ア. 被害者安藤文さんの市場急配センターへの入社時期

 平成2年の4月頃になると思います。金沢市場輸送の事務所で午前中のだいたい決まった時間だけ姿を見かけるようになりました。コンピューターの入力操作に来ているらしく,初めのうちは金沢中央卸売市場の仲買か金沢中央卸売市場の石川丸果の社員と思っていました。

 金沢中央卸売市場の水産部門はウロコ水産と石川中央魚市の2つ売り場がありましたが,青果物の部門は石川丸果の売り場だけでした。その売り場の奥には仲買の店舗がかなりの数ありました。

 水産の鮮魚にも仲買がありましたが,金沢市場輸送や市場急配センターで仕事をすることはほとんどなかったと思います。それに対して,青果物の仲買は,市場急配センターが午前と午後の2便で小口の市内配達をやっていました。

 古い記録には記憶も新しかった当時の詳しい記述があると思いますが,もともとは昭和60年ぐらいに金沢市場輸送,小林運送,石川日通などが運転手とトラックを出しながら始めたもので,金沢市場輸送のトラックと運転手の数が多く,現場の監督者だったのも高田さんでした。

 平成元年の秋だと思いますが,それまで同じ事務所と休憩室だった金沢市場輸送の長距離と市内配達が,市内配達の部門が独立するかたちでできたのが市場急配センターになります。しかししばらくは以前と同様に同じ事務所と休憩室でした。

 平成2年になってからとも思うのですが,あとに市場急配センターの事務所ができる場所は,すべて金沢市場輸送の駐車場で,使わない大型平ボディ車などのトラックが駐車されていました。

 記憶が定かではないですが,イワシの運搬で大型平ボディ車が仕事をしていたのは2月いっぱいとも3月に入っても他の仕事と掛け持ちしながらだらだら続けていたとも思われます。それがいよいよなくなったところで,大型平ボディ車をその駐車場にとめにいきました。

 車での送り迎えがあったと思うのですが,いちおう事務所で配車係をしていたYTと藤田さんの2人がいて私と3人でした。そのときに藤田さんではなかったかと思うのですが,駐車場の一部を中継場にするらしいと言い出したのです。

 いちおう事務所で配車係としたのは,本恒夫社長が配車の仕事を独占し,2人にほとんどなにもさせなかったり,運転手の荷物の積み込みの手伝いなど雑用をさせていたことです。2人は会うたびに本恒夫社長に対する強い不満を口にしていました。

 給料の支払いはあったようで,その給料の不満というのは聞いたことがなかったと思うのですが,中でもよく憶えているのは,YTと藤田さんの2人を同乗させて,七尾市の港の近くにあるスギヨの工場に荷物を積みに行ったことです。

 また別のところに記述をしたいと思いますが,YTは被告発人安田繁克とも関わりがあり,藤田さんは仕事で被告発人松平日出男とも関わりがあったようです。YTが都商事,藤田さんが津幡町の協共運送になります。

 3人で駐車場に行ってから短い間だったと思います。次に同じ場所を通りかかると,その駐車場に事務所の建物ができていたのです。これは金沢市場輸送と市場急配センターの上層部が,堅く秘密を守る情報統制に長けていたことをうかがわせるところと思います。

 おそらくこの市場急配センターの新社屋の完成に合わせて事務員として採用され働き始めたのが被害者安藤文さんになると思います。それまで日中を通して彼女が金沢市場輸送の事務所にいるのを見たことがなかったからです。

 彼女の金沢市場輸送の事務所でのコンピューターのデータ入力は,その後も続きました。ただ,3月に入ってからだと思いますが,出かける時間に変化があって,午前午後を問わず,私が会社にいる時間は,市場急配センターにいて,私が出かけるときに金沢市場輸送に行くようになったようです。

 七尾市に関東行きの荷物を積みに行くのは14時頃だったと思いますが,出発するときに彼女も出かけていくようになりました。これも会社の指示があったのことだと思います。

 金沢市場輸送で被害者安藤文さんの姿を見るようになったのは,もう雪が降ることはないだろうという時期でした。昭和の時代に比べると雪は少なくなっていましたが,それでも4月に入って雪が降ることも一度くらいは普通にありました。