#弁護士鉄道遊郭編 #告発状202103 #### 3月3日の小夜衣からデジカメと斐川雅文弁護士の上告趣意書,深澤諭史弁護士らの成仏理論から弱者救済,お小夜塚(17)

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 富山県の朝日インターの近くの車体工場から引き取って運転した中西運輸商の4トントラックですが,カセットに軍歌のテープが入っていたのです。聞いたことのない軍歌も多く,そのあと新聞の広告でCDがセットになった軍歌集を通販で購入したのが軍歌を聴くようになった始まりでした。

 中西運輸商で長距離トラック運転手の仕事をしていた頃は,いつ事故で死んでもおかしくないという気持で仕事をしていました。居眠り運転もよくあることで,ぶつけたこともあります。

 佐川急便の仕事で最終便ばかりだったのも仕事内容がきつくなった理由ですが,9200の容積が大きな箱に雑貨を満載にしたりしていたので,トラックの後輪のダブルタイヤの間に指が入らないような状態で高速道路を運転し,ブレーキが焼けたり,白煙があがることもありました。

 荷物が重いと平地でも90キロ以上は出せなかったと思いますが,中国自動車道は上り下りが多く,上り坂では30キロぐらいまでスピードが落ち,より恐ろしいのは下り坂で勢いがつきすぎることでした。

 何回ぐらいあったのか正確に憶えていないですが3回から5回ぐらいはタイヤがバーストしました。爆発になります。不思議といつも決まった場所で,名神高速道路に入ってまもない彦根インター付近でした。

 あとで考えると中西運輸商の社長に事故で死んでくれることを期待されていたとしか考えにくいのですが,備え付けの手押しのジャッキを使って自分で,その場でタイヤ交換をしろというのが強い指示となっていました。

 深夜も交通量の多い名神高速道路で,路肩に駐車していること自体が危険な状態ですが,小さなジャッキで車体を持ち上げタイヤを外してタイヤ交換をするわけです。勢い良く通過する大型トラックの風圧で,車体が揺れることもありました。全部一人での作業です。

 一度だけ福岡でタイヤが一本だめになったことがありました。パンクではなかったと思います。それもスパイクタイヤでした。バーストしたという記憶はないのですが,その時,中西運輸商の社長は,全てのタイヤを一度に新品に交換するように指示をしました。

 これは工場での修理でしたが,一本違ったタイヤをつければ,バランスが悪くなって危険というのが中西運輸商の社長の説明でした。それも9200や8200ではなく,幌車に乗務していた時のように思います。

 仕事の内容にもよりますが,4t車は運転手のいないトラックばかりだったので,割と自由に乗り換えていた時期がありました。

 この幌車には他にも忘れられない思い出があって,中国自動車道で大阪方面へ片側3車線となったところを140キロのメーターを振り切るぐらいでアクセル前回で走行していたのですが,前の車を追い抜き,真ん中の車線に戻ったタイミングで,前方に大型車のタイヤが落ちていることに気がついたのです。

 減速させる余裕などなく,急ハンドルも切れないので,できる限りでハンドルを切り避けたのですが,落ちていたタイヤに少し乗り上げて,ジャンプ台のように左斜めに宙を飛びました。3車線で路肩も広かったのが幸いでした。

 横転することはなかったのですが,トラックの車体右側にあるエアータンクなどの部品が吹き飛んでいました。運転したまま高速道路を降りることが出来たと思うのですが,よほど運が良かったのか,下の広い道路に出てすぐのところに日産ディーゼルの工場がありました。

 中国自動車道を降りたのは,宝塚インターの次の中国池田インターだった可能性が高そうです。Googleマップでみると吹田のジャンクションとの間に千里インターがありますが,ちょっと記憶になりインターになります。

 最悪だったのが,大阪の鴻池店から佐川急便の雑貨を積んだときです。金沢や加賀店で漆器が多く箱が大きくそう重くもなく,福井店もスポーツウェアなど余り重量のある荷物というのはありませんでした。

