群馬県内関越自動車道の沼田インター付近で飛び降り自殺をした松波中学校の元相撲部員、新潟運輸の運転手、という金沢市場輸送の運転手KOの話

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被告発人東渡好信,金沢市場輸送

176:2020-02-04_16:50:07 石川県警察Twitterアカウントのテレビの石川県内ニュースから発見になった能登町出身で群馬県警察白バイ隊員のニュース記事及び危険運転とストーカーの事件 https://hirono-hideki.hatenadiary.jp/entry/2020/02/04/165003

 上記のエントリーとして取り上げた群馬県警察白バイ隊員のニュース記事ですが、これをきっかけに改めて沼田インター付近の飛び降り自殺の話を思い出しました。今回はこれまでと違って、被告発人東渡好信の金沢市場輸送への入社とその後の不審な行動と一緒に考えました。

 これまでに何度か中途半端には取り上げてきたと思います。Twilogで「沼田インター」をキーワードにするツイートは、そのほとんどがこの飛び降り自殺の話になるものと思います。

RT kk_hirono(告発\市場急配センター殺人未遂事件\金沢地方検察庁石川県警察御中)|kk_hirono(告発\市場急配センター殺人未遂事件\金沢地方検察庁石川県警察御中) 日時:2020-02-04 17:37/2019-11-14 16:32 URL: https://twitter.com/kk_hirono/status/1224613056635817984 https://twitter.com/kk_hirono/status/1194880793283219456
> 今朝の予定では、関越道の沼田インター付近の高架橋について取り上げるつもりでした。これもきっかけはモトケンこと矢部善朗弁護士(京都弁護士会)の池袋暴走母子死亡事件に関連したツイートになります。

RT kk_hirono(告発\市場急配センター殺人未遂事件\金沢地方検察庁石川県警察御中)|kk_hirono(告発\市場急配センター殺人未遂事件\金沢地方検察庁石川県警察御中) 日時:2020-02-04 17:37/2019-09-24 01:13 URL: https://twitter.com/kk_hirono/status/1224613028240343040 https://twitter.com/kk_hirono/status/1176167828883329024
> 群馬県関越自動車道といえば、沼田インター付近の陸橋から飛び降り自殺をしたという能登町松波の人のことについても久しぶりに思い出しました。能登町新保の出身で金沢市場輸送で運転手をしていたKOから聞いた話でした。

RT kk_hirono(告発\市場急配センター殺人未遂事件\金沢地方検察庁石川県警察御中)|kk_hirono(告発\市場急配センター殺人未遂事件\金沢地方検察庁石川県警察御中) 日時:2020-02-04 17:37/2018-06-13 16:26 URL: https://twitter.com/kk_hirono/status/1224613003644899328 https://twitter.com/kk_hirono/status/1006799896366731265
> > その松波中学校の相撲部の有力選手だった人が、関越自動車の沼田インター付近の陸橋の上から飛び降り自殺をしたと聞きました。私にその話をしたのは、同じ金沢市場輸送で社員として運転手をしていたKOです。彼も同じ旧内浦町新保の出身でしたが、小木中学校に通ったと聞いたように思います。

RT kk_hirono(告発\市場急配センター殺人未遂事件\金沢地方検察庁石川県警察御中)|kk_hirono(告発\市場急配センター殺人未遂事件\金沢地方検察庁石川県警察御中) 日時:2020-02-04 17:37/2018-06-13 16:24 URL: https://twitter.com/kk_hirono/status/1224612981838757888 https://twitter.com/kk_hirono/status/1006799343662268416
> 金沢市内では見かけなかったとも思いますが、松任市国道8号線バイパスの近くに大きな敷地の新潟運輸がありました。この新潟運輸については沼田インター付近の陸橋のことで書いておきたいことがありますが、すでにネット上の情報として書いたことがあるように思います。

RT kk_hirono(告発\市場急配センター殺人未遂事件\金沢地方検察庁石川県警察御中)|kk_hirono(告発\市場急配センター殺人未遂事件\金沢地方検察庁石川県警察御中) 日時:2020-02-04 17:37/2017-06-04 10:41 URL: https://twitter.com/kk_hirono/status/1224612958564519936 https://twitter.com/kk_hirono/status/871179990410207232
> その松波中学校の相撲部の有力選手だった人が、関越自動車の沼田インター付近の陸橋の上から飛び降り自殺をしたと聞きました。私にその話をしたのは、同じ金沢市場輸送で社員として運転手をしていたKOです。彼も同じ旧内浦町新保の出身でしたが、小木中学校に通ったと聞いたように思います。

RT kk_hirono(告発\市場急配センター殺人未遂事件\金沢地方検察庁石川県警察御中)|kk_hirono(告発\市場急配センター殺人未遂事件\金沢地方検察庁石川県警察御中) 日時:2020-02-04 17:37/2016-08-11 10:31 URL: https://twitter.com/kk_hirono/status/1224612930689220609 https://twitter.com/kk_hirono/status/763548475820642305
> 確認のため調べてはいませんが、関越自動車道新潟県との県境に辺りに、月夜野というインターチェンジがあったように思います。新潟県に向かうと県境になる関越トンネルの2つ前のインターになったかと思います。そのもう一つ手前が沼田インターであったかもしれません。

RT kk_hirono(告発\市場急配センター殺人未遂事件\金沢地方検察庁石川県警察御中)|kk_hirono(告発\市場急配センター殺人未遂事件\金沢地方検察庁石川県警察御中) 日時:2020-02-04 17:37/2014-02-18 10:25 URL: https://twitter.com/kk_hirono/status/1224612896404955142 https://twitter.com/kk_hirono/status/435585894926385152
> 近くの陸橋から飛び降りて自殺したという話でした。あるいは渋皮インターではなく沼田インター付近と言っていたようにも思います。どちらにせよ、その辺りは坂道が多く、カーブは比較的緩やかなものがおおいですが、とんでもなく高い陸橋がいくつかあることは、よく知っていました。

