* 四大死刑冤罪事件(免田事件,財田川事件,松山事件,島田事件)の一つとされる宮城県志田郡松山町(現大崎市)の松山事件

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 数日前からブラウザのタブでページを開いたままになったいたのですが,こちらも考えさせられる発見があったので取り上げておきたいと思います。数日前,免田事件を取り上げた時になるのか,この松山事件のことを忘れ,松川事件と取り違えていました。


1984年(昭和59年)7月11日、無罪判決。28年7ヶ月にも及ぶ獄中生活に終止符が打たれて無罪となった斎藤は7516万8000円の刑事補償金を受け取るも、裁判費用の借金返済に消えた(再審請求以降の裁判費用は借金ができず、支援団体のカンパでまかなっていた)。故郷に戻り、仙台市の弁護士事務所で一時期、働くなどした。

[source:]松山事件 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%BE%E5%B1%B1%E4%BA%8B%E4%BB%B6

 同じWikipediaのページは以前にも読んでいたはずなのですが,更新や変更があったのか確認する術はないものの,数日前,上記の引用部分「て無罪となった斎藤は7516万8000円の刑事補償金を受け取るも、裁判費用の借金返済に消えた」は,初めて知ったように思いました。

 「1984年(昭和59年)7月11日、無罪判決」とあります。前にこの松山事件を調べたとき,最初,愛媛県松山市をイメージしていたので,宮城県と知ってずいぶん意外に感じたことを憶えています。

 現在の宮城県大崎市とありますが,古川市も現在は大崎市になっているはずで,前に調べたとき,東北自動車道の大和インターも大崎市になっていたかもしれません。金沢市場輸送の長距離トラック運転手の仕事で,割とよく通行した辺りで,その場所自体が印象にありました。

» 大和 I.C. から 松山町駅 - Google マップ https://t.co/j4cHpDi1CF

 確認もあるので調べたところ,東北道の大和インターは, 宮城県黒川郡大和町となっていました。黒川郡というのは聞いたことのない地名ですが,その下にある富谷市というのも同じです。概要に2016年10月以前は黒川郡に属し,仙台市のベットタウンとあります。

 鮮魚の東北便(東北陸運)で,塩釜本社の立ち寄りがないときは,大和インターから東北自動車道に乗っていました。岩手や青森方面から石巻に向かうときは,ほとんど東北自動車道の一関インターで降りていました。民家が少なく独特の雰囲気があったと印象にある道路です。

 そんなはずはないのですが,人の気配が感じられない集落が点在していたという印象が割と強く残っています。一関インターから国道4号線に出た辺りは,道路も広く町の賑わいがありましたが,それも他の町とは違った雰囲気があり,源義経の最後の地であることが先入観にあるとも考えたり。

» 一関インターのP から 岩手県 衣川 - Google マップ https://t.co/pvC022h53g

 Googleマップは高速道路のインターが分かりづらいという不満があるのですが,一関インターで検索すると「一関インターのP」と出てきました。検索した衣川も地名ではなく河川の名前となっていました。

 平泉は岩手県西磐井郡平泉町となっていて,すぐ近くには奥州市があるようです。一関市が奥州市になったのかとも考えたのですが,Googleマップには一関市が見えます。

» 奥州市 - Wikipedia https://t.co/yWiQ4JBLTM 2006年(平成18年)に、水沢市江刺市の2市、および、胆沢郡の前沢町胆沢町・衣川村の2町1村が新設合併して誕生した。

 割と最近に見かけるようになった地名と思っていましたが,平成18年に新設合併とあります。水沢市がありますが,昭和59年に金沢港のスルメイカを運んだときは,盛岡の市場と水沢市の市場の2箇所おろしだったという記憶があります。

 昭和59年のスルメイカのシーズンに2,3回,盛岡市水沢市に行った記憶があり,他にも仙台市石巻市塩釜市にも行っているのですが,ちょうど昭和59年の7月11日に松山事件の再審無罪判決が出ていたというのは,全く知らなかったことですが,感慨深さがあります。

 昭和59年は金沢市場輸送の4トン保冷車でしたが,仙台方面への仕事は数が少ないもので,昭和61年8月の2度目の入社時には,東北陸運の定期便が始まっていたようですが,荷物は少なく,4t車での仕事が多かったようです。市内配達をしながら臨時で運行に行ったことがありました。

 東北便の荷物が増えたのは,塩釜市の宮城陸上,通称みやりく,の定期便をするようになってからで,それまでは宮城陸上の自社便が金沢に来ていて,福井中継を金沢市場輸送に出していました。また,帰り荷は七尾市のスギヨの荷物でした。

 塩釜の荷物は練り製品が多いという特徴もありました。おでん種や笹かまぼこです。石川県七尾市のスギヨも練り製品の会社ですが,最近は見かけていないですが,カニカマの最初の開発としてテレビで取り上げられることの多い会社です。

 東北陸運は,同じカラーのトラックで苫東陸運があって,北海道からの荷物を仙台港のフェリーから運んでいました。北陸便の荷物もありました。出発は早いときで午後1時半だったと記憶にありますが,午後2時頃が多かったかもしれません。雪のときも時間は同じでした。

 途中に山形自動車道山形市内の近くまで開通したのですが,これで東北便の仕事が一気に楽になりました。ひどいときは昼間の路面凍結の渋滞で,山形県の県境に入るのが夕方5時頃ということもありました。開通後の早いときは新潟市内に入る時間です。

 次の引用部分も気になる内容で,参考になるものです。


その後、鹿島台町の自宅に戻り、母と暮らしながら清掃員などとして働いた。アムネスティ日本支部などの団体で講演活動をしていたが、長期間死刑囚として過ごした間の年金は支給されず、晩年は生活保護を受給していた。精神的苦痛を理由に1億4300万円の国賠訴訟を起こしているが、訴訟内容は裁判費用の請求でなく精神的苦痛による損害賠償であるため、2001年(平成13年)に棄却されている(一方、足利事件布川事件の冤罪被害者は刑事補償金以外にも裁判費用を受け取っている。)。斎藤は2006年(平成18年)7月5日に多臓器不全のため75歳で死去。母も2008年(平成20年)12月24日、101歳で入所先の施設で亡くなった。

[source:]松山事件 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%BE%E5%B1%B1%E4%BA%8B%E4%BB%B6

 「アムネスティ日本支部などの団体で講演活動をしていたが、長期間死刑囚として過ごした間の年金は支給されず、晩年は生活保護を受給していた。」とあり,さらに「。精神的苦痛を理由に1億4300万円の国賠訴訟を起こしているが、訴訟内容は裁判費用の請求でなく」とあります。

 「斎藤は2006年(平成18年)7月5日に多臓器不全のため75歳で死去。母も2008年(平成20年)12月24日、101歳で入所先の施設で亡くなった。」という親子二人の人生で,昭和30年12月8日の強盗殺人・放火での逮捕,同月12月30日の起訴とのことです。