 鴻池店は東大阪市で小さな箱で重い荷物が多く,それを管理職のような人まで一緒になって9200のトラックに満載にし,私を送り出したのです。広島行きでした。同じ中国自動車の3車線の区間ですが,それまで平地だと思っていたのが,けっこうな上り坂になっていると感じたほどでした。

 4t車に15トンあるはそれ以上の積載となっていたように思われます。大型車でも軽く重量オーバーになるような荷物でした。だましだまし走行しながら疲れて途中に寝過ごしたこともあるのですが,それで広島の佐川急便に着くと,社長室まで連れて行かれ謝罪をさせられたのです。

 中西運輸商では8日間の間に九州2回,広島2回という運行もありました。それでも暇なときはのんびりできることもあり,会社前に駐車場がなかった頃は,会社の顔を出すのもわずかな時間で,自由な時間が多かったといえます。

 タイヤのことではむしろ金沢市場輸送の竹沢俊寿社長の方に不満を持ったことがあります。昭和62年の12月になりますが,石巻・塩釜の東北便と,守田水産輸送の青森定期便もやっているのに,スパイクタイヤが後輪の軸の4本だけと決めたのです。10輪ですがワンデフです。

 前輪はスノータイヤでした。雪道ならまだしも凍結したアイスバーンになるとスパイクとの違いはてきめんです。運転している時の安心感の大きく違って,文字通り神経をすり減らすことになりました。

 この昭和62年12月は年末で市場の仕事が多かったということもありますが,かなりの距離を走行しました。スピードも出していたので,翌年の1月の中頃か下旬になると,スパイクタイヤのピンが飛んでなくなっていました。

 そこでタイヤ交換をしてもらったのですが,スノータイヤもはかせてもらえず,ミックスというオールシーズンのタイヤになりました。金沢市場輸送の場合は冬場以外は,このミックスタイヤを使っていました。

 ミックスタイヤの場合,高速道路のチェーン規制では,スノータイヤと認められないという話もあったのですが,そのまま普通に仕事を続けていました。

 大型車での長距離トラックの仕事は,中西運輸商の9200の乗務経験があったので,安定性もありタイヤが爆発する心配もなかったので,とても楽に感じられました。それでも一度は東名高速の春日井インター付近で,大型車の前輪がバーストしたことはありました。

 運も良かったのだと思いますが運転には気をつけ集中をしていました。金沢市場輸送で交通違反で捕まったというのも,京都市内での駐車違反と,富山県立山インター付近で反対車線から折り返してきたパトカーに1点のスピード違反の切符を切られたぐらいでした。

 市場急配センターでは平成4年2月3日,米原ジャンクションで重量オーバーで2点の切符を切られました。福岡行きで24トンのミールを積んでいたときです。現在も平成16年辺りに夜,穴水町でスピート違反の2点の切符の後は,ずっと無事故無違反が続いています。


刑事裁判の記録の閲覧は、さらにハードルが高く、判決が確定するまで、第三者は閲覧できない。

判決が確定すると、記録は、検察庁で保管され、原則として、誰でも閲覧できる。

しかし、検察は「関係者の名誉や生活の平穏を著しく害するおそれがある場合」などは、法律の例外規定によって、閲覧の請求を拒否することができる。

実際には、記者を含めて第三者が閲覧を請求しても、却下されるか、判決文などを除いて記録の大部分が黒塗りになることが多い。

「『原則』と『例外』が逆転した運用になっている」という指摘もある。取材に応じた日本の検察幹部の1人はその理由を次のように明かした。
検察幹部
検察庁は被害者保護を重視しているので第三者が閲覧する利益より被害者のプライバシー保護を優先させる傾向があるのは事実だ。広く閲覧を認めると、被害者から苦情が来るリスクもあり、第三者への閲覧許可には及び腰になってしまう」