TW kk_hirono(告発\市場急配センター殺人未遂事件\金沢地方検察庁石川県警察御中) 日時: 2020-02-04 17:34 URL: https://twitter.com/kk_hirono/status/1224612292878192640
> » 告発\市場急配センター殺人未遂事件\金沢地方検察庁石川県警察御中(@kk_hirono)/「沼田インター」の検索結果 - Twilog https://t.co/Qy1imthbUl

 初めに間違って奉納\さらば弁護士鉄道・泥棒神社の物語(@hirono_hideki)のアカウントのTwilogで検索を実行したのですが、意外なことに結果はゼロでした。最初の頃は事件関係の具体的ツイートが多かったのですが、余り重視はしていなかったのかもしれません。

 金沢地方裁判所金沢地方検察庁に提出してきた書面では、繰り返して何度も記述をしてきたと思います。金沢市場輸送の謎を解く鍵ともなり得たからです。すでに金沢地方検察庁では事実を確認済みかもしれないですが、事実ではない話だったことは普通はあり得ないことです。

 KOから話を聞いた時期ですが平成3年の春頃の可能性が高いです。彼は私が金沢市場輸送に二度目の入社をした昭和61年8月下旬の時点で、大型保冷車に乗務していました。当時の金沢市場輸送ではまだ珍しかった冷凍機付きであったとも思います。

 それも金沢市場輸送では当時1台のみの三菱ふそうのトラックでした。数年前にフルモデルチェンジをしていた大型車になります。その前のモデルというのが現在、金沢市場輸送の社長である可能性が高い堂尾さんが持ち込みで乗務したダンプになります。

TW kk_hirono(告発\市場急配センター殺人未遂事件\金沢地方検察庁石川県警察御中) 日時: 2020-02-04 17:56 URL: https://twitter.com/kk_hirono/status/1224617806349520897
> » トラック野郎 故郷特急便 - Google 検索 https://t.co/piogf3GZzh

 調べたところトラック野郎の映画のシリーズで最終作品が「故郷特急便」で、昭和54年という情報をみつけました。これがたぶん、堂尾さんが持ち込みで乗務していたダンプと同型車になるのではと考えてきました。

 ただ、堂尾さんが持ち込みで乗務していたダンプは、キャビン自体も他の大型車より小さく見えるものでした。色はピンクに近いワインレッドで、昭和50年代の暴走族の少年がラッカースプレーでよくバイクの塗装をしていたような色でした。

 私の知る範囲ですが同じ11トンの大型車でキャビンの大きさが違うトラックというのはありませんでした。4トン車の場合は幅広とも呼ばれたワイドボディがあって、幅広だと大型車と同じでワイパーが3本になっていました。

 キャビンというのはトラックの運転席を含む荷台以外の部分になります。能登では見かけることがないですが、荷台を乗せる前のシャーシのみで走行するトラックは割とよく見かけていました。

 過去のツイートでは、たぶんというような言い方で断定的に書かれておらず少し気になったのですが、金沢市場輸送のKOが小木中学校の出身であることは間違いがないです。

 ただ、以前は、KO本人から新保と聞きながらずっと白丸のことをイメージしていた記憶があります。新保の方が小木に近くて、小木、市ノ瀬、越坂、新保になるはずです。越坂だと例外なく小木中学校のはずです。

 他に違いは、白丸には国鉄の奥能登線で駅がありました。「のと白丸」と駅名の看板が一部ひらがなになっていたような気もします。たぶんその次が「のと川尻」で、その次が「松波駅」になったはずです。

TW kk_hirono(告発\市場急配センター殺人未遂事件\金沢地方検察庁石川県警察御中) 日時: 2020-02-04 18:20 URL: https://twitter.com/kk_hirono/status/1224623749195894784
> » のと鉄道能登線 - Wikipedia https://t.co/z5Mcq6kKk6

 小木駅の次が白丸ということもWikipediaのページで確認しましたが、第三セクターの「のと鉄道」の情報なので、あるいは国鉄の頃とは駅名が違っているのかもしれません。川尻も「九里川尻」となっていました。

 平成17年に「のと鉄道」は廃線となっていますが、北鉄バスでは、宇出津から松波まで行くのに「十八速経由」と「小木経由」があります。小木経由だと時間が倍ほど掛かるのですが、鉄道はそちらに近い辺りを走っていました。

 平成17年は、現在の石川県鳳珠郡能登町になった年でもありますが、それまでは宇出津は石川県鳳至郡能都町で、小木や松波は石川県珠洲郡内浦町でした。役場のあったのが松波で、現在も能登町の庁舎の1つとなっています。

 KOは、小木中学校を卒業してすぐに小木港の遠洋漁船に乗ったと話していました。私が最初に金沢市場輸送に入社した昭和59年1月にも、小木港の遠洋漁船の漁師で、冬場の休業の間だけ大型車の長距離運転手をしている人が1人いました。越坂の人と聞いたように思います。

 この越坂は比較的大きく広い集落で、小木から松波に向かう主要道路沿いに点在する家と、九十九湾の海沿いにも集落があります。百楽荘と「きんぷら」というホテルもあります。昭和の時代は他にもホテルがあったのかもしれません。

 昭和50年代は小木港の遠洋漁船の数が多く、いずれも北洋でイカ漁と鮭鱒漁がありました。サケマス漁の船は「ちゅうぶせん」と呼ばれ船の色がオレンジ色でした。中部地方と同じ中部船とも聞いたように思いますが、なぜそう呼ばれたのか詳しいことはしらないか憶えていません。

