#告発状 被告発人大網健二/平成元年1月に旧珠洲郡内浦町の松波港で自殺した蛸島のTSと、本件告発事件の関連性(1)

告発の事実/ 関与と役割/被告発人大網健二/平成元年1月に旧珠洲郡内浦町の松波港で自殺した蛸島のTSと、本件告発事件の関連性(1)

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- 1473:2021-07-30_17:05:23 #告発状 被告発人梅野博之/金沢西警察署 司法警察員 巡査橋本登志彦作成にかかる平成4年4月24日付供述調書の重大な問題点https://hirono-hideki.hatenadiary.jp/entry/2021/07/30/170521

- 1474:2021-07-31_09:55:15 #告発状 被告発人大網健二/美濃加茂市長事件がきっかけで考え直した本件告発事件の全体像:藤井前美濃加茂市長の記事https://hirono-hideki.hatenadiary.jp/entry/2021/07/31/095512

 昨日投稿した1473のエントリーに記述していると思いますが、橋本登志彦巡査が現在、宇出津の在住者ではないかと電話帳で調べたところ、開いていたページの右側に能登町真脇の住所で、濱口卓也という名前がありました。なお、ネットで浜口商運を調べても同じ漢字の名前がありました。

 たぶんこの濱口卓也という名前のことがなければ、この告発状に取り上げ記述することはなかったと思うのですが、4月の初めに珠洲市蛸島町に行ったとき、海岸沿いを高倉彦神社から鉢ケ崎海水浴場まで歩いたのですが、ふと見た民家の表札に、自殺したTSさんと同じ名前がありました。

 TSさんの上の名前はかなり珍しい名前で、蛸島町には何件かあるようですが、他では聞いたことがないかもしれません。下の名前は、とてもよくある日本人男性の名前なのですが、漢字の組み合わせがとても多い名前だと思います。

 ただ、TSさんの名前は、石川県立水産高校の卒業アルバムで見たような記憶もあり、それに最も近いと思われる名前が、表札にはありました。改めて考えると、家族が故人の名前の表札をそのままにしている可能性というのもあり得るのかもしれないと思えてきました。

 「石川県奥能登でおきた蛸島学童殺人事件裁判記録」を読んだとき、沢山の地元の人の名前が出てきたので、本当に実名なのかと疑問に思って調べたところ、古いものでしたが蛸島町の住所が記載された電話帳が出てきました。そのときにTSさんの苗字も調べたかもしれないですが、憶えていません。

- 石川県珠洲市蛸島町- ネットの電話帳 - 住所でポン! 2012年版https://t.co/FqcAZXAIWG

 「この地域に多い苗字」にTSさんの苗字があり、蛸島町では5件でしたが、全国ではかなり多い数となっていました。この「苗字 軒数 全国順位」という項目は前回気が付かなかったもので、同じページなのかもはっきりしません。こういうのは初めて見ました。

 ちょっと勘違いしていたことに気がついたのですが、苗字の全国件数と思ったのは、全国順位でした。「全国ではかなり多い数」と思ったのは4桁台になります。

 宇出津でも同じ苗字で親戚関係はないという話は聞くのですが、蛸島町の5件で漢字は別にしても同姓同名というのは、やはり珍しいように思います。

 蛸島町は珠洲市でも面積が狭いという特徴もあり、隣接した正院町や三崎町とはずいぶん違いのあることが、Googleマップの範囲表示ですぐにわかりました。

- 石川県珠洲市蛸島町 - 人口総数及び世帯総数 | 人口統計ラボ - 国勢調査GIS 平成22年版https://t.co/KhVwdSnJka \n 面積: 3,158,917 ㎡ \n 人口総数: 1,449 人 世帯総数: 553 世帯

- 石川県珠洲市正院町 - 人口総数及び世帯総数 | 人口統計ラボ - 国勢調査GIS 平成22年版https://t.co/zn7JpAfkfI \n 面積: 13,778,430 ㎡ \n 人口総数: 1,614 人 世帯総数: 648 世帯

- 石川県珠洲市三崎町 - 人口総数及び世帯総数 | 人口統計ラボ - 国勢調査GIS 平成22年版https://t.co/sKiof4c9B2 \n 面積: 31,067,080 ㎡ \n 人口総数: 2,532 人 世帯総数: 910 世帯