しかし、1989年3月8日、最高裁判所の大法廷は、「特段の事情が無い限り、傍聴人の自由に任せるべきだ」として一転して法廷でメモをとる自由を認めた。

この日の午後、全国の裁判所では、法廷前の掲示板から「メモ禁止」の表示が一斉に削除され、法廷メモが解禁された。

 金沢市場輸送の仕事も中西運輸商とは違った大変さがありました。金沢市場輸送の仕事は市場の仕事が多く,大雪や交通渋滞でも無条件に延着は許されず,延着や積み荷の破損があれば,運転手の責任として弁償しなければならないということになっていました。

 鮮魚の仕事で仮眠をとることはなかったですが,寝てしまって延着となれば言い訳がたたなかったことでしょう。高速道路のパーキングで天玉うどんとおにぎりを食べることはありましたが,あとはノンストップで走り続けるのが当たり前でした。

 積荷というのも混載で卸し場所が違ったり,行き先も異なるので手間がかかりました。同じことを繰り返すうちに大きな失敗もなく徐々に慣れていったというのが経験値の積み重ねとともに幸運でもあったと思います。

 鮮魚以外でも仕事の種類が多かったのが金沢市場輸送の仕事の特徴でした。大きな運送会社だと,特定の会社の専属で運送の仕事を行い他の運送会社の下請けや孫請けにもならないので,収入も安定していると聞いていました。

 仕事自体は変化もあり,けっこう面白くもあったのですが,鮮魚や九州の青果の仕事で多かった泊まりというのが次第に苦痛になっていきました。朝に荷降ろしが終わって翌日まで時間を持て余したり,連休では,それが2,3日と続くこともありました。

 中西運輸商の場合は泊まりが骨休めになって,どれだけでも眠れたので余り苦痛に感じることもありませんでした。時間つぶしにパチンコやパチスロもやるようになり,そのうちやめたのですが,時間のつぶしかたというのも週刊誌や漫画を読むことぐらいで,コンビニでも立ち読みをしました。

 長距離でも自分でトラックを購入して持ち込みの仕事をする運転手が出てきたのですが,免許停止や取り消しになった場合を考えると,重量オーバーやスピード違反が日常化した鮮魚の長距離の仕事では,リスクがあってやる気にはなれませんでした。

 2t車での市内配達の方が,売上は少ないが経費が少ないということで魅力を感じるようになって行きました。新車でも300万円程度と聞きましたし,それだと高級車と変わらないぐらいで,売上も60万円にはなるという話を聞いたように思います。80万円や100万円という話もあったかもしれません。

 昭和61年の8月から11月まで金沢市場輸送で市内配達の経験もありました。最も難しいと聞く小立野・片町コースの受け持ちでしたが,大型車で小口の荷物をあちこち降ろしていくことに比べれば,見通しもよい昼の時間の仕事ですし,なにかと安心感もありました。

 そういう仕事を最初に初めていれば,また違ったかもしれません。昭和59年に金沢市場輸送に入ったときは,ボロボロの評価で失敗や問題行動もあったので,昭和61年に入社した時も藤村さんに,何かあればすぐにやめてもらうと釘をさされていました。

 いま振り返っても,金沢市場輸送での仕事の失敗というのは余りなかったように思います。他の運転手の仕事っぷりというのは分かりづらくもあったのですが,とにかく竹沢俊寿社長や夫人には高く評価をされるようになり,夫人には特に感謝をされている様子もありました。

 竹沢俊寿社長は,ヤクザの組長をしていたという話もあったのですが,なにが本当なのかわからない人物でもありました。評判もよくはなかったですが,特異な人物で得体の知れないところもありました。どこまで本気なのかからかいなのかもわからず,それを嫌がって相手にしない運転手もいました。

 丸中水産との関係が続き,丸中水産の方で縁を切りたくてしょうがなかったが,それがなかなかできなかったという話は信憑性があり,それだけの恩義を過去に与えたのも事実であるらしく,中西運輸商の社長も助けてやったことがあると竹沢俊寿社長は私に話していました。