 前に書いていますが、サケマス漁の中部船は、春に小木港を出港したあと北海道の根室市の花咲港に集結し漁の準備をするという話で、私は昭和59年の7月に、富山県の経田港から漁網を積んで花咲港に行っています。帰りには修理の網と、サケマスを積んで戻りました。

 なお、富山県には鱒寿司という名物があるのですが、数年前までは石川県でも春頃にサクラマスが釣れたという話を聞いていました。私も一度だけ小木港の西堤防の先端で、45センチのサクラマスを釣り上げたことがありました。昭和の時代は漁師が漁をするほど釣れたという話も聞きました。

 今は知らない人がほとんどかと思いますが、昭和50年代には二百海里問題があって、その大打撃を受けたのも小木港と小木に隣接した当時の能都町の姫でした。ちょうど朝ドラの「まれ」の放送が始まった頃に、姫の堤防で散歩をする地元の人に話を聞いたのですが、姫では多いときで33隻の遠洋漁船がいたそうです。

 以前はよく書いていたと思いますが、姫のNKという人物も本件告発事件と関わりがあります。ちょうど被告発人松平日出男社長と被告発人大網健二の接点となる人物で、もう一人に宇出津のKさんがいます。

 姫は、昭和55年4月から昭和56年6月までの約1年2か月、石川県立水産高校小木分校への通学路でもありました。姫の場合、当時の国鉄の奥能登線で乗り降りしたのは真脇駅になります。

 現在は縄文真脇として1つの知名度がありますが、私が縄文真脇遺跡のことを最初に知ったのも平成6年から8年の12月の年末のことです。正月休みの最初の日として記憶にあるのですが、午前中のテレビの視聴が始まったタイミングで、中継が終わっていました。

 現在も朝の情報番組とくダネ!の司会者の小倉智昭さんが司会の番組と記憶にあるのですが、小倉智昭さんをテレビでみた最初の記憶ともなっています。とくダネ!の血液型選手権のコーナーは、金沢刑務所の服役中の休憩時間とも重なった縁があります。

TW kk_hirono(告発\市場急配センター殺人未遂事件\金沢地方検察庁石川県警察御中) 日時: 2020-02-04 19:26 URL: https://twitter.com/kk_hirono/status/1224640350800637953
> » 字真脇 - Google マップ https://t.co/6ZChYRxlz1

TW kk_hirono(告発\市場急配センター殺人未遂事件\金沢地方検察庁石川県警察御中) 日時: 2020-02-04 19:26 URL: https://twitter.com/kk_hirono/status/1224640271943532544
> » 字姫 - Google マップ https://t.co/k7v2DxJt4O

 姫と真脇どちらもGoogleマップで区域を見たのは初めてになるかと思いますが、だいたい話に聞いていたのと境目は同じでした。珠洲警察署縄文真脇駐在所とありますが、場所は姫になります。中に一度も人の気配を感じたことがなく、前から不思議に思っていました。

 Googleマップでみてもわからないですが、ちょうど真脇と姫の境に「縄文真脇」という信号機付きの交差点があって、山側に進んだ突き当たりが真脇駅があった場所になります。交差点からは6,70メートルぐらいの距離になるのかと思います。

 曖昧な記憶のままに書きますが、交差点から真脇駅までは右側にしか民家がなかったと思います。そしてちょうどその中間辺りに被告発人HTの家があって、昭和55年当時は住居兼の繊維工場となっていました。

 真脇には能都中学校の同級生の男子が3人いました。女子の方が多く7人ぐらいいたような記憶です。能都中学校は同学年で204人でしたが、姫と真脇、それと小浦は真脇小学校から来ていました。

 10年ほど前はもっと憶えていたと思いますが、真脇小学校の真脇と姫の児童は半々ぐらいの数だったと思います。姫の方が少しだけ多かったかもしれません。姫には漁業組合のスーパーがありましたが、駄菓子屋のような店も一軒もなかったという記憶です。

 姫や真脇は高倉地区と呼ばれ、姫の漁港も高倉漁港と看板が出ていましたが、真脇とは違って入り江のような漁港ではなく、人工的に作ったような漁港で、根室市の花咲港にも似ていると思っていました。

 前回、花咲港をGoogleマップでみたとき、民家の数が意外に少ないと感じ、たぶん姫より少なそうにみえました。

TW kk_hirono(告発\市場急配センター殺人未遂事件\金沢地方検察庁石川県警察御中) 日時: 2020-02-04 19:54 URL: https://twitter.com/kk_hirono/status/1224647347893751812
> » 花咲港 - Google マップ https://t.co/QasH8Z6fYk

 改めて花咲港をGoogleマップでみると、思っていたよりは入り江のような地形になっていました。そのまま海に面した地形の漁港だと思ったのは、実際に現地に行ったときの印象です。

 私が最初に金沢市場輸送に入社した昭和59年というのは、小木と姫の遠洋漁業の打撃が最も深刻な時期であったかと思います。すべては二百海里問題での漁業規制になりますが、現在では根室市の花咲港以外に聞くことのない拿捕というニュースもよく見かけていました。まだソ連の時代です。

 能都中学校の同級生にIMがいて、ネットの情報としてはこれまでほどんと書いたことがなかったとなかったように思いますが、家が真脇の大工で大きな家でした。そちらも昭和59年には廃業をしたと聞きます。

 能都中学校の頃は何度か家に遊びに行ったことがあり、高校1年生のときには真脇の祭りで遊びに行ったという記憶もあります。真脇の祭りに行ったのは、そのとき1回だけかもしれません。宇出津と同じキリコ祭りですが、姫は小木と同じ袖ギリコという山車のような祭りになります。

 真脇のIMとは、同級生が高校を卒業した昭和58年から1,2年ほどの間は何度か会ったり一緒に遊ぶようなこともあったと思うのですが、その後は一度も会っていないように思います。

