#告発状 被告発人梅野博之/金沢西警察署 司法警察員 巡査橋本登志彦作成にかかる平成4年4月24日付供述調書の重大な問題点

告発の事実/ 被告発人らの関与と役割及び具体的犯罪事実/被告発人梅野博之/金沢西警察署 司法警察員 巡査橋本登志彦作成にかかる平成4年4月24日付供述調書の重大な問題点

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〉〉〉 Linux Emacs: 2021/07/30 10:36:50 〉〉〉

 昨日の7月29日は、バイクで珠洲市寺家の須須神社まで行ってきました。帰りに雨の関係などで長い時間、能登鉄道旧珠洲駅の場所にある「すずなり」に長い時間いることになったのですが、過去を振り返る時間にもなりました。

 被告発人松平日出男の2つの供述調書は比較的最近、資料を作成し公開していたことを憶えていたのですが、被告発人梅野博之のものは記憶になく、出てきたときは、ちょっと驚いたのですが、被告発人松平日出男のと一緒に作成していたはずです。

 Bloggerの写真資料の記事を開くと、供述調書の順番に違いがあることに気が付き、写真をアップロードし直して修正しました。これは被告発人松平日出男の供述調書でも必要となる作業かもしれません。

 写真の向きを直すとファイルの上書き保存になってしまい、Googleふぉとでは、それで作成日時の並びがおかしくなっていたのですが、Bloggerに直接アップロードすることで、投稿順として並びが変わったようです。

 被告発人梅野博之の供述調書は、これまで読む回数や頻度が最も多かったと思うのですが、供述調書が作成された4月24日という時期も関係あると思います。被害者安藤文さんの意識の回復が見込めなくなったからで、事実上、死人に口なしのような見込みと期待もあったのでしょう。

 あらためて読むと、これまで思っていた以上にひどい内容の供述調書なのですが、この被告発人梅野博之に対する聞き取りで供述調書を作成した金沢西警察署の警察官に対する疑問が大きくなっていたところ、最後に橋本登志彦巡査の名前がありました。

 正確には「金沢西警察署 司法警察員 巡査 橋本登志彦」と記載されています。確か警察官の階級は、下から巡査、巡査部長、警部補、警部となっていたはずで、巡査部長の供述調書というのは見覚えがあったのですが、巡査というのは意外でした。

 正確性は90%ぐらいの自信なのですが、この橋本登志彦刑事は、強く印象に残る金沢西警察署の警察官で、テレビで見る鑑識のような作業を担当する警察官でした。金沢西警察署の捜査資料でもそのような資料作成の担当者として名前を見ています。

- 2021年07月30日11時00分の登録: 「橋本登志彦」を@hirono_hideki @kk_hirono @s_hironoで検索 7件の該当 2021-07-30_11:00の記録https://kk2020-09.blogspot.com/2021/07/hironohidekikkhironoshirono72021-07.html

 一度は記述し、Twitterの投稿にもなっていると思っていたのですが、上記のまとめ記事で確認したところ少なくともツイートは存在しませんでした。

 よく憶えている理由に、金沢西警察署の2階で、思いっきり怒鳴りつけられたことがあったからです。机の上に被害者安藤文さんの写真のようなものがあって、通りすがりに覗き込むような素振りを見せたところ、鬼のような形相で私を叱りつけていました。

 よく入る取調室の前に、その橋本登志彦巡査の机があったとも思うのですが、外から戻り留置場に入るときも、その机の前を通っていました。刑事課の広い部屋で、2階に上がった通路ともそのままつながっていたと記憶にあるのですが、左手が取調室でした。

 同じく右手の奥に留置場に入る出入り口がありました。広い通路と刑事課の広い部屋はL字型のようにつながっていました。留置場の方もずいぶんと変わった構造の建物となっていたのですが、4つほど部屋があって、その周りが一周できる細い通路となっていました。

 テレビや映画で見るような留置場とはずいぶん違っていて、土蔵のような蔵屋敷がむき出しのコンクリートで作られたような感じで、部屋の畳というのも1枚が大きかったですが、柔道に使うような畳で、色も青っぽい緑だったかもしれません。