 一度,直接,中西運輸商の社長に,竹沢俊寿社長のことを話したことがあるのですが,意味有りげに軽く笑い,名前を口にした後,思い出し笑いでもした様子で,それ以上,語らなかったということがありました。呆れたやつという感じにも思えました。

 福井刑務所では,富山県氷見市の人だったと思いますが,竹沢俊寿社長のことをよく知っているといい,朝鮮から来た朝鮮人だと話していました。ただ,竹沢俊寿社長には,朝鮮人らしい訛りが一切なく,古い世代の金沢弁が丸出しでした。

 朝鮮から来た朝鮮人というのは,近所におばさんがいたので,話し方もよく聞いていたのですが,強く特徴がありました。それもだいぶん若い時に日本に来たような話だったと思います。

 竹沢俊寿社長の家は,金沢市野町にあると聞いていました。。野町というのは何丁目まであるのかかなり広い範囲だと思っていましたが,石坂の近くで西の郭があった場所と聞いていました。実際はどう聞いたのかよく憶えていないのですが,近年は,西の茶屋街と呼ばれることが多いようです。

 北陸新幹線の開通以降になるのか,東の茶屋街の方が観光客も多く観光の目玉となり,テレビで映像をみる機会も多くなったのですが,以前は,それらしいところがあるという話ぐらいしか,少なくとも私の身近では聞くことがなく,西の茶屋街の方が断然,知られている感じでした。

  • 金沢三大茶屋街のひとつ「にし茶屋街」をゆったり散策しませんか? | icotto(イコット) https://t.co/uipi3QxpT2

 上記のページに現在の西の茶屋街と思われる写真がありますが,見た憶えのない風景となっています。道路の舗装もそうですがずいぶんと整備された様子はうかがえるので,昭和の終わり頃とはだいぶん変わっているように思います。

 必要があって車で通ることもあったのですが,道路が狭く隣の増泉は暴力団関係者の居住も多いので,なるべく車では踏み込みたくない場所でした。昭和61年の市内配達でも通ることがあったように思いますが,ずっと先の路地に漬物屋の作業場があり,そこに荷物を届けたのです。

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> せっかく1位という、たぶんもうないだろうことになったので、記念にアイコンを数日変えます。

 にし茶屋街をGoogleマップで検索し,けっこう驚いたのですが,私がイメージしていた場所とはだいぶん違っていました。今まで聞いた憶えもないのですが南大通りとあります。有松から片町に向かう大きな道路です。

 その南大通りで片町方面に向かうと野町一丁目という信号機の交差点があって,左折する狭い道路があります。この道を入ったところにあるのが,にし茶屋街と思い込んでいました。

 今,Googleマップでみる,にし茶屋街は,野田専光寺線の白菊町交差点の手前から横に入る広い道路となっています。この辺りは野町広小路の交差点に向かって上り坂になっていると思うのですが,以前は横に入る広めの道路はなかったはずです。

 野町広小路の交差点から坂を下ってくると,ちょうど坂を降りたあたりに,左に入る細い道があり,細い道に入って次の小路を右に行くと,すぐに石坂の店が左右に並んでいました。

 坂を降りて左に入る細い道は車でも通行したことがあるのですが,石坂の方に行かずに,直進すると,左手に被告発人安田敏のアパートがありました。昭和58年の12月頃の話です。そしてそのまま直進するとやや広い道にでて左折するのですが,その左折した通りが,にし茶屋街だと思っていました。

 石坂の通りは,昭和56年の7月から8月に,片町でバスを降りたあと,歩いて被告発人大網健二の兄,関係者OSNの住む増泉一丁目のアパートに遊びに行くのによく通った道で,左右の店というのは,未だ売春をやっていると聞いた飲み屋になります。昔の赤線地帯とも聞いていました。

 昭和56年当時でも飲み屋の店は古い建物が多く,数もずいぶん減っているような印象がありました。ただ,独特の雰囲気や町並みはまだ残っていました。車で通るような場所でもなかったので最後に行ったのも記憶にないですが,数年前は,写真などで町並みを見ています。