 しかし、能都中学校の頃は余り付き合いがなかったと思われる被告発人大網健二が、たまに会っているような話をしていた時期がありました。そればかりではなく、IMが住むという古い感じの大きなマンションに連れて行かれたようなこともありました。

 これは別の項目として記述をしておこうと思います。新規のエントリーの作成ともなりますが、その作業が終わってから再びこちらに戻り、ブログ記事のリンクとしてご紹介をしたいと思います。

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 何度か書いてきたと思いますが、金沢市場輸送で新車の大型ウィング車に乗務したのは平成3年1月17日のことでした。湾岸戦争イラク空爆が始まったというテレビのニュースがあって、私はそれを金沢市場輸送の運転手の休憩室でみていました。

 私が乗務したのは車番が石川の2315号であったと思います。2313号というのも記憶にあるのですが、完全に揃っていたのか現在は思い出せないもののだいたいが続き番号になっていたと思います。

 今思い出せるのは、日野が2台、三菱ふそうが2台でした。KOがどれに乗務したのかはっきりとは思い出せなくなっていますが、保冷車はずっと三菱ふそうに乗務をしていたので慣れた三菱ふそうのウィング車に乗務した可能性の方が高いような気がします。

 私が乗務したのは日野で、それが2315号になるのですが、もう一台別のウィング車がいたとすると、それに誰が乗務をしたのか思い出せなくなっています。小坂さんもウィング車に乗務をしていましたが、それが2313号で三菱ふそうであったような気はするのです。

 この2313号は、いちはやく8月の終わり頃には市場急配センターに移され、被告発人安田敏と二人で神奈川県厚木市の辺りに行き、帰り荷は東京の晴海埠頭の外果であったこと、これも割と最近に書いたことがあると思います。

 川上板金のことも書いているかと思いますが、そのときに青とピンクのラインが入るという市場急配センターのカラーへの塗り替えがあったのだと思います。一年も経っていないトラックでしたが、秋の頃にはけっこうポンコツになっていたような記憶があります。

 茨城県古河市の山三青果の仕事は、平成12年の12月入ってから始まったと、これは割合はっきりした時期の記憶があるのですが、毎日必ずあるという仕事ではなかったような気もします。

 ほぼ毎日必ずのようにあったのが、トナミ運輸と日通の雑貨の定期便でした。金沢市場輸送では富山中央と砺波店から北九州市と福岡市内のいずれも西武運輸おろしの定期便だけが、福岡市内の長浜の魚市場からの鮮魚の帰り荷とセットになっていたのですが、ウロコ運送との一日交代でした。

 これも割と最近に取り上げている、トナミ運輸の栃木の定期便と、日通高柳店からの埼玉県岩槻市と千葉県千葉市の定期便ですが、これが最初から山三青果の帰り荷とセットになっていました。

 山三青果の仕事は運賃が12万円と聞いていたかもしれません。安定して良い運賃だと皆口をそろえていました。鮮魚の東北便だと荷物が多いときは運賃が20万円を超えるとは聞いていましたが、荷物が少ないと運賃も安くなると聞いたように思います。

 金沢市場輸送の場合は、孫請けやさらにその下になる請負があって、間が入るほど運賃が安くなると聞いていました。毎回、運賃の話を聞くことはなく、運賃が歩合を大きくする給与ともなってはおらず、基本給と荷物を積んでの走行距離のみというのが、平成2年の春辺りまで続いたと思います。

 距離の歩合というのは大型車の場合、1キロ20円でした。富山市から福岡市だとちょうど1000キロぐらいだったと思います。金沢市だと930キロぐらいでした。荷物を積まず空車で走ると歩合はつかないことになります。

 月に荷物を積んで1万キロ走っても歩合というのは20万円です。現在の弁護士基準だと過労死レベルを超えているのかと思いますが、多いときで1万5千キロ以上荷物を積んで走っていました。

 それでも荷物が出る、あるいは決まるのを待つというのが多いのも市場の仕事の宿命でした。関東便だとそうでもなく市場急配センターで茨城県古河市に泊まったのは1回だけ、池袋の展示会の仕事でも東京に1泊したことがあった程度でした。金沢市場輸送とはかなり違います。

 金沢市場輸送で一番多かった鮮魚の東北便だと、着発も多かったのですが、朝は6時を過ぎた頃に寝て、10時半頃には積み荷が始まっていたと思います。これは雑貨をおろしてからの移動になります。

 アルミサッシで仙台市内おろしであれば、夜中に着いて、朝8時ぐらいから荷下ろしを始め、おろし終えてから塩釜に向かっていました。

 そのときの荷物の量や配車の都合で、泊まりとなると、朝8時ぐらいから荷下ろしを始め、おろし終えてから翌日の午前10時半ぐらいまで時間を持て余すことになります。

 石巻の場合は、秋田、青森、岩手、福島からの移動が多く、途中に時間を潰しながら向かうこともあれば、夕方には石巻に着いて時間を潰すということもありました。そんなときによく読んでいたのが週刊誌や週刊誌タイプの漫画になります。

 市場が連休となれば、2,3泊することもありました。連泊の多いのは福岡でしたが、食事も買い物も不自由がなかったので、それほど時間を持て余すようなことはなかったと思います。

 金沢市場輸送の場合、東京からの帰り荷というのは多くなく、空車で戻ることもありました。一泊してまで荷物を待つことはなかったですし、一泊してまで帰り荷を探すのは九州ぐらいでした。

 山三青果の仕事は、荷物が多いときと少ないときがあり、荷物の行き先が富山、高岡、金沢、福井と必ず決まっていたので、一台だと4カ所おろしになりました。

 荷物が多いときで大型車2台と4トン車1台だったと思います。山三青果の仕事は他にも特徴があって、昼過ぎに出発できるときと、夜の競りの後に出発するときがありました。

 早いときは夕方の明るい時間に、富山市の市場に着くこともあったと思います。13時頃には出発をしていたのかもしれませんが、細かいことは思い出せなくなっています。明るい時間に、柏崎インター辺りを通過することは、わりとあったとは思います。

