被害者安藤文さんの血に染まったピエロ(道化師)の背景# 伊藤塾塾長伊藤真弁護士と,旧日本軍が人体実験を行ったとされる731部隊の歴史問題:昭和57年名古屋

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悪魔の飽食』(あくまのほうしょく)は、小説家の森村誠一日本共産党機関紙の「赤旗」の記者(現在の「しんぶん赤旗」)で日本共産党員[1][2]の下里正樹との共同取材に基づいて、関東軍731部隊を扱かったノンフィクション作品である。第1部は1981年(昭和56年)に『しんぶん赤旗』日刊紙版に、第2部は1982年(昭和57年)に『しんぶん赤旗日曜版』に連載され、二冊は光文社から単行本として刊行された。しかし、無関係の写真が掲載されていたことで旧版は絶版処分されて、改編されて再出版されている[3]。第3部は1983年(昭和58年)に角川書店の「カドカワノベルズ」から単行本として刊行された。

 上記のWikipediaにある「無関係の写真が掲載されていたことで旧版は絶版処分されて、改編されて再出版されている」という話は,今日初めて知ったように思います。

 私が「悪魔の飽食」を読んだのは昭和57年の秋のことで,場所は名古屋市内でした。どうやらそれば絶版処分されたという「悪魔の飽食」だったようですが,あらためて考えると,不思議とも思える奇遇で出会った本になります。

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> 韓国紙「ヒロシマナガサキはアジア人の復讐」 安倍首相批判に「原爆の正当性」持ち出す (J-CASTニュース) - Yahoo!ニュース http://t.co/nZPNY4i1Pc 昭和57年、引っ越しを手伝った際にたまたま読んだ「悪魔の飽食」。数年前に見た情報では捏造とも

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> 森村誠一が原作だというのも気になることが多いけど。昭和57年頃に読んだ「悪魔の飽食」があるから。

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> 森村誠一悪魔の飽食】は捏造本だった(細菌兵器731部隊の真実) - NAVER まとめ http://t.co/f57h1NwSN4 数年前から情報は少し見かけているけど、細かいことは調べてもいない。Googleの検索候補で最初に出てきた。組み合わせキーワード。

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 すっかり忘れていたのですが,歴史的問題性も大きいので,以下に全文を引用掲載します。


【著者解説 2002/8/1】

全作品約300点中、これほど物議を醸した作品はない。関東軍731部隊戦争犯罪を告発したこの作品は、元隊員から提供された写真の中にインチキ写真が混入されていた。これを見分けることができず、グラビア写真に誤用したことから、マスコミに袋叩きにされ、右筋からも攻撃を受けた。

抗議電話は鳴りつづけ、夜中、窓に投石された。仕事場のドアに赤ペンキをぶちまけられ、連日、抗議の手紙や脅迫状が配達された。右翼の街宣車が押しかけて来た。私は外出時、防弾チョッキを着た。神奈川県警が常に護衛してくれて、県外にはなるべく出ないようにと警告された。

一時、絶版されたが、後に角川書店から復刊された。このとき、角川書店では、まず角川社長の身辺警護対策を講じたという。

この騒動だけに限られず、『悪魔の飽食』は内外、各方面に影響を及ぼした。海外、中、台、韓、旧ソ、米、英、仏、蘭、東南ア諸国などからも多数のマスコミ、ジャーナリストが取材に訪れ、私とコーワーカーの下里正樹氏はホテルニューオータニのスィートを借りて、連日インタビューに応じた。また教科書裁判では、証人として出廷した。俳優座で演じられ、中国ではこれをベースにして映画化された。

さらに、池辺晋一郎氏がこの作品をテーマに、混声合唱組曲悪魔の飽食」を作曲し、「悪魔の飽食を歌う合唱団」によって全国縦断コンサート、および第2次中国公演が進行中である。いまでも私の許に内外からの取材者が訪れる。作家は作品を完成すると、次作に取りかかるために、前作を忘れようとするものであるが、この作品だけはいつまでも私をとらえて離さない。

 上記の引用部分に,「関東軍731部隊戦争犯罪を告発したこの作品は、元隊員から提供された写真の中にインチキ写真が混入されていた。これを見分けることができず、グラビア写真に誤用したことから、マスコミに袋叩きにされ、右筋からも攻撃を受けた。」とあります。