 部屋にはトイレがなかったとも思います。トイレのときも外に出してもらっていましたが、洗濯のときも外に出て、奥の方から回った裏側に洗濯物を干しに行っていたと記憶にあるのですが、窓から大野湊神社の鳥居や参道が見えたと記憶にあります。

 橋本登志彦巡査と思われる人物は、他にも大きな特徴があって、能登話し言葉で方言丸出しだったのですが、それが宇出津の出身者としか思えない喋り方で、宇出津でも新町、さらには大橋組の人ではないかと思えるほど、個性の強いものでした。

 平成4年当時はまだ宇出津にバイパスも出来ておらず、国道249号線が町の中心部を走っていたと思いますが、新町通りとも呼ばれるように、商店街の中心部が新町でした。

 2016年に祭礼委員をやった関係で、私は初めて知ったのですが、新町は3町内に分かれ、金沢に近い方から上町、中町、大橋組になるとのことです。上町と中町が新町になることは知っていましたが、個人的に大橋組も新町になるというのは意外でした。

 大まかに言って、宇出津の中心にあるのが信号機のある新町の交差点で、そこ交差点から金沢方面とは反対側、梶川との間にある場所が大橋組になります。10年ほど前々では、梶川橋の隣に千間書店があり、その隣に能都会館というパチンコ店がありました。

 他にも商店が列んでいたのですが、その辺りでよく聞いたと思う話し言葉が、橋本登志彦巡査と思われる人物には強く感じられました。同じ宇出津でも当時は、けっこう違いがあったと思います。

 これはずっと前から頭にあったことですが、今朝初めて、能登町の電話帳で調べてみることを思いつき実行しました。橋本登志彦という名前は2021年の能登町の電話帳になかったですが、宇出津でよく聞く名前だと思っていたところ、能登町で47件の名前がありました。

 最近になって宇出津地区の全世帯数は1600件ほどと聞いています。能登町だと世帯数も増えると思いますが、これまで能登町の電話帳を見てきた中でも、特に多く感じました。全国的にも数は多そうな名前ではありますが、割合が高そうです。

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 調べてみると全国順位24位とのことですが、橋本いう姓の割合では石川県が3位となっていました。

 橋本という名前は、開いた能登町電話帳の左手のページにあったのですが、他に多い名前はあるのかと右手のページに目を移したところ、ここで発見がありました。能登町に浜口という名前は5件で、1つ見覚えのある名前が、「濵口卓也」となっていました。

 浜中という名前も宇出津ではよく見かけていたのですが、「濱中」と漢字で書くのは見覚えがありました。濱辺も同じかもしれません。この濱は日本語変換候補に浜の旧字体となっているのですが、濵口卓也の濵は、機種依存文字となっています。

 電話帳には住所が真脇に続けて番地となっていましたが、この能登町真脇の番地でGoogleマップで調べると、見覚えのある被告発人浜口卓也の実家の建物が出てきました。実際に住んでいる可能性も考えたのですが、浜口商運という運送会社は金沢にそのままあるようです。

 ストリートビューでみると、浜口商運の駐車場に初めてみると思う大型保冷車の写真があるのですが、右下にある撮影日が2012年9月となっていました。前に同じストリートビューを見てから半年は経っていないように思います。

 今回、私が初めてみたと思った大型保冷車ですが、保冷車としては、これまでに私が見たことのない特徴があります。前輪2軸というのですが、前輪のタイヤが前後に2つあります。

 中西運輸商では乗務したこともありましたが、雑貨を運ぶのに多いトラックで、後輪が横から見て1つになっていました。実際にはダブルタイヤになります。保冷車に多いのが10輪で、前輪は左右1本、後輪がダブルの2本で、全部でタイヤの数が10本になるためか10輪と呼ばれていました。

 ダンプも同じでほとんどの大型トラックは10輪になっていると思います。佐川急便では前輪2軸が多かったのですが、余り過積載にならないことを大前提とし、10輪より燃費が削減できるという話を聞いたように思います。狭い場所には適さず小回りがきかないとも聞きました。

 今回見た、浜口商運の前輪2軸の10輪ですが、正確には12本のタイヤになるはずです。このタイプは、家具を運ぶ専用車でよく見かけていました。底床と言って床を低くし、荷台の中の高さを大きくするのが目的のようでした。