 遅いときは21時頃の出発となりました。これは鮮魚よりきつい時間で、立ち寄りや荷下ろしにも時間が掛かります。福井の市場で荷下ろしをして、金沢の会社に戻ってくると7時に近い時間ということもあったように思います。福井の市場の方も混雑をして荷下ろしに時間が掛かった気がします。

 昼過ぎには会社に顔を出すように言われていましたが、雑貨の仕事が決まっていると、夕方に会社に行くこともありました。雑貨のホーム作業の積み込みが始まるのは19時頃か多かったとも思います。

 金沢市場輸送では1度しかしなかった佐川急便の仕事では、荷物が多い路線だと荷物をいっぱいに積み込んだトラックから出発をしていましたが、満載になることのない路線の雑貨では、集配車の最終便を待つことになるので、出発は22時から23時を過ぎることもあったかもしれません。

 中西運輸商のときは、金沢から加賀、福井という立ち寄りで、福井の支店を出発するのが夜中の2,3時ということがありました。夕方に1便目で出発すれば、朝の6時頃には北九州市の支店に着いていましたが、最終便とはそれだけの違いがあり、手当や歩合は同じでした。

 金沢市場輸送では、金沢中央卸売市場で会社のトラックをみれば、荷下ろしを手伝い合うというのが決まりのようになっていました。

 福岡便は新潟の中継の荷物を積んでいたので、新潟の中継にあわせて金沢に着く時間も早く、順調にいけば、ちょうど市場内が混み出す前の23時過ぎに、仕事を終えて帰ることができました。

 東北便は、早いときで23時半ぐらいの金沢中央卸売市場の売り場の到着となっていたように思います。金沢中央卸売市場の鮮魚は競りが午前3時半となっていました、普通は早くて5時と聞いていました。

 東北便は荷物の種類が多くおろす場所も違っていましたし、練り製品や乾物のようなものもあったので、金沢中央卸売市場の周辺の食料品店にも配達のようなことをやっていました。

 荷下ろしが終わるのは2時頃が多かったかもしれません。それから食事に行き、けっこう長い時間、運転手同士で話をすることがありました。KOともそんなときに、よく話をしていたと思います。

 何度かあったと思いますが、塩釜、石巻、福岡でも泊まりで一緒になることは多くなかったように思います。その場、その場のことで深く考えることはなかったと思いますが、他の運転手と比較して、出先で一緒になることは少なめだった気がします。

 KOのアパートの前まで行ったことはあったのですが、中に入ることはなかったと思います。住所は北安江と聞いていたように思いますが、古い通りの角にあるような古いアパートでした。

 たぶん、北栄という会社がある、金沢中央卸売市場の方から来ると、少し手前の交差点だったと思います。信号機などはなく路地で、車の通りも少なかったと思います。その辺りは新しい道路が出来たり、開発が進み、跡形もないぐらいに状況が変わっています。

TW kk_hirono(告発\市場急配センター殺人未遂事件\金沢地方検察庁石川県警察御中) 日時: 2020-02-05 23:44 URL: https://twitter.com/kk_hirono/status/1225067662067167234
> » 北栄 - Google マップ https://t.co/0WEqOvEONp

 ストリートビューでみると、建物が新しいものでした。同じ場所に建て替えをしたのか不明ですが、平成1年の時点で、かなり古い建物となり、独自の雰囲気もあったので、それでよく憶えているのです。

 平成1年、北都運輸の市内配達をしているとき、よく行った配達先がこの金沢市北安江の北栄という会社になります。酒類の販売をしていたような気もするのですが、酒類を運ぶことはなかったはずです。

 市場急配センターで平成4年4月1日、最後の荷下ろしとなったのが、小松市酒類の販売の会社でした。愛知県の小牧市だったと思いますが、前日にアサヒビールの缶ビールを積み込んだ、荷卸先でした。

 時刻は23時54分です。テレビのニュースzeroで、いつもの石川県内ニュースが終わったところですが、宝達志水町での夫婦の無理心中のニュースでした。妻が介護を受けていたという開設の後、付近住民のような人の声で、精神的な病気という話がありました。

 KOは自宅アパートが金沢市場輸送の会社から近かったこともあるのか、いるときは会社にいて雑談などしていることもありましたが、家族との生活を優先させているように思えることもありました。

 子供がいたはずですが、不思議とその子供のことは思い出せません。妻というのが私の一つ年下で、同じ宇出津でした。宇出津といっても住所は宇出津ではなく、現在であれば能登町崎山になります。崎山は1丁目から4丁目までありますが、宇出津の町内になります。

 おそらく能登町以外では、あるいは宇出津以外では、崎山と聞いてわかる人は少ないかもしれません。崎山台地ともいいますが、昭和40年代の後半辺りから急速に開発が進み、ひらけた新興住宅地になります。畑や草木ばかりというその前の風景というのも少しだけ記憶に残っています。

 同級生に同じ名前がいて、KOの妻に話をすると、親戚だと答えていました。その同級生にも一つ年下の妹がいたので、従姉妹同士の同級生になるようです。中学生の頃はよく遊びに行っていた家でした。

 山三青果は、青果市場内での荷積みになりましたが、夕方の競りがあると待ち時間が長く、それが仮眠時間でもあったのですが、ガヤガヤとしていて落ち着いて休めるような場所ではありませんでした。

 KOと山三青果で一緒になったという記憶ははっきり残っていないのですが、夕方は早めの時間に目が覚めて、時間つぶしで運転手同士の会話をすることも何度かあったと記憶にあります。そういう時はどちらかのトラックの助手席に乗り込むことが多いです。