 これは従軍慰安婦問題にも議論があったように思いますが,今朝は,たしかTwitterのトレンドに「日本政府」などとあり,わからないままリンクを開くと,従軍慰安婦問題での韓国の裁判所の判決のニュースだったと思います。

 今,別のブラウザで開いていた深澤諭史弁護士のタイムラインをみると,トレンドに,「国際ニュース 2 時間前 韓国ソウル中央地裁 元従軍慰安婦訴訟で日本政府に賠償命令 トレンドトピック: 国交断絶、日本政府」などとありました。

 Twilogでの検索に戻ります。

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> また、常石は、ハリスについて、731部隊と100部隊を混同していること、『続・悪魔の飽食』で問題になった731部隊とは無関係の写真を著書に掲載していることなどを指摘し、その著作の信頼性を疑問視している[14]。 https://t.co/1Xj83g4dJj

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> 731部隊 - Wikiwand https://t.co/1Xj83g4dJj なお、731部隊での人体実験を告発し、世間に衝撃を与えた森村誠一悪魔の飽食』は、「ノンフィクション」と称したフィクション作品である、との批判が一部である。

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> 731部隊のことは、昭和57年の秋になりますが、名古屋市内にいた頃、引っ越しの手伝いをしてその場でもらった本に、「悪魔の飽食」という本があって、読んで衝撃を受けたのですが、その後、5年以上前になると思いますが、ネットであれは作者の捏造だったという告発を見たのが最後でした。

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> マルタという人物が人体実験を行ったと読めそうですが、森村誠一の「悪魔の飽食」によれば、人体実験とした中国人やロシア人のことを木の丸太になぞらえ「マルタ」と呼んだ、という話のはずです。

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> 私が森村誠一の「悪魔の飽食」を読んだのは、昭和57年の秋のことです。西暦にすると1982年、今から37年以上前のことになります。この本を読んだのは、本の評判や知識が全く無い状態で、偶然が重なったことで読んだのですが、衝撃の内容でした。

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> もう10日以上経つと思いますが連日、中国の武漢で発生したとされる新型コロナウィルスのニュースが続いています。昭和の時代は伝染病と呼ばれていたように思いますが、ちょうど2,3日ほど前に「悪魔の飽食」のことを思い出していました。中心となったのはハルピンではなかったかとも思います。

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> モトケンこと矢部善朗弁護士(京都弁護士会)が森村誠一の「悪魔の飽食」を読んでいるのかは不明ですが、必要以上に刺激を与えることは、とんでもない危険性があるのではとも懸念します。昨日、今日はテレビで京都の観光に大きな影響が出ていることを取り上げてもいました。

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> 森村誠一の「悪魔の飽食」については、何年か前、4,5年ぐらいは経っている感覚になりますが、ネットで話題を見かけ調べたことがありました。かなり根拠不明のまま描いた部分もあったようでした。似ていると思ったのが従軍慰安婦の問題ですが、丁度、1,2日前に判決の記事をみました。

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> 図書館では森村誠一の「悪魔の飽食」を探すという目的もあったので、北陸中日新聞の記事は見出しを読んだだけだったのですが、考えてみるとテレビでがんがん報道する注目の事件、刑事裁判でもないのに控訴審の初公判が、北陸中日新聞の記事になっていたのは珍しく感じられることです。

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> 西太后呂后で思い出したのは則天武后になりますが、先日、宇出津の図書館で森村誠一の「悪魔の飽食」を探しているときに、津本陽の「則天武后」が今も本棚にあることを確認しました。これも官本で読んだ本になりますが、杜子春の下りが子供になっていました。

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> それはもやは一種の人体実験といってもよいものかと思います。それは森村誠一の「悪魔の飽食」のマルタの運命に似たものがあると、私は実体験として感じました。弁護士はただの危険生物ではありません、ということも告発の趣旨です。

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> 歴史上の人物が自ら書き記した本というのは,当時とても珍しく感じていました。宮廷での料理の内容などずいぶん細かいことが書いてあって資料を読んでいるようにも思ったのですが,この平成5年3月当時のことは,昭和57年秋に名古屋市で読んだ「悪魔の飽食」にもつながるものがあります。

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> 731部隊の中心人物といえば,石井四郎軍医中将ですが,悪魔の飽食では,千葉県の田舎の出身ということと京都の大学を卒業したことは印象的に記憶に残っていたのですが,金沢の旧制第四高等学校の出身であったことは,つい最近になって大きな発見と感じたところでした。