 正院町と比較しても面積の桁が一つ違っています。その正院町と比較した三崎町の面積の広さも意外ですが、世帯数も人口も多く感じました。三崎町にスーパーはないように思います。

 最果てという、看板にあるスーパーが八ケ崎海水浴場の近くにあります。店に入ったことはないですが、食料品店という感じです。三崎町では小さな食料品店も見かけた覚えがないのですが、行ったことのない山間部にも集落があるらしいと先日思えることがありました。

 蛸島のTSさんについては、これまで一通りのことを記述してきたと思います。被告発人安田敏との石川県立水産高校での同級生でもありますが、高校卒業後は金沢市場輸送で運転手を初めたと聞いていました。昭和61年の12月頃、金沢市場輸送で一緒に仕事をしています。

 被告発人大網健二の兄とも仲が良かったようですが、蛸島駅からの汽車の通学で、帰りの汽車の待ち時間などたまり場だった被告発人大網健二の家にいた可能性があります。名前は早くから聞いていましたが、部活のことは聞いていなかったと思います。

 宇出津の梶川沿いにあった被告発人大網健二の大きな家ですが、ガス機器販売店と自動車工場が前と後ろにありましたが、2階の居住空間だけでも相当の広さがあり、古い建物でしたが大きな旅館のようでした。図書館などでも当時の写真が不思議と見つからず、目にすることがありません。

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- 2021年07月31日13時17分の登録: 「蛸島のTSさん」を@hirono_hideki @kk_hirono @s_hironoで検索 70件の該当 2021-07-31_13:17の記録https://kk2020-09.blogspot.com/2021/07/tshironohidekikkhironoshirono702021-07.html

 ざっと軽く目を通しましたが、しばらく忘れていた竹林の蛸島出身という婚約者のことがありました。改めて考えると、本当にそのような女性が存在したのか疑問に思えてきました。

 金沢市で生まれ育ったと思われる竹林が、珠洲市でも蛸島と特定していたのも気になったのですが、金沢市場輸送の竹林の入社と免許停止中だった蛸島のTSさんの入社というのも同じ頃でした。

 竹林は蛸島のTSさんのことをよく知っている口ぶりで話をしていたのですが、金沢市場輸送に入社してから1年ぐらいは4トン車に乗務していたはずです。

 最初から長距離の仕事をしていたのかはっきり憶えていないですが、けっこう長い間、4トン保冷車で長距離の仕事をしていました。竹林は私より2つ年上と話していたように思います。4トン車の運転手をしながら大型免許を取得したという話は記憶にありません。

 そのうち大型保冷車に乗務したのですが、いきなり新車の冷凍機付きだったように思います。トラックはいすゞで、ナンバーが1???となっていたように思います。数も少ないですが、石川ナンバーになったばかりだったように思います。

 この冷凍機付きのイスズの大型車のことは余り思い出せないのですが、同じいすゞの大型保冷車で、7180というナンバーが川村さん(あるいは河村)が新車で乗務し、7599が昭和62年4月に私が新車で乗務しました。数字が大きいですが、どちらも石ナンバーで、冷凍機はなかったです。

 冷凍機付きの大型トラックはナンバーが88になっていました。昭和63年の夏頃には石川ナンバーに変わり、竹林が冷凍機付きの大型保冷車に乗務していたように思います。

 やはり金沢市場輸送に入社した時点で大型免許は所持していたと話していたように思えてきました。4トン保冷車は運賃が安く給料が安いだけではなく、積載量が少なくすぐに重量オーバーになり、警察に捕まって免許の点数を失う可能性が高いとも言われていました。

 金沢市場輸送の4トン保冷車は後ろにステッカーを貼る積載量が3250となっていたように思います。冷凍機付きや車体が補強されたような4トン保冷車だと2700とかになっていたかもしれません。

 蛸島のTSさんが金沢市場輸送で私と一緒に仕事をしていたのも長くて2ヶ月ぐらいだったように思います。私は昭和62年の1月の下旬になるのか、乗務する大型保冷車の空きがなかった金沢市場輸送をやめて、中西運輸商に移っています。

 中西運輸商に移って時期も記憶がはっきりしませんが、蛸島のTSさんはすでに金沢市場輸送をやめていたような気がします。金沢市場輸送にいる間、蛸島のTSさんは、浜田漁業金沢工場でフォークリフトの運転をし、ミールの積み込み作業をやっていました。