 金沢の新天地という飲み屋街でとんでもない事件が起きた頃のことです。片町に近い新天地は,石坂とは違い,ほとんど話を聞いた憶えがなかったのですが,同じく売春が行われた場所で,ネットの情報によると青線地帯となっていたように思います。

 予想よりずいぶん該当数が多かったので,参考記事として投稿しました。

2014-09-25 09:19:42 "記述は9月19日の続きになるかと思います。丸西水産輸送の社長の射殺の事件は北國新聞によると、場所が片町でもラブロ裏、新天地と呼ばれる辺り、ということになっていました。 " https://twitter.com/kk_hirono/status/514932217739350016

2014-09-25 09:22:52 "この新天地という地名ですが、私はけっこう最近になって知りました。インターネットで石坂について調べていたところ、その新天地なる場所の情報が出てきたのが初めてでした。石坂については本書で、何度か取り上げていると思います。被告訴人竹沢俊寿の家があると聞く、辺りでもありました。 " https://twitter.com/kk_hirono/status/514933014837477376

 自分で書いたものですが,丸西水産輸送の社長の射殺現場が新天地というのは意外でした。もともとはずっと反対側の竪町の辺りが現場だと思っていた事件です。その後,片町ラブロの裏とは見聞きしたのですが,被告発人安田敏の働くハートブレイクという飲み屋を探した辺りと思っていました。

 新天地の放火事件は2018年11月頃だったようです。どうも2014年9月25日のツイートで,石坂の検索から新天地を初めて知ったとあるのですが,売春地帯として調べた形跡は残っていないようです。

 まず,石坂が遊郭だと聞いて驚いたのですが,それというのも妓楼というような大きな建物は見た覚えがなく,それこそ売春宿の小さな店というイメージしかなかったからです。加賀藩の意向で,余り目立たないかたちで営業を強いられていたとも想像は出来ますが,遊郭というイメージはなかったです。

 写真を見ながら前に読んでいるページかと思ったのですが,石坂が昭和38年前の旧町名で増泉一丁目という住所になったというのは,初めて聞いたように思います。増泉一丁目の一部が石坂になるとは聞いていました。

 なお,近年,金沢市では旧町名の復活というのもニュースで見かけることがあります。

 さきほど,ひがし茶屋街の近くに愛宕という赤線地帯があったような話は見かけていたのですが,「赤線の代表は,駅から二十分の愛宕で三十六軒に百八十四名いる。昔,有名だった石坂遊楽園はさびれ,最近は香林坊裏の青線が発達し,ハモニカ長屋のような・・・」などとあります。

 金沢市に住んでいても愛宕というのは聞いた覚えがなく,ひがし茶屋街の近くだとはわかるもののどのあたりになるのか見当もつきません。京都の八坂神社に似た芸者の奉納踊りを以前,テレビでみかけたのが,東山の神社になると思います。

 この金沢市の東山ですが,美川2少年殺害事件で,被害者の少年がアパート一緒に住んでいたという住所が東山と新聞記事にありました。そういえばと思いだしたのですが,金沢市内でも入江とはかなり離れた場所で,通勤もけっこう時間が掛かりそうです。

 逮捕された被告発人大網健二の父親の住所が金沢市入江となっていたのですが,兄の関係者OSNが社長をする会社の平成6年11月当時の住所というのはわかりません。平成9年当時は,米泉となっていたような気もしますが,西金沢の辺りではあったようです。

 昭和57年の1月から3月頃になるのか,金沢市浅野本町のアパートに住んでいた頃は,パッソルというスクーターで,東山の銭湯に行っていたのですが,けっこう遠くて寒い思いをした記憶があります。だいたいの場所しかわからず,調べて確認をしておきたいと思います。

 その前に,開いていたページで少しスクロールダウンすると,「売防法直前にはすでに栄華は過去のものになっていたようだ。ちなみに,香林坊裏の青線とは先日書いた新天地のことである。」とありました。