 今も変わっていないとは思いますが、大型トラックも4トン車も高さ制限は車検で3.8メートルが最大となっていました。床を低くした分だけ荷物が多く積めるようになりますが、安定性と補強の強度は悪くなるはずです。

 多くの重い荷物を運ぶためには車体の補強が必要となりますが、補強するほど全重量が増えるので、積載量が減るという話でした。その後、重量制限の法律が変わったとも聞いているのですが、金沢市場輸送の保冷車で最大積載量は9200か9250となっていたような記憶です。

 補強した保冷車では、これが7トン台から6トン台になるとも聞いていたのですが、当時のこのような基準に照らせば、8トン以下の積載量に見えるトラックですが、素材自体も軽量化され前とは違っているのかもしれません。

 冷凍機付きなのかわからないですが、右側の車体の下に取り付けられた冷凍機というのもありました。冷凍機付きだと重量も増えますが、ナンバーも88ナンバーに変わっていました。平成2年当時でも、保冷車に冷凍機は必須のようになっていました。

 鮮魚を運ぶ保冷車にはみえないのですが、冷凍食品であれば、かさばって重量が重くならない荷物もありそうです。冷凍魚だと膝の高さで並べて8トンぐらい、定量に近くなるという話もありました。箱の中が高くない保冷車でも満載で30トンになると聞いていました。

 金沢市場輸送の保冷車は、箱の中の高さが2メートル10センチでしたが、保冷車では高い方でした。浜口商運が荷物を運ぶ得意先というのも情報を見たことがないですが、特殊な生鮮食品を取り扱っている可能性はありそうです。

 また、上記の説明とは矛盾しますが、保冷車の左手に扉が2枚あって、これもずいぶん久しぶりに見かけました。今は保冷車でもウィング車が多くなっているはずで、この2枚の扉は補強が弱いとも聞いていました。

 ウィング車だとパレットに乗せたフォークリフトでの積み下ろしが出来、現在の物流の主流ともなっていそうです。この横に2枚ある保冷車というのは乗務した記憶がないですが、横から荷降ろしをする必要がある場合、2枚あるとかなり楽になっていました。

 よくみると保冷車の中に発泡スチロールの魚箱があり、これは鮮魚を運んでいる可能性が大だと思います。冷凍食品などではほとんど必要ないのですが、鮮魚の場合は荷崩れを防止するため、荷物の間に魚箱や蓋をきつく詰め込んでいました。

 発泡スチロールの魚箱の場合は効果がてきめんでしたが、ダンボールの箱に入ったような荷物だと全く効果がなく、使うことはなかったと思います。ベニア板を立てバンドを締め付けるための金具も扉の内側についているのがわかります。

 普通の荷物だとバンドを使うだけでも十分と思うのですが、発泡スチロールの魚箱の場合は特別で、よほどしっかり押さえておかないと下にある運ば潰れて、荷崩れを起こすのが目に見えていました。もっとも段差のない高速道路ばかりだと心配は少ないかもしれません。

 ストリートビューの角度をずらすと、保冷車の箱の中に7枚ほどプラスチックのパレットが置いてあるのが見えました。卸先のパレットに積んで下ろすことは普通にありましたが、保冷車の中にパレットを積んであるというのも初めてきたように思います。

- 運送 有限会社浜口商運(300062)-engagehttps://t.co/xLN2UpGOm7 4t車で主に食品のルート配送。北陸三県のスーパーに卸す。

 食品をスーパーに配送とあります。市場急配センターの仕事内容とも似ていそうですが、金沢市近郊の人口もそう変わってはいないはずなのに、食品の物流の量がそんなに増えるものなのかという疑問はあります。また、石川県外のスーパーの配達というのは当時なかったはずです。

 市場急配センターのトラックだけでも平成4年当時とは倍増し、2トン車が多かったトラックも4トン車が多くなっているようです。取り扱う荷物がそれだけ増えているはずですが、金沢中央卸売市場の仕事だけでそんなに増えるものなのか疑問です。

 浜口商運のトラックというのは塗装をしないトラックなのかと思っていたのですが、12輪の大型保冷車を見ると、純正に近い目立たぬ色で塗装しているようにも見えます。

 被告発人浜口卓也が、金沢市場輸送で最初に持ち込み2トン車の仕事を初めたのが、平成2年の夏から秋ごろになると思います。同年6月にあったと思われる片山津温泉ホテル長山の慰安会のときにはまだおらず、その1,2ヶ月後だったと思います。