 私はミールの倉庫移動をボロボロのイスズの大型平ボディ車でやっていたのですが、蛸島のTSさんを同乗させることも多かったように思います。名古屋方面へのミールの出荷も当時は少なかったと思います。

 ミールの移動先も松任市の外れの一箇所の倉庫だけだったかもしれません。もう一箇所あったような気もするのですが、ほとんどは松任市のはずれの倉庫で、日通の倉庫と呼ばれていたかもしれません。

 国道8号線沿いで、松任市から川北町に変わる陸橋の手前、大きな交差点の海側、左角の倉庫でした。倉庫はその後もあったのかもしれないですが、平成3年12月以降のミール移動では行くことがなかったと思います。

 平成3年12月以降のミール移動は、同じく松任市の外れでしたが、山側に左折してしばらく走ったところで、「清水倉庫」と呼ばれていたと思います。それと、金沢市内の高畠の辺りに五高倉庫があり、他に国勝倉庫に行くこともありました。

 竹林がいつまで大型保冷車で長距離の仕事をしていたのかはっきり思い出せないですが、長距離の仕事を辞めたなどと聞いて、しばらくした頃には私と一緒にイワシの運搬をするようになっていました。これが平成元年の12月で、私は2度目のイワシの仕事でした。

 この私が2年目のイワシの運搬は、北陸ハイミールの工場も出来て、仕事が倍以上に増え、それまでの浜田漁業お抱えの蛸島丸船団に加え、輪島丸船団がイワシの漁獲をするようになり、金沢市場輸送のトラックも増えましたが、釧路市の愛国運輸も参加しました。

 竹林が蛸島のTSさんを話題にした時の話しぶりで、一緒にミール移動の仕事をしたことがあったものと私は思い込んでいたふしがあるのですが、その可能性はないように思えてきました。

 私も竹林とよく話すようになったのは、彼が金沢市場輸送に入社してからだいぶん後のことだと思います。保冷車でも大型車と4トン車では仕事の内容がまるで違っていました。東北便も平成元年頃はまだ宮城陸上の大型車が自社便で金沢に来ていたはずです。

 初めて記述するようなことではないと思いますが、東北便は最初、4トン保冷車が毎日一台、宮城陸上から荷物を積んでいたように思います。それも福井中継分や高岡中継分が主だったように思います。高岡中継は守田水産輸送でした。

 宮城陸上は「みやりく」と呼ばれていましたが、大型保冷車が毎日金沢に来て、七尾市のスギヨから蒲鉾のような荷物を積んで塩釜に帰るという話でした。私は平成2年ころになって、実際に、七尾市のスギヨからその仕事をしたこともありました。

 この七尾市のスギヨは、カニカマを開発したことで有名でテレビのバラエティ番組にも取り上げられているのをここ10年で何度か見たことがあります。

 私が2度目に金沢市場輸送に入社したのが昭和61年8月の20日過ぎで、11月25日に一発試験で大型免許を取得するまでは、市内配達の仕事をしながら東蚊爪の運転免許センターに通っていました。この間に、臨時で東北便に行かされたことがありました。

 昭和59年当時は全くなかった仕事でした。この最初のときに、石巻市の東北陸運に行ったような記憶があります。「とうりく」と呼ばれた東北陸運は塩釜市が本社で、石巻が営業所になっていました。宮城陸上は塩釜市だけです。

 2,3日石巻に泊まることになったのですが、前妻を同乗させていて、中華料理店に入った記憶があります。なぜかその後、その店には入らなかったような気もするのですが、魚市場のある港のはずれで、トラックの駐車しやすい店でした。

 その中華料理店から少し行った先が、斜めに左から来る道路の突き当りで、右折すると女川方面で、女川方面に向かってすぐ右手に東北陸運の会社がありました。トラックを待機させ積み込みを始める場所は、反対側に左折した少し先の空き地でした。

 もしかすると、石巻の東北陸運で荷物を積んだ後、塩釜の宮城陸上に立ち寄って追加の荷物を積んでいたのかもしれません。

 平成2年頃になると、金沢市場輸送が東北陸運と宮城陸上の北陸便をすべてやることになっていたように思います。臨時で東北陸運の大型車が出ることもあったように思いますが、荷物が多いときで大型車が3台に、4トン車が1台ということもあったと思います。