 昭和の時代の香林坊といえば映画街というイメージのあるのですが,どこにあったのかわからないものの香林坊劇場というストリップ劇場があったという話でした。昭和58年の10月頃,観音堂の被告発人安田敏のアパートで,社長が若い女の子と県外で心中をしたという話を聞きました。

 石坂最後の遺構として,「綾乃家」という屋号の大店があり,建物が残されているらしく写真がありますが,どこあたりになるのか見たことのない小路になります。建物の前に古い木の梯子がおいてあるのですが,自分の家にある古い梯子とよく似ています。外には出していません。

 続きを読むと,「11月。半年前,そこにあったはずの猫窓物件は影も形もなくなり,無情にも目の前には更地が広がっていた。これを見たとき,ひとつの歴史がおわったような,どこか清々しい感情が湧き上がってきた。」とあり,写真があります。

 先程の野町一丁目の交差点を左折というのは車が通行できるような道路ではなく,生活道路という看板のありました。記憶とは異なる気もするのですが,考えられるのは野町二丁目の交差点を左折ということになりそうです。

 「加登長 愛宕店」というのを候補から指定して検索したのですが,ひがし茶屋街も住所が同じ金沢市東山一丁目だとわかりました。

 広い道路に面していたという記憶になっていたのですが,昭和57年に行っていたのは,この大和温泉の可能性が高そうです。住所が金沢市東山3丁目となっています。

 撮影日が2018年となっているGoogleストリートビューばかりですが,金沢市内の路地裏のような町並みをみていると,ずいぶん古く壁が傷んでいたり,トタンが錆びている建物を多く見かけます。海の潮風の影響はないはずですが,奥能登より同じぐらいの古さで傷んだ建物が多いような気がしました。

 東山の範囲が思いの外,狭かったのですが,いりくんだかたちで観音町がありました。この観音町が,前に旧地名の復活のニュースをみた町名であったように思います。

  • 観音町1丁目 https://t.co/8JEJ8Ajf6W \n 元和二年、観音院が卯辰山から移されたとき、観音院から浅野川大橋までの道を拡張し、この通りを観音町と称した。 \n \n 令和元年5月1日復活 \n 0.8ha \n 約36世帯 \n (東山1丁目の一部)
  • 観音町2丁目 https://t.co/hTgAXkGqOk \n 元和二年、観音院が卯辰山から移されたとき、観音院から浅野川大橋までの道を拡張し、この通りを観音町と称した。 \n \n 令和元年5月1日復活 \n 0.5ha \n 約27世帯 \n (東山1丁目の一部)
  • 観音町3丁目 https://t.co/ORoJqOjpmL \n 元和二年、観音院が卯辰山から移されたとき、観音院から浅野川大橋までの道を拡張し、この通りを観音町と称した。 \n \n 令和元年5月1日復活 \n 2.4ha \n 約33世帯 \n (東山1丁目の一部)

 ニュース記事としては情報が見つからなかったのですが,令和元年5月1日復活とあります。平成から令和なったのもこの5月1日だったように思います。3町内に分かれ,世帯数がそれぞれ36,27,33となっているのも気になるところです。

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> トンピン逮捕。 多分、この件は、まだまだ他のTwitter煽り屋にも逮捕者が波及するんやないかな。 https://t.co/5gcLzBXNo6

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> おはよー アカロック解除されましたが、思うところがあるのでしばらくTwitterお休みしますー! 皆さん頑張りませう! https://t.co/dPRAsdSysi