 8月から9月とも推定されますが、被告発人浜口卓也のトラックを見かけるようになったのは真夏のような季節ではなかったような気もします。たしかワイドボディの2トン車で、塗装はしないないと思われるトラックでした。

 奥能登の宇出津で生活しているとトラックを見る機会が少ないですが、塗装をしていない純正と思われるトラックは、ダンプでも見かけていました。大型車になると、ほとんど見かけず、運送会社でカラーを決めていることがほとんどと思います。

 塗装をしないほうが経費の削減になるはずですが、社名の確認は運転席の窓の横の縦書きの文字になります。これは必ず必要なものらしく、ペンキで「(有)浜口商運」となっています。市場急配センターの場合は、「(株)市場急配センター」ではなかったかと思います。

 この塗装のないトラックを最初に見かけたのが、平成9年の7月頃で、金沢市西念町の双葉湯の近くでした。民家の空き地のような駐車場に、そんな塗装のないトラックが、かなりの台数まとまって駐車していました。多くて10台ぐらいだったかもしれません。

 とそうのないトラックがそれだけまとまっているのも珍しいと思っていたのですが、よく被告発人大網健二の運転する車で、その駐車場の前を通っていました。

 平成9年の7月からどれぐらい経っていたのか今は思い出せないですが、ずいぶん後になってから、被告発人大網健二が被告発人浜口卓也の会社のトラックだと言い出し、たぶんそのときには浜口商運有限会社という会社名も聞いていたように思います。

 令和3年3月31日付告発状より前の記述になるかもしれないですが、昭和59年当時、双葉湯のすぐ近くには「飛鳥」という食堂があり、金沢市場輸送の運転手が常連で、ツケもきくようになっていました。食堂というよりは喫茶店か、飲み屋に近い店でした。

 平成9年には近くに新しい店が出来ていて、周辺の建物が変わったためか以前と同じ場所には思えなかったのですが、店の雰囲気もガラリと変わり、和風で木目が多い店内になっていたと記憶にあります。メニューも違っていたように思うのですが、繁盛店という様子でした。

 この続きは、被告発人浜口卓也と被告発人大網健二との関係として、この告発状に記載しておきたいと思います。

 被告発人梅野博之の供述調書の問題点ですが、橋本登志彦巡査が疑問を感じ、上司に報告なり説明をしなかったのか不思議です。被疑者を有罪にするという目的で合格した供述調書なのかもしれないですが、事実の確認など不要と考えていたのか、法廷での弁護士の仕事だとすれば杜撰かつ理不尽すぎます。

 被告発人梅野博之は配車係として毎日、市場急配センターの2階事務所にいて運転手に指示を出していたように供述していますが、ある時期を境に姿をよく見かけると思うようになったものの、現場というのは金沢中央卸売市場の売り場にあり、事務所ですることは少なかったはずです。

 平成4年2月3日に被害者安藤文さんの裏駐車場での駐車が終わり、次の変化のパターンというのが、私が会社にいる時間に合わせて、被害者安藤文さんが事務所にいて、私で運行に出るのに合わせて、会社を出るという行動パターンです。

 具体的には、金沢市場輸送でのパソコン入力の作業になります。当時はまだパソコンという言葉が一般化しておらず、コンピューターと呼んでいたかもしれません。金沢市場輸送にあって市場急配センターの事務所にはない事務機でした。

 もともと被害者安藤文さんは、午前中に金沢市場輸送に行っていたように思いますが、午前午後に限らず、私に合わせるようになりました。もっとも11月中にも被害者安藤文さんが午後に金沢市場輸送に行き、16時過ぎに戻るということはありました。

 自分の乙号供述調書として呼んだのか、ここ数日の記憶がはっきりしませんが、3月に入ってからは、被害者安藤文さんの行動がより極端なものになり、私が2階に来ると1階に降りたり、色々とありました。

 以前の記述では3月の10日頃ということにしていたと思いますが、そんなときに市場急配センターの2階事務所の模様替えがありました。家の部屋の模様替えとは違うかもしれないですが、事務所の机の位置が大きく変わりました。