 決まってあるのは糸魚川の市場、富山市の市場で、金沢では高岡と福井を中継していました。金沢市場輸送でこの福井中継をしていたのが、金沢市内の増泉で昼は喫茶店をやっているという中野さんでした。

 先日読んだ乙号の供述調書に中野さんの名前はなかったように思いますが、中野さんに伝票を報告を受けながら、私が近く来るとおもむろに被害者安藤文さんがメガネを掛けたのでした。それまで彼女がメガネを掛けたのは見ていなかったし、中野さんも驚いた様子でした。

 荷物が多くトラックの台数が増えると、卸先、行き先が減って仕事が楽になるということもありました。東北便は荷物の種類が多く、金沢中央卸売市場の外の会社にも荷物を届けていました。大きいものは300キロの生マグロから、決まってあるのが練り製品でした。

 運転手の間の決まりごとのようになっていましたが、仲間の運転手が金沢中央卸売市場の中で荷降ろしをしていると手伝い、終わると店に入ってビールなど飲み、けっこう長い時間、話をするのがいつものことでした。

 その当時、竹林と食事をしたことは記憶にないのですが、食事代を徹底的に切り詰めて、結婚費用のため貯金をしていると運転手の間で話題になっていたのが竹林でした。

 徹底するところは確かに感じられた竹林ですが、婚約の破談で貯金の必要がなくなり、その散財に付き合って一緒に飲み歩くようになったのも私で、イワシの運搬の仕事が始まってからのことでした。

 このイワシの運搬の仕事は、天候や魚の漁獲に左右されるだけではなく、ミールの工場の機械は一度停止させると、再起動するのにずいぶんお金が掛かるという話で、はっきり思い出せないですが50万円と聞いていたかもしれません。

 それなのでイワシが捕れだすと、ぶっ通しの仕事となりました。金沢港の堤防の先、30分ほどでイワシの魚群があったり、魚群が見つからず、京都府舞鶴沖や新潟県佐渡ヶ島の辺りまでイワシを追うことがあると聞いていました。

 金沢港の周辺にイワシの魚群がないときは、蛸島港での水揚げに向かうこともありましたが、2号と呼ばれた一番大きな運搬船は400トンで、水深の浅い蛸島港には入れず、隣の飯田港で水揚げをすることもありました。それでも金沢港以外はそう多くなかったと思います。

 竹林は一度、家まで遊びに行ったこともあるので、特に疑いを持つような不審な人物ではなかったのですが、母親が金沢競馬場で働き、自分も以前、競馬にはまっていたことがあるとも話していたと思います。

 そういえば、午前中に見た新聞に、コロナウィルスの感染で金沢競馬が中止になったという記事がありました。金沢競馬の場所ですが、浜田漁業金沢工場の近くで、途中からちょっとした近道で、いつも競馬場の入口の前を大型トラックで通るようになりました。

- 金沢港 から 金沢競馬場 - Google マップhttps://t.co/2YhsnIgA8q

 ルート検索すると6.9Km、13分とあります。昨日辺りGoogleマップで見た浜口商運もこの近くになりますが、ちょうど運転免許センターから浜口商運の辺りまで工場や会社が増え、あとは広い田んぼのままの景色となっていました。

- (株)中部資源再開発 本社工場 - Google マップhttps://t.co/DRirvFbDYS

 赤い矢印が出ている会社の道路を挟んで向かいにある工場や敷地が北陸ハイミールのあった場所です、交差点の角にある建物はそのまま北陸ハイミールの事務所の建物のようにも見えるのですが、事務所の前には、大型車が乗る計量の台貫がありました。

 今、Googleマップを見て、北陸ハイミールの近くの河北潟の対岸が金沢競馬場の敷地になるらしいと初めて気が付きました。これまでにこの周辺のGoogleマップは何度も見ています。

- (株)中部資源再開発 才田工場 - Google マップhttps://t.co/5Mq9ScIicT

 今見ると、「(株)中部資源再開発 才田工場」という社名になっていますが、これが浜田漁業金沢工場のあった場所になると思います。

 地図で見ると河北潟を挟んで近くにみえますが、金沢競馬場の方から迂回してけっこう距離があると感じていました。近くに才田大橋というのが見えますが、この橋を渡った左手の河川敷のような場所で、被告発人大網健二がゴルフの練習をしていました。

