(ウ). 長く勘違いしていた,入社のきっかけとなった被告発人安田繁克の母親の愛人

 すでに書いていることですが,私は長い間,被告発人安田繁克のことを堂野さんの愛人の息子だと思っていました。実際は,堂野さんを金沢市場輸送のイワシの運搬の仕事に紹介した松浦さんの愛人の息子だったのですが,この間違いにいつ気がついたのか現在思い出せなくなっています。

 繰り返し愛人と聞いていたのですが,松浦さんは金沢市場輸送で仕事を初めてすぐの頃,若い妻が家出をしたという話でした。それでも1度は,その妻という女性の姿を金沢港のイワシの仕事の現場で見かけています。髪が長く,顔ははっきりわからなかったのか,印象に残っていません。

 離婚をしたとは聞いていなかったので,新たに入籍も出来ず愛人となっていたのかもしれません。近年は愛人という言葉自体を見かけなくなっていますが,平成の前後にはテレサテンの「愛人」というヒット曲もあり,身近によく聞くような言葉ではありました。

 当時,松浦さんは45歳ぐらいと聞いていたように思いますが,妻は若く,20歳過ぎかあるいは10代と聞いていたかもしれません。子供が二人いてどちらも男の子ですが,上の子は昭和61年生まれの私の長男より1つほど年上と聞いていました。下の子は,まだ満足に話が出来ない年頃でした。

 私が市場急配センターで市内配達の仕事を始めたのは,平成3年の6月23日になります。私の記憶では5月だったのですが,金沢市場輸送の運行表に6月分の運行記録がありました。

 母親を通じて金沢刑務所の拘置所に差し入れられた一部だったのか,頼んでいなかったはずの,金沢市場輸送の運行表があり,疑問に思いました。あるいは,斐川雅文弁護士から郵送で差し入れがあった一部になります。

 感覚的に一月ほど先に被告発人安田敏は金沢市場輸送で市内配達の仕事を始めていましたが,すっかり打ち解けた様子でした。すぐに繰り返し聞かされたのが,大野君のことです。被告発人安田敏は私に,当時16歳という大野君のことを堂野さんの愛人の息子だと話していました。

 当時はそれほど深く考えなかったと思うのですが,被告発人安田敏は堂野さんのことをよく知る人物のような口ぶりでした。堂野さんは金沢市場輸送の社員運転手ではなかったはずで,会社に来ることも少なかったと思うのですが,考えられるのが金沢市場輸送での夕方以降の麻雀です。

 しかし,朝早く夕方早めの時間に仕事が終わる市場急配センターの市内配達の仕事をしていた被告発人安田敏が,夕方に金沢市場輸送の事務所に行くとは考えられず,被告発人安田敏が麻雀の話をすることもなかったと思います。

 私が見たのは一度だけだったと思いますが,群馬県の中国化薬に,堂野さんが金沢市場輸送の大型トラックで荷物を運んできていました。ウィング車だったと思うのですが,なぜか平ボディ車を見たような記憶になっています。荷物が爆弾か魚雷だけに,シートを掛ける平ボディ車とは考えにくいのですが。

 他にも金沢市場輸送の長距離の仕事をしているような感じでしたが,ミールやダンベを運ぶのも見たことがなかったと思います。持ち込みのダンプも,一般の土砂積みのダンプに比べかなり小型に見えました。

 古い型の三菱ふそうの大型車だったと思います。色がバイクの塗装のようなワインレッドで,色の具合で小さく見えるとは考えていましたが,普通の大型車のキャビンには見えなかったと思います。

 10トン車と6トン車の間に別の大きさの車種はなかったと思うのですが,そもそも何を運んでいたのか不思議なダンプでした。土砂積み禁止のダンプになっていたと思いますが,通常,土砂積み禁止のダンプは木材チップなど軽くてかさばるものを運ぶので,車体は大きくなる傾向がありました。

 大野君は大人しく無口でしたが,体の大きな少年でした。仕事中もヘッドフォンをつけて曲など聴いている様子でした。何度か市内配達で同乗させたことがあるのですが,話しかけると割合,普通に話していました。

 夏休みになると高校生の大野君の友人も,市内配達のアルバイトをするようになり,彼も同乗させることがありました。名前は今も憶えていますし,なんとなく姿や顔も記憶にあるのですが,細身で割と背が高く,大人しく素直な少年でした。