  • 買売春、なぜ違法なのか(前田恒彦) - 個人 - Yahoo!ニュース https://t.co/XuDrlWrWGw もちろん、警察が本気で捜査をするか否かは別問題だし、性交に及んでいたという客観的な証拠を押さえるには確たる情報に基づいて現場に踏み込むほかなく、立件に難があるのは確かだ。
  • 買売春、なぜ違法なのか(前田恒彦) - 個人 - Yahoo!ニュース https://t.co/XuDrlWrWGw それでも、「赤線」と呼ばれる一部地域では、カフェーや料亭などに営業形態を変え、特殊飲食店として警察の営業許可を取った上で、売春婦が私的に売春を行うという“建前”の下、半ば買売春が黙認されていた。
  • 買売春、なぜ違法なのか(前田恒彦) - 個人 - Yahoo!ニュース https://t.co/XuDrlWalOY その理由は、売春婦やその周辺関係者の生活を維持する、繁華街など地域経済に及ぼす影響を回避する、買売春を性欲のはけ口とすることで性犯罪を防ぐ、といったものだった。
  • 買売春、なぜ違法なのか(前田恒彦) - 個人 - Yahoo!ニュース https://t.co/XuDrlWalOY その理由は、売春婦やその周辺関係者の生活を維持する、繁華街など地域経済に及ぼす影響を回避する、買売春を性欲のはけ口とすることで性犯罪を防ぐ、といったものだった。
  • 買売春、なぜ違法なのか(前田恒彦) - 個人 - Yahoo!ニュース https://t.co/XuDrlWalOY 転機となったのは、国際連合への加盟に向けた動きだった。 \n \n  国連は、人身売買や売春からの搾取、売春宿の経営などを禁じるとともに、売春婦を被害者と位置づけ、その保護や更生、職業紹介などを加盟国に求める条
  • 買売春、なぜ違法なのか(前田恒彦) - 個人 - Yahoo!ニュース https://t.co/XuDrlWrWGw 「赤線」「青線」を根絶し、諸外国から野蛮と見られるような風習をやめる必要があったわけだ。 \n \n  そこで、1956年の国会で、改めて売春防止法案が審議されることとなった。
  • 買売春、なぜ違法なのか(前田恒彦) - 個人 - Yahoo!ニュース https://t.co/XuDrlWrWGw もちろん、死活問題となる売春業者らは、法案成立を阻止するため、水面下で熾烈な政界工作を行った。 \n \n  1957年から58年にかけ、東京地検特捜部が贈収賄の容疑で国会議員3名と業者5名を次々と逮捕、起訴したほど
  • 買売春、なぜ違法なのか(前田恒彦) - 個人 - Yahoo!ニュース https://t.co/XuDrlWrWGw 「この法律は、売春が人としての尊厳を害し、性道徳に反し、社会の善良の風俗をみだすものであることにかんがみ、売春を助長する行為等を処罰するとともに、性行又は環境に照して売春を行うおそれのある女子に対す

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> 《神々の黄昏》無観客上演とライブストリーミングで「ステイホーム」を強いられた人々に極上のオペラを届けたびわ湖ホール。この1年と今、これからを館長に聞きました →「ホールを止めるな!」~コロナ禍での公立劇場の使命と奮闘の1年を聞く(江川紹子) - Y!ニュース https://t.co/E3k3bHSQhQ

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> 川出敏裕東大教授の「弁護人の立ち会いが容疑者の更生可能性や謝罪の意思を阻害する」説ってのがよく分からない。弁護士立ち会うと、更生・謝罪しようとする人が、どうしてできなくなるの?→「人質司法」の誤解アピール 法務省、ゴーン事件受け世界へ動画発信 https://t.co/5kvYWJT882

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> 身柄拘束された被疑者に、被害者への謝罪の意思があれば先方にそれを伝え、更生の意思があれば、そのための条件を整えて、できるだけ刑事責任を軽減するよう努めるのが、多くの弁護人がやってることでは?どうして取調べに立ち会うとそれを阻害するようになるわけ⁈

 売春防止法について調べたのは初めてになると思いますが,検索候補に「なぜ」が付いてきました。前田恒彦元特捜部主任検事の記事が出てきたのは意外ですが,知りたいと思っていたことがよくまとめられ,疑問点も残らず,理解が出来たように思います。