- 南新保町 - Google マップhttps://t.co/UBTn0NorHg

 ちょっと確認するつもりで調べたのですが、金沢市の南新保の場所がすっかり変わっていました。全て国道8号線バイパスの海側となっています。平成4年当時はバイパスの手前側だけと思っていました。全く離れた場所に新保本町があるので、ややこしく確認しています。

 平成3年12月22日の日曜日のことです。前日の21日の夜は、南新保の被告発人浜口卓也のアパートにいました。被告発人浜口卓也が被告発人大網健二の自宅に電話を掛け、しばらく二人で話をしていましたが、用件を憶えていません。

 そのあと被告発人浜口卓也に誘われて片町に飲みに行ったのですが、最初に入った店になるのか、オーロラ会館の5階あたりの店だったと思うのですが、そこに宇出津の2人の女性がいて、二人とも私の1つ年上ですが、その一人が蛸島のTSさんの死に別れの妻でした。

 その店か、その次に行った店か、今はっきり思い出せないですが、被告発人大網健二の兄と落ち合いました。被告発人大網健二の兄は二人連れで、宇出津のかなり年上の人と一緒でした。

 片町のビルや店の名前はよくわからないのですが、現在は次のビルがある辺りかと思います。そこは3階ぐらいにある店だったと思いますが、そこでは被告発人大網健二の兄らと会ったことをはっきりと憶えています。

- エイケンレジャックビル - Google マップhttps://t.co/vOBJyKkPjP 〒920-0981 石川県金沢市片町2丁目3

 同じビルになるのかはっきりしませんが、昭和57年の1月か2月に、被告発人大網健二の兄と一緒に行ったのもその辺りの店で、珠洲市大谷のYSさんのおごりであったように思います。姫のNKさんも一緒だったかもしれません。

 平成10年には、関係者KYの配管工事の会社のKくんの母親の店に飲みに行ったのですが、それも同じビルではないかと思われました。事前に年配の女性が二人でやる小さな店と聞いていました。

 昭和59年当時も片町の同じような店の話を聞いていたのですが、それというのが金沢市場輸送の竹沢俊寿社長の夫人の店の話でした。場所も聞いていたのですが、私にはオーロラ会館の近くのように聞こえました。

 12月21日の夜、近年知った新天地の近くと思われる場所に、プレハブの屋台のような店が並んでいて、焼き鳥屋のような店に被告発人浜口卓也に連れて行かれました。最後もオーロラ会館の上の階の店だったように思うのですが、店の女性店員二人と店を出ました。

 先に話を通してあった気もするのですが、私と被告発人浜口卓也、女性2人が男女二人で別行動に分かれるという話になり、私は断って、タクシーに乗ったのだと思うのですが、市場急配センターに戻って、トラックの中で寝たように思います。

 深夜でしたが1階の運転手の休憩室は電気がついていて、何人か顔見知りの運転手もいたと思います。今は誰だったのか思い出せないですが、親しい間柄ではなかったと思います。

 この12月21日の夜、というかあるいは夕方遅くに、南新保の被告発人浜口卓也のアパートを尋ねたのは、昼にトラックの運転席から投げ捨てて、拾ってきたネックレスを、被害者安藤文さんに渡してくれるよう被告発人浜口卓也に頼むのが当初の目的でした。

 その話を言い出す機会もなかったのですが、私が訪ねてくることや訪問の目的はよくわかっているような様子でした。次の22日の夜に金沢市花里の被告発人安田敏のアパートを訪ね、そこでネックレスの箱を渡して頼んでいます。

 谷内孝志警部補に、被害者安藤文さんに心理的負担を与えたとか都合の良い解釈を導いたティファニーのネックレスですが、被告発人梅野博之の供述調書に、事務所の机に入れたままになっていたと記載があったことは、読むまですっかり忘れていました。

 イワシの運搬の仕事は、吹雪でも時間厳守の鮮魚の仕事にくらべ、ずいぶん気楽でもあったのですが、金沢港での待機の時間が多く、竹林のおごりで遊び回っていました。普通の食事も出してもらっていたかもしれません。