 市場急配センターの2階事務所は、建物の前後の真ん中ぐらいに階段を上った出入り口があり、建物の前面の半分ほどが、事務員の机と、その奥の被告発人松平日出男社長の大きな机となり、右手に応接用の机と椅子がありました。

 最初、机は向かい合って6つ並んでいたように思います。あるいは4つですが、基本的に、出入り口から手前の右端が被害者安藤文さんの机、その向かいが被告発人池田宏美の机となり、手前の左端には、被告発人東渡好信が座ることがありました。

 被害者安藤文さんと被告発人東渡好信が隣り合った机に座っていた様子というのは思い浮かばないので、やはり間に余り人の座らない机があったように思います。

 被告発人梅野博之は、向かい側の左端の机が自分の机のようでしたが、いないことが多かったように思います。机に座っていても事務作業する姿は見ることがなかったかもしれません。書物をする姿も、資料を読むような姿も記憶には出てきません。

 被告発人梅野博之は長距離の仕事をし、長距離の配車をしていたような供述をしていますが、4トン車で山梨県からぶどうや桃を運んでくる臨時の仕事はしていたようです。山三青果でも見かけることはあったと思います。

 被告発人梅野博之は、自分で、東京の高島平から首都高に乗って都内に向かうのに、国道17号線を新潟方面に向かって走り、1時間ほど間違いに気が付かなかったと、笑い話にしていました。

 おそらく進行方向の道路標識には熊谷、高崎などと出ていたはずですが、「新潟」と看板が出てきてようやく間違いに気がついたのでしょう。

 市場急配センターの長距離は大型車がメインでした。被告発人梅野博之は大型車の免許は持っておらず、少なくとも大型車の運転をすることはなかったので、大型車の配車というのは無理があると思いますし、実際に指示を受けることもなかったです。

 被告発人多田敏明も4トン車で臨時の仕事をよくやっていました。飛び込みのような貸し切りの仕事で、私も以前はやったことがありました。市場急配センターでは余りなかったと思いますが、河野さんと二人で、宇出津のAコープ能都店と七尾市の市場に大型車でミカンを運びました。

 時期が思い出せないのですが、一度、4トン車で珠洲市飯田町のスーパーにミカンを運んだという記憶もあります。昭和61年の12月頃は、同じくミカンを山中温泉のスーパーか食料品店のような店に運び、妻子を同行させていたことを憶えています。

 平成4年は携帯電話が出始めの時期で、被告発人東渡好信が1つ持っていましたが、被告発人梅野博之は持っていなかったと思います。

 市場急配センターの市内配達というのは朝のマルエーというスーパーの定期便の他は、たぶん全てが金沢中央卸売市場の青果の仲買の仕事だったと思います。午前と午後の配達が休日以外毎日ありましたが、たまに大口での配達が出たようです。

 金沢中央卸売市場の売り場の奥に仲買の商店が並び、仲買の社員が台車で荷物を持ってきたりしていましたが、臨時でまとまった荷物の発注があったときは、被告発人梅野博之に配達の手配を頼んでいたはずです。

 市場急配センターに電話を掛けて被告発人梅野博之に頼むということもあったかもしれないですが、売り場にいる市場急配センターの運転手に声を掛け、被告発人梅野博之の居場所を聞いて、連絡を取る方法が現実的で早かったと考えられます。

 仲買の仕事は午前11時半が出発だったとも思いますが、午後が2時かあるいは2時半で、その時間には売り場に被告発人梅野博之がいたと考えられ、よほど急な発注でない限り、その場で被告発人梅野博之に声を掛けていたと考えられます。

 運転手の都合がつかなければ、被告発人梅野博之が自分で配達をしていたのでしょう。もともとそのような仕事ぶりだったので、市場急配センターの事務所で彼の姿を見る方が珍しいぐらいで、暇を持て余し、行く場所がないときにいる感じにも見えました。

 事務所の模様替えですが、これは被告発人梅野博之の供述する状況と一致するところがあって、出入り口の正面に机を1つ置き、門番か管理人をするような格好になったのです。私と被害者安藤文さんの関係を目的にした行動であることは明らかでした。