 以前、書面には何度か書き、詳しい説明も記述しているはずなのですが、KOがいきなり松波中学校の相撲部の生徒の名前を出したのか不思議でした。

 私が能都中学校で相撲部にいたという話をしていた可能性はあります。当時の小木中学校は強豪校であったとも思いますが、私の一つ上の学年で、特にケンカが強い目立つ生徒が3人はいたからです。

 上の名前は今も憶えていますが、そのうちには亡くなった人もいるとは聞いています。特に目立ったのはKさんになりますが、家に遊びに行ったこともあり、ラッキーという藤波のパチンコ店で久しぶりに出会い、少し話をしたこともありました。

 Kさんも遠洋漁船の漁師をしていました。KOとは同級生になります。KOも遠洋漁船の漁師をしていたようですが、余り込み入った人付き合いの話が会話に出ることはなかったように思います。

 相撲大会で小木中学校がどれほど強かったのか記憶にはないですが、先鋒、中堅、大将と強い生徒が揃っていたので団体戦向きという感じで、個人戦となると優勝候補として名前が出ることはなかったような気がします。

 能都中学校の相撲部では県大会で金沢に行くこともなかったですし、能登地区だけの大会であったと思います。もともと相撲好きが多い土地柄で、石川県立水産高校は昭和50年辺りに、全国優勝をしていました。

 私が能都中学校の1年生のときには、同じ卯辰山の全国大会で準優勝でしたが、先鋒の選手が波並、中堅の選手が市ノ瀬で小木中学校、大将が宇出津の漆原と聞いた選手でした。

 能都中学校は同じ頃にテニスの全国大会で優勝したという話でしたが、男子のダブルスで、一人は子供の頃から知っている人でした。私の2つ年下の弟の方とよく遊んでいたのですが、テニスで優勝した人は私の2つ年上でした。

 もともと無口なタイプだったので話をしたという記憶はないのですが、一緒に野球の練習をしたような記憶は残っています。それでもダブルスの相方の方は、名前も知らず、関心もなかったので、何も記憶は残っていません。

 能都中学校の相撲部では、最初の方に、相撲大会で松波に行ったという記憶があり、松波の駅の近くの山の上の方に相撲場があって、その辺りが植木の庭園になっていたような記憶が、割合強く残っているのです。

 前にその松波の相撲場の場所を探したことがあるのですが、現地でバイクで走り回ってもそれらしい場所は見つけることが出来ず、松波の小学校も中学校も、松波駅の周辺とは町の反対方向ほど離れていて、景色もまったく違うものなのです。

TW kk_hirono(告発\市場急配センター殺人未遂事件\金沢地方検察庁石川県警察御中) 日時: 2020-02-06 00:55 URL: https://twitter.com/kk_hirono/status/1225085481978740737
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 不思議なもので、Googleマップで松波を開くと、正面に「松波城址公園」という文字が飛び込んできました。松波城の城主の話は以前、ネットで見かけたことがあり、宇出津の棚木城の城主よりは、具体的な記録が残っていそうと感じたことがありました。

 穴水にも城址ががあって、数年前に散策をしたことがありました。松波にも城址公園があると気がついていれば、立ち寄っているはずです。昨年の7月には、恋路観音のことが気になって、現地で周辺をくまなく調べたことがありました。

 旧松波城庭園、というのもGoogleマップにみえます。なにか歴史や風格のようなものを中学生のときに感じていたのですが、納得のできるところがあります。相撲大会の相撲場のことは、未確認ですが、旧松波駅の裏山のような場所でもあり、間違いはなさそうです。

 今、Googleマップで確認すると、神目神社古社地の表示が見えたのですが、前に見たときは消えていて、なぜ表示がなくなったのかと気になっていました。前に表示があったので、その場所を知ることが出来、バイクでその辺りに行くことも出来たのです。

 能都中学校の相撲部で、大会に行ったと記憶にあるのは、富来中学校、柳田中学校ぐらいです、他にも行っているはずと思うのですが記憶にはなくなっています。このうち富来中学校は、9月に入ってすぐの新人戦で、民宿に泊まったという記憶もはっきり残っています。

 他にも泊まりとなった大会はあったと思うのですが、考えられるのは七尾市ぐらいで、その七尾市の小丸山城址公園の相撲場は、高校1年生のときに、6人ぐらいで行ったのがたぶん初めてで、そこで横綱の輪島関を見たので、なおさらよく憶えているのです。

 私はずっとその小丸山城址公園を七尾城の跡地だと思っていたのですが、2年ほど前になって初めて七尾城の跡地は、七尾市内の中心部からかなり離れた場所で、山城だったという話を知ったのです。

 群馬県関越自動車道、沼田インター付近の陸橋から自殺したという元松波中学校の相撲部員ですが、唯一、可能性として考えられると思ったのが、KOの新保と同じかその近くの白丸辺りの出身ということでした。

 なお、私の同級生にも新保から松波中学校に行っていた生徒がいて、宇出津小学校の低学年のときであったと思いますが、家の事情で転校し、それが石川県立水産高校小木分校のクラスメートとなったのですが、以前とは雰囲気も違っていて、半信半疑のようなところがありました。

 個人戦で優勝候補と聞いたのは2人の生徒で、もう一人は緑丘中学校の生徒であったように思います。その辺りでは一番生徒数が多いとも聞いたのですが、珠洲市の中学校で、正院や蛸島の生徒が通うと聞いたように思います。

 個人情報なので自殺したという人の名前を書くわけにはいかないですが、何度か名前を思い出せなくなったことがあり、松波の商店街のようなところに店があって、その店の名前で思い出したこともありました。字画の少ない漢字2文字の名前になります。