 前年のイワシの運搬でも、大西真さんに同じようにおごってもらっていましたので、その延長感もありました。いくら婚約が破談して貯金の必要がなくなったといっても、この変わり様はないのではと疑問に思うこともありました。

 しかし、竹林はこれが本来の自分の生活スタイルで、自分のことを遊び人とも話、遊び人の付き合いなので金を出す必要はないなどと言っていたのですが、後に被告発人浜口卓也にこの話をすると、けっこう腹を立てて怒っていました。

 小木港や姫の遠洋漁船の漁師にも似た考えの人はいて、陸の者には金を出させないなどという人もいて、前にそういう付き合いもしていたので、それほど違和感はなかったのです。

 おごってもらった記憶はないのですが、KKさんともよく一緒にいました。市場急配センターの被告発人松平日出男の直属部下のような立場で、イワシの運搬の現場監督のようなことを、数字を書き入れながらデータの記録をしていました。

 もと石川県警察の警察官で、交通機動隊の白バイ隊員だったとも話すKKさんでした。裁判のことは知識も関心もなかったのですが、父親が最高裁の判事だと話していました。

 これは後に、被告発人多田敏明が、被害者安藤文さんの父親を弁護士と言い出したことともつながるのですが、拘置所に入ってから、最高裁が日本に1つしかなく判事が15人しかいないとも知って、信じがたいような話に思えてきたのです。

 昭和59年当時、蛸島のTSさんは新田商店の運転手と聞いていたように思うのですが、金沢港で姿を見ることはなかったような気がします。事故でまだ入院中だったのかもしれません。新潟県の米山インターの国道8号線上の事故と聞いていましたが、レスキュー隊の救出にも時間がかかったとか。

 どこをどのように怪我をし、どこでどれぐらい入院していたという話は聞いていたのかもしれないですが、記憶にありません。新田商店では4台の4トン保冷車がいると聞いていたように思いますが、後ろの扉に観音像を描いたトラックがいました。

 その運転手の名前も聞いていて上の名前だけでしたが今でも憶えています。珠洲市でも見附島の近くだと聞いた憶えがあり、蛸島のTSさんよりはいくらか年上とも聞いたように思います。

 観音像のトラックはスルメイカの時期、金沢港でよく見かけていたのですが、運転手の姿を見ることはなかったと思います。

 新田商店は白ナンバーのトラックでしたが、夜の11時ぐらいに金沢港を出発して、新潟、名古屋、大阪にも行っていると聞いたかもしれません。その市場で荷降ろしをしてすぐに戻り、家に帰って、また夜の競りに出てくるという話でした。

 金沢市場輸送が金沢港でやっていたスルメイカの仕事は、6月頃で期間は1月もなかったようにも思うのですが、昼に出発して、東京や東北が多く、名古屋もありました。

 新田商店などは魚問屋で魚屋とも呼ばれていたように思いますが、4トン保冷車が2,3台の白ナンバーの会社が、金沢港には他にもいくつかあり、被告発人大網健二の兄がいた直市商店もその1つでした。

 直市商店の前にいたのが金沢市場輸送で、ちょうど昭和59年のスルメイカの時期に、4月頃の被告発人大網健二と同じく私の紹介というかたちで入社していました。

 昭和59年には7月に入ってもスルメイカの仕事があったように思うのですが、昭和60年代には6月の終わり頃には終わって、ちょうど終わって仕事が忙しくなくなった頃に、慰安会がありました。

 慰安会といっても、昭和62年の山中温泉キャッスルバーデンホテル、平成2年の片山津温泉ホテル長山で、他は希望者だけが自費で参加するという話でしたが、私は自費で参加したことがありませんでした。

 麻雀好きのメンバーだけが集まって行くという話も聞いたことがありました。平成3年には粟津温泉であったと聞いたのですが、それには被害者安藤文さんや被告発人池田宏美も参加したと聞きました。金沢市場輸送の女子事務員もいたのではと思います。

 ずっと憶えていて何度も書面に記述しているはずですが、2人の若い金沢市場輸送の女子事務員の一人は谷口さんという名前で、平成3年12月に、被害者安藤文さんが好きな人のプレゼントのマフラーの手編みを習いに行っていると、被告発人安田敏が話していました。

