の対象にもならないという話でした。名古屋,大阪の記憶はないですが,関東便だと4千円でした。

 名古屋でも2千円は出ていたような気がしますが,夕方6時か7時に出発をして,夜中の2時頃には空車で戻ることが多かったので,まるまる小遣いのようなものでした。

 運転手の確保ということで被告発人安田敏が甘やかされている可能性も考えていましたが,50万円の固定給というのは条件がよかったので,募集すれば運転手はいつでも充当できそうでした。仕事内容も,他よりだいぶん楽だったと思います。

 名古屋からの空車のときも全線で高速代が出ていました。これはカード払いになるので現金の支払いはありません。有料道路は立替払いでした。金沢市場輸送でも首都高や阪神高速は使用に制限がなかったですが,他の運送会社ではそうでもないという話でした。

 ただ,市場の仕事と言うことで敬遠されがちだったということはあるかと思います。それでも金沢市場輸送の鮮魚のようなことはなく,青果物で市場の仕事をする運送会社は金沢でも普通にありました。

 ただ,私が50万円の前借りの保証人になったことで,被告発人安田敏に支払いをせかすようなことを言わなかったのは,昭和58年の9月の初めから11月10日頃まで,金沢市観音堂のアパートで世話になったからで,よく食事も食べさせてもらっていました。

 平成5年11月28日付の手書きの書面には,平成4年の3月,市場急配センターの新入運転手の名前が出てくるのですが,名前のことは思い出したものの,どうな人物だったのか思い浮かんで来ないのです。和田君のアパートにも一緒に行ったような話になっていました。