 被告発人梅野博之は、私が出先から掛けた電話で被害者安藤文さんに話を求めたと供述にありますが、これは2月4日頃の福岡市内からの電話、2月19日頃の愛媛県新居浜市辺りからの電話、それと3月20日頃、清水市行きのミールを積んだ夕方のことを指しているのだと思います。

 それぞれ、その場での情況や成り行きがあったのですが、原因となるような情況を操作し仕組んだのも被告発人梅野博之の役割分担のようなものです。

 事件当日の4月1日のことも被告発人梅野博之は供述をしていますが、被害者安藤文さんを不安にさせたのも被告発人梅野博之と被告発人池田宏美の働きかけであって、被告発人梅野博之はずいぶん不機嫌そうな顔をし、被告発人池田宏美は俯いて深刻そうな顔をしていました。

 被告発人梅野博之は、私が前日から仕事が上がりで会社でぶらぶらしていたと供述していますが、本気でこれを言ったとすれば、私の運行状況を全く把握していなかったことになります。

 市場急配センターで最後の運行となりましたが、これは市場急配センターでは珍しい三角運行となっていました。通常は関東に行けば、関東から荷物を積んで帰ります。このときは臨時の仕事で、浜松と名古屋行の荷物を積み、山三青果を3月30日に出発しました。

 3月31日の未明に名古屋市内の市場で荷降ろしを終え、外が明るくなった頃には知多半島碧南市の入口にいました。碧南市内から瓦の荷物を積んで戻るという指示が出ていたのですが、荷物がなくなったと言われ、小牧市内からアサヒビールの缶ビールを積んで帰りました。

 金沢市場輸送でも愛知県内からの帰り荷というのはとても珍しいもので、積んで帰った荷物のことは記憶にないんですが、愛知県内の星崎運輸の会社に行ったことは記憶に残っています。帰り荷を頼めるのは金沢市場輸送でこの星崎運輸だけだったはずです。

 金沢市場輸送で愛知県内への運行というのは、時期によって多く、ミールの荷降ろし先のほとんどが愛知県内で、スルメイカ名古屋市の魚市場に運ぶこともあったのですが、帰り荷というのは最初からほとんどないものと思っていました。

 三重県の津市がほとんどだったかもしれないですが、1月22日から23日の運行がミールのとんぼ返りの運行で、朝にミールを下ろすと、夕方前には金沢に戻り、またミールを積んで出発していました。これが意外にきつく、睡眠不足にもなっていました。

 碧南市の瓦の仕事というのは被告発人浜口卓也がよくやっていると聞いていたのですが、結局私は一度もすることがなかった仕事になります。そういえば、市場急配センターは小林運送の仕事をするようになっていたので、それで愛知県内の帰り荷も手配が出来ていたのかもしれません。

 平成3年12月22日の夜になりますが、被告発人安田敏が怪我をしたという運転手にかわり、今から豊橋に向かってくれという運行の指示を受けたらしいのですが、これが小林運送の仕事をするようになった最初の頃の話だったと思います。

 小林運送には昭和58年の春頃に、長距離助手の仕事をしたこともあったのですが、その頃から青果物を愛知県内から運ぶ仕事をメインにしていました。愛知県内でも多かったのが豊橋市やその近くの渥美半島でした。

 私は2月に入ってからだと思いますが、3回ぐらいその小林運送の仕事をしています。あるいは2回ですが、はっきり憶えているのは渥美半島の先端からトマトを積んだこと、午前中に豊橋の大きな出荷場で、白菜のようなものを積んで出発したことです。

 午前中に青果物を積んで出発するという仕事も珍しかったのですが、それも早い時間だったと思います。被告発人安田敏などはその仕事をよくやっている様子でした。

 時間はいくらでもあるはずなのに、全線高速で金沢中央卸売市場に戻り、昼過ぎに荷降ろしをしていました。よく憶えているのが2月11日のことで、その豊橋から青果物を運んできていた被告発人安田敏と金沢中央卸売市場で会い、夕方にはレストラン十字で一緒に食事をしたことです。

 そのとき私は、被告発人浜口卓也のアパートから彼と一緒に金沢中央卸売市場の売り場に来ていたように思うのですが、成瀬というような名前の若者の姿もあったと記憶にあります。前年の8月の終わりには、別の運送会社から市場急配センターの運転手になっていた2人の1人です。