 石川県立水産高校小木分校は定員が40人で、女子が9人ではなかったと思います。そのうち能都中学校からの女子は、宇出津の天保島と姫の2人で、もう一人の女子は、珠洲市の上戸と聞いたように思います。残りは小木中学校の女子になります。

 男子は甲中学校から2人、松波中学校から2人で、小木中学校の方が能都中学校より少しだけ多かったような気がします。以前は全員の顔と名前を思い出せたものですが、今はけっこう難しい感じになっています。

 小木中学校の生徒数というのも聞いていたはずですが、2クラスとは聞いていなかったような気がするので、そうすると40人以下だった可能性も出てきます。

 昭和50年代は、中学校の数も多く、何かの大会で中学校の名前を見ると、いったいどこなのかと不思議に思うことがありました。能都町でも瑞穂には瑞穂中学校があると聞いていましたが、大きくはない集落です。

 気になるのが、当時の松波中学校の生徒数になります。内浦町の役場があったので、それなりに生徒数も多かったものとは推定されますが、通学する地域の広さもわからないので、やはり推定は困難かと思います。

 宇出津に住んでいると歩いて買い物に行くことが出来、面倒さえ厭わなければ、毎日、買い物に行くことで、冷蔵庫なしの生活でもできそうです。以前は余り考えなかったのですが、同じ奥能登でも買い物が大変そうだと思う場所は多く、新保もその1つにはなりそうです。

 そういう生まれ育った環境でも物の見方や考え方が違ってくるはずなので、他校の生徒の名前を出して知っているような前提で話を始めたのも、そう深く考えるようなことではないのかもしれません。私も以前はそのように考えていました。

 名前と場所を特定し、自殺したという話をしているのですから、でたらめな作り話をしたとはまず考えられないことです。今回は、事実ではない情報を吹き込まれた可能性というのも検討してみたのですが、相撲大会のことが他校の生徒を名前を出して話題になるようなことはまずなかったです。

 一応、優勝候補や有力選手という話は聞きましたが、ずば抜けた体格差があって無敵に強いという印象はなかったです。巨漢だったのは緑丘中学校の生徒と思われる選手でした。中学生とは思えない雰囲気もありました。

 深夜に長距離トラック運転手の仕事をしていると、居眠り運転で蛇行するトラックというのも見たような気はしますが、危なそうだと感じたらしばらく様子をみるものかと思います。

 KOに聞いた話では、自分に落ち度があって、他のトラックを横転させてしまい、横転した運転手が気絶しているのを死んだものと勘違いし、パニックや責任感があったものと想像しますが、悲観して、陸橋の上から飛び降り自殺をしたという話になります。

 そもそも新潟運輸だと運転手がツーマンだった可能性もあるかと思えてきました。昭和60年当時でも福山通運の自社便は、完全にツーマンのみの運行と聞いたように思います。直接、福山通運の運転手から聞いた話ではなく、伝聞でした。

 新潟運輸については、ほとんど縁がなかったのですが、一度だけ荷下ろしの作業をした記憶があって、それも変わった運行だったのでよく憶えているのですが、関東からお菓子を積んでおろした先が、新潟市内の新潟運輸のホームでした。

 関東からお菓子を積んでくる仕事は、金沢市場輸送でよくあった仕事で、神奈川県内が多く、小田原市にも行ったことがありました。「あずまうんゆ」の仕事と聞いていたのですが、たぶん、教えられた電話番に電話を掛け、指示を受けるだけだったので、漢字のこともわからないままでした。

 お菓子の卸先は、金沢市の専光寺近くの日通の倉庫が多かったように思います。野田専光寺線の海に向かっての突き当たり近くで、左手にけっこう大きな倉庫があったと記憶にあります。

 Googleマップで確認はしておらず、古い記憶のままで間違いがあるのかもしれないですが、野田専光寺線を海に向かって最後まで一直線に進むと、海に出て、その海の手前にプールがあったように思います。金沢市内で他にプールというのは記憶にないので、それが県民プールとテレビでみたことのある、プールの可能性はありそうです。

 Googleマップ新潟運輸金沢支店の場所をみたのですが、記憶にあるのとほぼ同じ場所であるものの道路の左右が違っていて、当時の松任駅に向かうと右手にあって、建物が道路に向き合っていたと記憶にあるのですが、道路の左手にあって建物が道路の右手になっています。

 今回、Googleマップで初めて気がついたのですが、三日市という交差点があるようです。これは野々市からくる国道157号線国道8号線が交差する大きな交差点で、野々市から来ると国道8号線を横切って直進すると、やがて右手に松任駅がありました。

 三日市という交差点をクリックすると野々市市と表示が出て、新潟運輸金沢支店の住所も野々市市となっていました。国道8号線を境に松任駅側が、当時の松任市で現在の白山市になるものと思っていたので、これも意外でした。

 個人的に今でも松任市の方がなじみがあるのですが、現在の白山市は広すぎるという印象もあります。たしか石川郡の旧野々市町以外と松任市の全部をあわせたのが白山市となっているからで、福井県岐阜県との県境まで、以前の松任市と同じと考えるのは違和感があります。

 同じ野々市市とありますが、二日市という地名はよく知っていたものの隣のような場所に三日市があるというのは、今更ながらの発見でした。二日市はその場所で昭和57年の春、スピード違反で捕まり自動二輪免許の取り消しになったことで、記憶に残る地名です。

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 KOですが、鮮魚の仕事をやめてウィング車に乗務したものの市場急配センターへの移籍についてはまったく話を聞くことがなく、鮮魚の保冷車の乗務に戻る、という話を少し耳にしたようには思います。

 他にはっきりしていたのは、KOも被告発人東渡好信が主導したストライキに参加をしていたことです。その頃に一度会ったような記憶はあるのですが、その後は会うことがなかったような気もします。

