イ. 金沢市場輸送で被害者安藤文さんを見かけるようになったのと,入れ替わるように静かにいなくなった元石川県警察の警察官というKKさん

 いなくなる少し前,私には家業を継ぐことになり群馬に帰ることになったとKKさんは話していました。群馬に広大な梅園があって,その管理のような話にも聞こえましたが,父親の健康状態の悪化もありそうな話しぶりだったように思います。

 イワシの運搬の仕事が少なくなってからは,午後に時間を持て余し,KKさんと一緒にバラック小屋のようなラーメン店によく行っていました。そこで昼から焼酎を飲んでご機嫌だったと思うのですが,元警察官で白バイ隊員の行動としては疑問でした。他にも昼から酒を飲む運転手はいなかったと思います。

 細かいことなのでこれまで記述することはなかったかもしれないのですが,そのバラック小屋のようなラーメン店では,下から上の方に太くなる紙コップの形状で,割と大きめ,それが銅でできているような入れ物でKKさんは焼酎を飲んでいました。他に同じような入れ物は見たことがなかったと思います。

 熱燗のように温めたものを飲んでいるのかと思っていたのですが,尋ねるようなことはなく,湯気が出たり,火傷を気にするような飲み方もしていなかったように思います。おばさんにしては若そうな女の人がその店の切り盛りをしていました。

Googleで調べると,焼酎用ロックグラスというのがあるらしく「ステンレスや銅、錫といった金属製のロックグラス」とありました。金沢中央卸売市場の周辺の店は14時前には閉店となるので,金沢市場輸送の頃からそのラーメン店には行っていました。

 客のほとんどがとなりのパチンコオークラの客であったとも思われます。ただ広い道沿いで,後ろのパチンコ店までは少し離れていました。店の前が広くなっていたのか車も駐車がしやすかったように思います。店の名前は見ていないようにも思います。赤いラーメンののれんがあるだけでした。

 そのラーメン店でKKさんは,被告発人松平日出男に対する不満も口にしていました。とにかく酒が入ると明るくなる性格だったので,深刻さは伝わらず,愚痴を言っているだけにも聞こえたのですが,折り合いはよくない感じでした。

 そもそもKKさんは早い段階で金沢市場輸送の大型平ボディ車の運転手から市場急配センターの社員になっていたのですが,被告発人松平日出男と話す姿はほとんど見ていなかったように思います。もっとも被告発人松平日出男が金沢市場輸送の事務所にいることも少なかったです。

 金沢市場輸送の事務所の机で被告発人松平日出男が仕事をしているような姿は見たことがなく,たぶん机もなかったのだと思います。姿を見かけたのは,夕方以降で,休憩室での麻雀が始まる前の集合か,始まってからのことです。

 金沢中央卸売市場での現場のことは被告発人梅野博之に任せているようでもありました。被告発人松平日出男は運転手の経験もなさそうだったので,仕事の内容は右も左も分からなったのかもしれません。

 普通なら会社にいないということは,他に仕事に出ているか,仕事に出てきていないことになるかと思いますが,金沢市場輸送の青果部門の場合は,石川丸果の売り場が現場のようにもなっていたので,そちらにいた可能性は出てくるわけです。

 もっとも運転手が自主的にできる仕事で,私自身,その場で上から指示を受けたという記憶は余りありません。たまに臨時の仕事で荷物を運んでくれということはありました。被告発人梅野博之の場合は,臨時で長距離に出ることもあったようです。

 KKさんですが,最初に北國銀行中央市場支店の前辺りで,大型バイクの話をしたことをよく憶えています。昭和61年の秋とも,昭和62年の春とも思うのですが,年末の忘年会にはその姿を見ていなかったように思います。

 金沢市の繁華街片町で,昭和56年当時,バナナなんとかというディスコがあったビルになります。金沢で初のディスコということで話題にもなっていました。相撲茶屋輪島もあったと思います。食事をしたのが,その後釜の居酒屋になるのかもしれません。一時,大問題になったお店です。

 ディスコはバナナビーチだったかと思います。その左隣のビルとも思うのですが,上の方の階のスナックにも行きました。いわゆる2次会だったのかと思います。Hさんに連れて行かれたように思います。何年か前,少し変わった名前の同姓同名の人が,割と大きな薬物事件の逮捕者に含まれていました。

 Hさんも当時,大型平ボディ車に乗務し,日通カラーの一台で,ダブルマフラーというのをつけていました。同じトラックでもエンジンがV8でないと無意味ともいわれたダブルマフラーになります。トラック野郎の映画でもおなじみの音です。