 飛天龍という焼肉店で、その2人と浅野という(あるいは朝野)、被告発人松平日出男の石川トヨタでの元同僚が入社した歓迎会のような飲み会でした。そこには被害者安藤文さんの姿もありました。

 後で被害者安藤文さんも片町へ二次会に飲みに行ったと聞いたのですが、被告発人安田敏が運転する車で、私は近くの東力のアパートに強制送還されました。被告発人浜口卓也も同じ車に同乗していたのですが、アパートの部屋に灯りがないことをずいぶん訝しんでいました。

 被告発人梅野博之は供述調書で、市場急配センターに平成元年3月から働き始めたとしているのですが、私の記憶にあるのは昭和61年12月頃の入社で、金沢市場輸送でのことです。昭和62年6月の山中温泉キャッスルバーデンホテルでの慰安会にも被告発人梅野博之がいたと記憶にあります。

 金沢市場輸送の事務所が金沢中央卸売市場の前のテナントビルから移転したのが昭和63年7月の初めで、その前年の秋になるのではと思うのですが、市内配達の責任者のような立場であった高田という人物が失踪し、そのあとその代理役をやっていると聞いたのも被告発人梅野博之だったのです。

 前から記憶のはっきりしないところがあるのですが、市場急配センターの事務所が出来たのが平成2年の春で、前年の平成元年の秋か、あるいは昭和63年の晩秋になって、市内配達が金沢市場輸送から独立し、市場急配センターが出来たという話でした。

 最初に私が金沢市場輸送で被告発人松平日出男の姿を見たのが、昭和63年の8月の終わりか9月の初めで、その後、姿を見かけることも少なかったのですが、金沢市場輸送の市内配達の責任者となっていたのが、市場急配センターの社長になったと聞いたのです。

 最初に被告発人松平日出男の姿を見てから市場急配センターの社長になったと話を聞くまで、けっこう長い間があったように思うのです。また、市場急配センターが独立してからも市場急配センターの事務所が出来て移転するまで、けっこう長い間があったと思います。

 そういえば、先日呼んでいた安藤紀世さんの供述調書に、友達の友人の紹介で市場急配センターに入社したというような話がありました。私が聞いたのは峰田くんの紹介ですが、これは被告発人多田敏明の口から聞いたように思います。

 少し思い出したのですが、平成元年の12月には、被告発人大網健二との中古車売買のトラブルで、笹田くんが金沢港に私を尋ねてきました。そのあと金沢市場輸送の会社で、笹田くんと顔を合わすことはなかったかもしれません。

 すでに市場急配センターでの市内配達の仕事をやめていた可能性もあるように思えてきたのですが、いつも一緒にいた峰田くんも一緒に辞めている可能性が高く、辞めた市場急配センターに被害者安藤文さんを紹介したとも考えにくいことになりそうです。

 はっきりしているのは、市場急配センターの市内配達がまだ金沢市場輸送にいた頃、被告発人多田敏明の姿を見た記憶はなかったことです。

 平ボディ車でのイワシの運搬の仕事が終わった頃、YTと藤田博己さんの3人で、市場急配センターの事務所ができる駐車場に、大型車を移動させたのですが、そのときは影もかたちもなかった市場急配センターの事務所で、その場で中継場所にするという話を聞いていました。

 まだ平成2年の3月中だったと考えられるのですが、たぶん4月には市場急配センターの事務所が出来ていたと思います。金沢市場輸送で被害者安藤文さんの姿を見るようになったのもその4月頃と思いますが、かなり長い間、市場急配センターの事務員とは知らず、金沢中央卸売市場の職員かと思っていました。

 金沢市場輸送の運転手の間で被害者安藤文さんのことが話題になることもなかったのですが、KKさんが不本意なコンピュータ入力をやらされていると愚痴り、しばらくして群馬に帰ると会社を辞めたので、被害者安藤文さんの入社はその後か、少し前になりそうです。

 今考えると、市場急配センターの事務所が出来て移転する前、金沢市場輸送で被告発人梅野博之の姿を見た憶えがあまりないのですが、少なくとも事務所の机に座ることはなかったと思います。影が薄かったとも考えられますが、臨時代理の頃はよく姿を見かけ、忙しそうでもありました。