 名古屋と引っ越しの手伝いは出てきましたが,もっと具体的に記述をしておきたいと思います。名古屋に行ったのは昭和57年の9月の7日頃,名古屋市港区のバイク店に住み込みで働きに行きました。

 当時は「オートバイ」,「モーターサイクリスト」ではなかったかと思いますが似たような分厚いバイクの雑誌があって,分厚いのは日本全国のバイク店の広告のような店舗情報が掲載されていたからです。

 本当は横浜に行きたかったのですが,けっこうな数,電話を掛けたものの断られ,名古屋市に変更したところ,数件目に,すぐに来いと返事をくれたバイク店があったのです。婿養子だったと思いますが,その店長というのも単身,九州の宮崎県から出てきたと話していました。

 2,3年ではなかったかと思いますが,その間は田舎に帰るなと言われ,ぎりぎりまでずいぶん悩んだのですが,その年の大晦日の夜に,夜汽車に乗って高山線で宇出津に帰りました。なので名古屋にいたのは4ヶ月弱になります。

 名古屋市港区のバイク店は,店長の自宅でもありましたが,けっこう大きな家でした。ちょうどその隣に,レトロな古い建物があって,一応アパートという感じでしたが,共同トイレで,高くなった戸を開けるとそこが部屋になっていました。所持品は衣類とラジカセだけだったと思います。

 隣の部屋におじさんが一人住んでいましたが,余り顔を合わせることもなく,一度も話しことがありませんでした。あとで名古屋の市場に仕事に行っていて夜の仕事だと他の人に聞くことはありました。人が訪ねてくるという様子も見たことがなく,けっこう不思議な存在感がありました。

 朝食というのは食べた記憶がないのですが,昼は500円をもらって,店の裏側にある商店街の食堂に行っていました。名前もいつのまにか忘れていますが,先輩の従業員で24歳ぐらいと聞いていたように思います。直接の会話というのは余り記憶がなく,勉強はできそうなタイプの人でした。

 何度か,「とりすずのタコ部屋」の話をされたことはよく憶えています。名前から焼き鳥専門の居酒屋チェーンと思われます。

 他にもう一人,先輩の従業員がいて,ときどき大型バイクで港区の店の方に来ていたのですが,しばらく前に支店のような名東店が出来て,そちらの店の方をまかされているという話でした。じゃんちゃん,と呼ばれていましたが,体が大きくジャンボという意味でつけられたようです。

 名東店の店舗がいつ出来たのかはっきりしませんが,私が仕事を始めた頃には営業していたようです。名古屋市内から名古屋インターを超えると,上り坂になって,ちょうど登りきった辺りの右側,それもいくらかこだかくなった場所に,3つか4つ店舗の並んだ建物がありました。

 ちょうどガレージのような大きさの店舗で2階建ての2階は,普通のアパートのような部屋になっていました。畳の部屋ではなかったような記憶ですが,ワンルームにダイニングキッチンがついたような間取りであったように思います。

 同じ並びには小さな喫茶店もあったような気もするのですが,いずれも一階が店舗で二階が住居となっていたように思います。建物はかなり新しい感じで,見晴らしの良い場所でした。

 星ヶ丘という住所を見て,見覚えがあると思ったのですが,名古屋市千種区でした。建物が多くGoogleストリートビューが見づらいですが,その先の名古屋インターの乗り口の向こう側も,わりと急に見えて緩いカーブにもなっていたと記憶にある上り坂が見当たりません。

 名古屋インターの手前の右側に東山動植物園があったのも記憶どおりですが,その東山動植物園のちょっと先が星ヶ丘となっています。他に東山動植物園と同じ通りの道沿いに,三越のデパートがあり,一度,金沢市場輸送で展示会の荷物を運んだことがありました。

 長距離トラック運転手の仕事でも名古屋インターを使うのは,東京方面から来て名古屋市内に入るときだけだったと思います。石川県からだと全線高速道路で名古屋市内に入るときは,一宮インターで降りていました。これは名神高速で,名古屋インターは東名高速のはずです。

 引っ越しの手伝いと書いていましたが,正確には引っ越してきたときの荷物の片付けになると思います。

 そのジャンちゃんの人柄なのか気まぐれなのか,他に経験のないことですが,謝礼になるのか,好きな本をあげると言われたのです。片付けた荷物というのは本しか記憶にないのですが,それだけ本が沢山だったと思います。