 KKさんの姿を見るようになった頃にはHさんはいなくなったとも思いますし,KKさんがローカルの仕事をしていると話していたのも,日通カラーの大型平ボディ車の一台だったと思います。高柳の北陸通運の仕事をよくやっているとも話していたような気もします。

 KKさんはあとにダンベで長距離の仕事もしていましたが,長距離にも鮮魚にも抵抗はなさそうでした。新鮮なイワシを運ぶこともありましたが,腐ってヘドロになりつつあるようなイワシを運ぶこともあり,ミールの製品には鮮度はまったく無関係という話でした。

 これはイワシが死んでからの時間と言うよりは,船で運ばれてくる時間に揺られ,水槽内に圧が掛かりイワシが潰れるという話でした。時期が冬場だったので,真夏の鮮魚の仕事よりは,ましに思えることもあった気がします。保冷車の中をきれいにしておかないとけっこうきついことになりました。

 魚の汚れた仕事には抵抗がなさそうでしたが,いつも新品のようなパリッとした作業服を着ているのが印象的でした。市場急配センターの作業服になります。青の深い色に,折り返しのような部分がえんじ色になっていました。被害者安藤文さんも着ているのを見たことがありました。

 金沢市場輸送の事務所で,KKさんと被害者安藤文さんが一緒にいるのは見た憶えがなく,イワシの運搬の仕事が少なくなった頃には,KKさんがコンピューターのデータ入力をろくな手当もなくやらされていると,これもラーメン屋でくだを巻いていたように思います。

 他にできる者がいないともKKさんは私に話していたのですが,誰も扱えないコンピューターを会社の事務所に導入し,KKさんに片手間にやらせていたというのも,今考えると変な話です。身近なものではなかったのではっきりしたことはわからないですが,まだパソコンという言葉はなかったと思います。

 マイコンという言葉はあったかもしれません。50メートル道路沿いにマイコンピルといのがありました。いつ頃できたのか憶えはないですが,平成15年から18年年頃にはよく店に立ち寄って,パソコン関係の買い物をすることもありました。

 KKさんもコンピューターと呼んでいたように思うのですが,画面が小さく黒地に緑色の文字を見たような憶えが少し残っています。まさに電子計算機という感じでした。難易度もさっぱりわからなかったのですが,それなりの教育を受けていないとできそうにはなかったです。

PC-8000シリーズ - Wikipedia https://t.co/sirty99q2j \n 種別パーソナルコンピュータ \n 発売日1979年9月(40年前)[1] \n 標準価格168,000円 \n 販売終了日1983年1月[2] \n 売上台数25万台[2]

 少し調べたのですが,上記のPC-8000シリーズという写真が,モニターのかたちはほぼ記憶通りでした。キーボードはだいぶん違っていると思います。平成9年にパソコンを触るようになったときも,余り変わっていないキーボードの形状だと思いました。

 当時最新のコンピューターだとなんとなく思っていたのですが,今考えると数年前の中古品だったのかもしれません。標準価格168,000円というのもずいぶん安く思えたのですが,Windows95が出てからのパソコンが極端に高くなったのかもしれません。

 そういえば,昭和59年当時,西念町の金沢市場輸送の事務所では,竹沢俊寿社長の夫人が,いつも算盤を弾き続けていました。どうしてもコンピューターを使う必要はなく,気が向いて買ったものを事務所に置いていたのかもしれず,KKさんも遊びの延長のような話しぶりでした。

 どうも当時のコンピューターは高価で,金沢市場輸送が必要性に迫られて買ったという見立てが強すぎたのかもしれません。

 同じ頃になると思いますが,私はPCエンジンというゲーム機に,後でCDロムを合体させるようなゲーム機を5万円台後半で買ったのですが,デザインも斬新なものとなっており,ゲームの性能も高く感じていました。

 KKさんがいなくなって,次にYTと藤田さんが一緒にやめていなくなったのですが,6月の片山津温泉ホテルながやまでの一泊の慰安会には参加をしていました。これはスルメイカの仕事のこともあるので,6月でも下旬になると思われます。

 被害者安藤文さんの参加はなかったですが,その頃には,被害者安藤文さんが市場急配センターの事務員らしいと知っていたと思います。誰に聞いたのか思い出せないですが,少なくとも金沢市場輸送の運転手の間で,被害者安藤文さんが話題になることはなかったです。

 また,その片山津温泉ホテルながやまでの一泊の慰安会の時点では,まだ被告発人浜口卓也が市場急配センターに来ていませんでした。その1,2週間後ぐらいだったと思います。社員ではなく,2トン車の持ち込み運転手としての仕事でした。