 それらしいマフラーや毛糸が入った紙袋のようなものを市場急配センターの事務所前に停めた被害者安藤文さんの車の後部席の足元で見たこともありました。

 被告発人安田敏の口ぶりなどで、クリスマスプレゼントを予定しているようでした。

 プレゼントをする習慣は24日のクリスマスイブという日だと思うのですが、その数日前、18日かあるいは19日と思うのですが、被告発人東渡好信が私にクリスマスの運行の指示を出し、隣の隣の席に座っていた被害者安藤文さんが、がっくり首をうなだれたことがありました。

 こういうのも金沢西警察署の取り調べで谷内孝志警部補には話していると思うのですが、谷内孝志警部補作成の乙号供述調書には記載が見当たりませんでした。

- 2021年07月28日08時23分の登録: 2021年07月28日の記録:写真資料:第1審事件記録3/3 (証拠書類 検乙1〜13 検甲43) 被告人 廣野秀樹https://kk2020-09.blogspot.com/2021/07/202107283311343.html

 4月14日、4月9日、4月10日、4月7日、4月13日、4月15日、4月16日、4月29日、4月18日、4月17日以上が今確認したところの、谷内孝志警部補の作成した被疑者廣野秀樹の供述調書の日付です。

 やはり日付で並んでいませんが、4月29日の供述調書というのは先日意外に感じていました。これは起訴後になりそうなのですが、取り調べが始まって3週間ぐらいでぴたりと取り調べも供述調書の作成もなくなったと思っていました。

 なにか強姦の犯意を強く認めさせるような内容の供述調書になっていたかもしれないですが、これを無理なこじつけと疑わず、そのまま通した江村正之検察官や判決を出した裁判官がいたのも不思議です。

 被疑者は嘘をつくもの話半分以下という思い込みもあったのでしょう。

 谷内孝志警部補の供述調書には、私の本意を汲んだような表現もあって、被害者安藤文さんに対して行った性行為の目的についても明確にされていたと思います。また、裏駐車場のこともずいぶんな回数供述調書に出てきたのは意外でした。

 谷内孝志警部補の作成した供述調書を全部まとめて一気読みしたのは初めてだったかもしれません。最初に読んだのが平成6年12月の斐川雅文弁護士の郵送による差し入れで、縮小版ですが、なぜ自分の供述調書があるのか不思議に思えました。

 私がずっと求めていたのも、市場急配センターの関係者の供述調書で、そちらの方に強い関心があったのと、谷内孝志警部補の供述調書の手書きの文字は、他の甲号供述調書と比較しても、文字が読みづらく、どうしても読み取れない文字があったとも記憶にあります。

 相変わらず読みづらい手書きの文字とは思いましたが、文脈でパターンを当てはめだいたいの推測ができるようになりました。なかなか人に読む気持ちを起こさせないような文字で、それも意図された仕込みの作業なのかと勘ぐりたくなるほどです。

 被告発人安田敏のことを「安田さん」などと書いた箇所も2つはあったと思うのですが、被告発人安田敏に対する具体的言及は確認されなかったと思います。実際の取り調べで、谷内孝志警部補は、「あんな男の話をするな、お前の男が下がる」などと憤慨していたのです。

 4月2日から20日ぐらいは連日取り調べがあり、供述調書の作成されなかった日というのは記憶にないぐらいなのですが、29日を除くと数えて9通になります。半分ぐらいは江村正之検察官がボツにして金沢地方裁判所に出さなかったのかもしれません。

 そう考えると、江村正之検察官の責任というのも今まで以上に重く思えてきました。

 「第1審事件記録3/3 (証拠書類 検乙1〜13 検甲43) 被告人 廣野秀樹」という綴りで弁護士がまとめる段階ではねたという可能性も考える余地がありそうですが、斐川雅文弁護士から郵送されたのも同じぐらいの数で、そちらで、だいぶん前におかしいと思っていました。

 私の記憶違いで連日の取り調べや供述調書の作成というのは実際になかったのかもしれないですが、ずいぶん薄い内容に感じました。被疑者から話を聞き取って、まとめていくという作業は大変とは思いますが、影響も図りしれず大きいので、それだけの問題では済まされない気がします。

〈〈〈 2021/07/31 18:17:08 Linux Emacs: 〈〈〈