 被告発人梅野博之をパチンコオークラの店内で見かけたこともありましたが、長い時間やったり、お金をつぎ込むということはなさそうでした。顔を合わせば言葉をかわしていたと思いますが、一緒に仕事をするようなこともなく、じっくり話し込みことはなかったと思います。

 被告発人梅野博之の供述調書の初めの部分を読み直したところ、平成元年3月に市場急配センターで長距離運転手として働き始め、平成3年10月から配車係をして毎日、被害者安藤文さんや被告発人池田宏美と机を並べて仕事をしています、とあります。

 山梨から桃を運ぶのも長距離の仕事になると思います。しかし、これも時期的な一時的な仕事で、平成3年に私が市場急配センターで市内配達の仕事を始めた頃、早朝にまだ物置状態だった事務所の1階で、早朝に集まって仕分けのような作業をしていました。

 桃やぶどうを4トン車で運んでくるのは、被告訴人梅野博之か、もう一人の持ち込み運転手でした。名前を思い出せないのですが、9月に被害者安藤文さんの軽四にトラックをぶつけた運転手です。被告発人安田敏によれば、群馬県高崎市で事故死したとのことです。

 思い出しました。大倉さんです。大倉さんの4トン車は、保冷車ではなく荷台の箱の中が板張りとなっていたように思いますが、かなり大きな箱の4t車でした。長距離の仕事という話は余り聞かなかったのですが、被告発人梅野博之より専属性が高く優先的に仕事をしていたと思います。

 平成3年10月から長距離の配車をするようになったというニュアンスもある被告発人梅野博之の供述ですが、これは実際に配車をしていた被告発人東渡好信の存在を隠す方便とも考えられます。

 平成4年の2月頃になると、会社に来なくなったり、おかしな言動を見せるようになった被告発人東渡好信ですが、被告発人東渡好信が会社に来ない間も、被告発人松平日出男がやっていたのかと思われます。

 長距離運転手の経験がまったくない被告発人松平日出男に長距離の配車が出来たのか、今考えれば疑問ですが、裏で示し合わせた行動で、運行表を作成しながら指示を送っていたとすれば、すべて了解です。

 市場急配センターでの行き荷の大半は、七尾市の丸一運輸の仕事で、被告発人東渡好信が持ってきた仕事でした。

 平成3年11月中はまだ大型ウィング車に乗務し長距離の仕事をしていた被告発人東渡好信ですが、茨城県古河市の山三青果で、ベルトコンベアーに指を挟んで怪我をしたと言い出し、しばらく仕事を休んだ後、配車係をするようになりました。

 ちょうど私も山三青果の現場で一緒に積み込みの作業をしていたのですが、ずいぶんわざとらしい怪我の話で、仕事に支障が出るぐらいの怪我であれば、内出血ぐらいは起こしていそうです。そういう怪我の状態もまわりの人には見せていなかったと思います。

 市場急配センターを辞めると言い出した頃には、別の仕事を始めるような話もしていましたが、全体的な私の記憶が薄れています。精神病者を装うような言動が次第に目立つようになったのですが、私の被害者安藤文さんに対する不信感を効果的に高めるのが狙いだったと考えられます。

 そういえば、平成4年に入ってからは、電話でも被告発人東渡好信が出て運行の指示を受けた記憶が残っておらず、被告発人松平日出男が次の運行の話をしていたかと思います。

 なかでもよく憶えているのが、最後となった運行指示で、被告発人多田敏明を同乗させ東京に引っ越しの荷物を運ぶというものでした。その日の夜、金沢西警察署に出頭逮捕され、実現しなかった運行指示になります。

 その4月1日は、市場急配センターの一階で、被告発人東渡好信の姿を見ていると記憶にあるのですが、おとなしく無口であったように思います。不安定な精神状態の病人が、症状が良くなった状態で、たまたま会社に顔を出したように思える振る舞いでした。

 被告発人東渡好信と言葉を交わしたのか記憶にないですが、言葉をかわしているとすれば、書面に記述したものがあると思います。

〈〈〈 2021/07/30 17:04:51 Linux Emacs: 〈〈〈