 被告発人安田敏がやたらと積極的に,私にこの堂野さんの愛人の息子という大野君の話をしていたのですが,堂野君の家は,金沢市内の涌波だと言い,安田敏が住む花里のすぐ近くになります。アルバイトの少年も家が近くと聞いていましたが,どの辺りに家があるのかは,聞かなかったように思います。

 この涌波には,ウェルマートというスーパーがあり,近年出来たスーパーで,私の知る範囲で他に,保古店と,玉鉾店があったと思います。保古店には,東力2丁目のアパートから買い物に行くこともありました。ただ,平成9年頃には全滅をしていたと思います。

 他に,七尾市に本部を置く,昭成会という暴力団の組事務所がありました。大通り沿いで周囲はほとんどが住宅地だったと思いますが,特に問題になっているとは聞いていませんでした。珠洲市のKという被告発人安田敏の友達が所属したのもこの事務所だったと思います。

 珠洲市のKに最初に会ったのは昭和58年の秋頃のことでしたが,昭和61年の12月に被告発人安田敏が私のアパートに訪ねてくるようになった頃は,暴力団員になったといい,被告発人安田敏はそのKから借りてきたというカマロという大型のアメリカ車に乗ってくることもありました。

 たぶん,その後も付き合いはあったと思うのですが,平成3年には珠洲市のKの話を,被告発人安田敏がすることはたぶんなかったと思います。珠洲市のKと被告発人安田敏の間には,他にもいくつか接点があったのですが,その辺りも記録には洗いざらい徹底した記述してあります。

 被告発人安田敏の花里のアパートについても,Googleマップで場所を確認しておこうと思いながらやっていませんでした。前に官舎があったので,たぶん今でも場所の特定はできそうに思います。

909:2020-09-10_16:38:39 * 《参考資料》被告発人安田敏の平成3年当時の花里のアパートと,金沢市涌波周辺 https://hirono-hideki.hatenadiary.jp/entry/2020/09/10/163837

 堂野さんの愛人のことですが,大野君の話を聞く前に,母親とは会っていました。大同生命だったと思いますが,生命保険の勧誘で,堂野さんが引き合わせたのが,その女性だったからです。時期は春か秋だったと思います。

 堂野さんが勧誘をする前に,生命保険外交員の女性から私の妻に接触があった様子でもありました。東力のアパートの駐車場に堂野さんが車を停め,車の中で待っていた様子が記憶にあります。女性が一人でアパートの中に入り,契約の手続きをしたように思います。

 妻から何度かその女性の名前は聞いていたのですが,余り話をしなかったと思います。生命保険の加入も不本意でした。たぶん同じ頃になると思うのですが,堂野さんに頼まれて,寺中町まで車で送ったことがありました。涌波とはかなり離れた場所です。これもマイマップに追加しておこうと思います。

910:2020-09-10_17:17:00 * 《参考資料》堂野さんを送った寺中町の大体の場所と,同じ寺中町の中西運輸商の事務所,それと近くの金沢西警察署 https://hirono-hideki.hatenadiary.jp/entry/2020/09/10/171658

 堂野さんの乗用車というのは見た記憶がなく,東力のアパートに来たときも,保険外交員の女性の車を運転しているような感じでした。堂野さんについては,どこに住んでいるのか,また,家族のことも話を聞くことはなかったように思います。妻子がいるような話も聞いていなかったと思います。

 堂野さんを金沢市場輸送に引き入れた松浦さんですが,元暴力団員で,いかにもそれらしい雰囲気で,昭和の時代の仁義なき戦いの映画の感じでした。一度,本当にその時代の映画に出てくるような,古いポンコツのベンツに乗って,乱暴な運転をする様子を目の当たりにしたことがありました。

 大野という女性の名前は聞いていたと思いますが,保険の契約をした当時,堂野さんの愛人とは聞いていなかったかもしれません。ただ,堂野さんの妻と考えることはなく,それは大野という違った名前を聞いていたからだと思います。

 堂野さんと最初に会ってから,生命保険の契約まで半年ぐらい間があったように思います。暑くもなく寒くもなく過ごしやすい季節だったと記憶にあるので,やはり平成2年の秋になりそうです。その後,大野という女性に会うことはなかったと思いますが,どこかで一度,顔を合わせたような気もします。