 2,3冊選んでもらってきたような気もしますが,記憶に残るのは「悪魔の飽食」だけです。それを不気味とも言える古い部屋の中で読みました。電灯というのも裸電球だったのか,かなり薄暗かったように思います。土蔵の蔵のような建物でもあり,道路沿いに窓があったものの外は見えなかった気がします。

 ただの寝床という感じの部屋で,外の窓は下の方のほとんどが不透明なすりガラスになっていたような気もします。深く考えたことはなかったですが,731部隊の時代からあった建物になるのかもしれません。そういう場所で「悪魔の飽食」を読んだのでなおいっそう印象に強く残っています。

 レトロというのも一つの表現ですが,その古い建物は,江戸川乱歩の挿絵のような世界観ともよく馴染んでみえました。物語の世界です。

 今,名古屋市港区にあったバイク店とその隣の古い建物があった辺りを,Googleマップストリートビューで見ていたのですが,記憶とは全く違うような町並みとなっていました。

 すぐ近くに名古屋高速4号東海線という都市高速道路が出来ていてややこしいのですが,その下の道路を北上していくと,道路が左に曲がったような先に名古屋中央卸売市場があります。

 傷害・準強姦被告事件の前日になる平成4年3月31日未明は,その名古屋市中央卸売市場をでて,今は上に名古屋高速4号東海線がある広い道路で名古屋港方面に向かい,左折をしてバイク店の建物をみながら,帰り荷の積み込み先と指定された碧南市に向かいました。

 それも何年かぶりのことで,ちょっとだけ回り道をする感じで碧南市に向かったことになります。碧南市の入り口に着いた頃に空が明るくなったので,まだ真夜中の暗い時間でしたが,昭和57年当時と余り変わっていないように見えました。バイク店の店先はいくらか変わっていたような気もします。

 急に入ったような仕事で,北陸の定期便で得意先の山三青果から浜松・名古屋行の運行となったのです。他に思い出せないですが,昭和62年の8月になるのか,お盆休みに入る前の運行で,茨城県北茨城市の大津港からサンマを名古屋の市場と金沢中央卸売市場に運んだことがあり,家族を同乗させていました。

 昭和63年になるのかとも考えたのですが,そのお盆休み直前の運行というのは,福岡からの鮮魚の定期便で,顔を合わすと荷降ろしの手伝いをしなければならない東北便が到着する前に慌てて荷降ろしを済ませ,神戸から来ていた被告発人大網健二と,金沢市八日市のアパートに行ったことをよく憶えています。

 大津港からサンマを運んだのは2,3回ありましたが,当時は珍しかった出始めの冷凍のサンマで,市街地で荷物を積み込みました。国道6号線で仙台方面に向かうとき,右手に大津港らしい漁港が見えましたが,その少し先が福島県との県境になり,国道沿いに海が見えるのは短い区間でした。

 夜中に東名高速を東京方面に走るというのは多かったのですが,東京から名古屋方面に向かうというのは,この2回ぐらいしかなかったような気がします。それも東京都内の首都高速を素通りで通り抜けるような運行でした。

 そういえば,何度か,静岡県焼津市からカップラーメンの荷物を松任市の倉庫まで運ぶという仕事がありました。マルちゃんのカップ麺だったと思います。いつも早朝に焼津市の漁港のような港の前を通って,倉庫のような工場に向かった記憶があります。防風林があるような場所でした。

 これは荷物を積み込んだ焼津市より,荷降ろし先の松任市の小さな倉庫の方が印象に残っていて3回ぐらいは同じ仕事をしたように思います。しかし,焼津市での記憶は1回ぐらいしかありません。松任市といっても村はずれのような場所でした。野々市駅にも近い場所です。

 だいたい記憶にあるような場所なのですが,建物の大きさがまるで違うと思います。記憶にあるのは平屋の建物で,田舎の漁港の近くの缶詰工場という感じでした。それと,焼津の港の方から向かうと,道路の左手に建物があったと思います。

 時刻は18時39分です。今日は雪の中,歩いて宇出津新港まで買い物に行くことも考えていたのですが,食材も残っているので出かけないことにしました。伊藤真弁護士についてもっと記録しておきたいのですが,深澤諭史弁護士のツイートに大きな発見があったので,そちらに舵取りをします。