 寺川さんとは仲良くしていた様子で個人的な付き合いもしているような様子ではなかったかと思います。KOが親しくしていたことではっきりしているのは越坂のKSさんになります。夫婦、家族ぐるみの付き合いでした。私も一度、一緒に富山県のスキー場に遊びに行ったことがありました。

 越坂のKSさんは小木運送の運転手をしていたらしく、私はどこにあるのか見たこともなかったのですが、小木運送の営業所が金沢市にあって、妻となった女性は、そこで事務員をしていたと聞きました。

 小木運送は小木港にある運送会社で、小木の地元では「組合」と呼ばれる市場のような場所や、その横の駐車場でトラックを見かけていました。今は小木港に行ってもその辺りには行っていないので、小木運送のトラックも見かけていません。

 小木運送には珠洲市若山のSという人が11トン大型車に乗務をしていて、その人だけよく金沢市場輸送で傭車の仕事をしていました。同じ金沢市場輸送の保冷車の運転手より、金沢市場輸送の事務所で姿を見ることが多いぐらいでもありました。

 詳しい話は記憶にもないのですが、小木運送は普通の会社のような運送会社ではなく、自分でトラックを持ち込み、仕事を請け負うというスタイルであったのかもしれません。自分のトラックで自分で仕事を選び見つけるという意味合いが強そうでした。

 珠洲市若山のSという人は、痩せ型か小柄だったと思いますが、きさくで話もしやすい人柄で、自分の方からは話しかけるようなタイプではなかったようにも思います。けっこう話をする機会があったと思いますが、会話の内容などは余り記憶にありません。

 金沢市場輸送というよりは、配車係で金沢市場輸送の社長になった本恒夫社長との個人的な関係で仕事をしているような感じでした。不平不満を顔や口に出すタイプでもなく、まじめに仕事をこなすという印象でした。

 越坂のKSさんも金沢市場輸送で傭車の仕事をするようになっていました。最初に会った頃は大型の保冷車だったと思いますが、まもなくトレーラーを買っていました。トレーラーというんは運転席の部分と荷台が別で、荷台を切り離すことも多いのですが、その荷台の方は中古の古いものであったかもしれません。保冷車です。

 冷凍機がついていたかは記憶にありません。冷凍機が付いていないと受けることが出来ない仕事というのは、ちょうどバブル景気が始まった頃で、グルメという言葉が出てきて品質や鮮度にこだわりのニーズが出てきてからのことという現場の肌感覚でした。

 越坂のKSさんは、中西運輸商にいたことがあり、そのときも保冷車に乗務していました。昭和59年の6月頃のことですが、そのとき無職になっていた珠洲市三崎のHMを金沢市場輸送の4トン保冷車に同乗させ、山形県酒田市に鮮魚を運んだことがありました。スルメイカです。

 新潟県国道8号線、柿崎インターの前から上越市内に向かうと、その間は国道沿いに建物も少なかったのですが、右手に普通のラーメン屋があって、大型車が入るような駐車場もなかったのですが、道幅がいくらか広く、そこにトラックを駐車していました。

 とにかく、その上越市のラーメン屋で、越坂のKSさんと珠洲市三崎のHMと3人で、昼に食事をしたことをよく憶えていて、それが越坂のKSさんに会った初めての時であったかもしれません。そのときに中西運輸商の大型の保冷車に乗務していたように思います。

 中西運輸商には同じような箱が大きめで補強のしっかりした保冷車が2台いました。見た目はほとんど同じだったのですが、大きな違いがありました。一台は普通のトラックで、越坂のKSさんが乗務していたのは、こちらの方と思います。

 もう一台というのは大型車に、トレーラーのエンジンを載せ替えたとかいうものでトルク重視でギア比が低く高速道路でも最高速度が90キロという話でした。通常は140キロのメーターを振り切っていました。

 これが中西運輸商らしさの1つで、中西運輸商の沿革にもなるのですが、もともとは冷凍食品や鮮魚を中心にする仕事で、大洋マルハの仕事をしていたとも聞きます。本当なのか知らないですが、マグロ船に狙った人を乗せ太平洋に落とした死亡保険金で大きくなった会社という話を、中西運輸商にいるときに聞いていました。

 白ナンバーの営業をしていたらしく摘発を受け、会社はつぶれる寸前か、実際に倒産したとも聞いたかもしれません。その窮地から脱出できたのは佐川急便の仕事を得たからだとよく聞いていました。

 昭和60年当時の佐川急便というのは、現在とは全く違う社会的イメージもあったのですが、軍隊や保守派の政治団体に近いものがありました。実際、佐川急便の敷地で会う社員全員に、大きく挨拶をするように指導を受けていました。序列関係の厳しさのようなものです。

 当時の佐川急便は運転手が配達の受注から集金まですべて行う独自スタイルと聞いていましたが、それが市内配達で、路線間の長距離輸送はすべて外部委託という話でした。実際は、佐川急便と同じカラーで飛脚のマークの入った運送会社も多く、見分けが付きにくくなっていましたし、知らない人が多そうでした。

 佐川急便のカラーと飛脚のマークの長距離輸送で、特によく見かけたと記憶にあるのは、京和や九州運送でした。佐川急便のカラーでなくてもよく見かけたのは金沢にも支店か営業所があった大東実業になります。

 中西運輸商の場合は、西日本運輸興業の下請けとなっていました。飛脚のマークは記憶にないですが、佐川急便のカラーになっていたかもしれません。会社は東広島市で、田畑の多い田舎に会社がありましたが、見上げるほど大きな建物があったと記憶にあります。

 それが西日本運輸興業の本社だったと思いますが、私は中西運輸商の社長に頼まれ、お土産かお歳暮のようなお米を届けにいったことがあったのです。

 盤石の大きな運送会社と思っていたのですが、その1,2年後には倒産をしたようです。倒産の理由はよくわからなかったのですが、平成3年に北都運輸の倒産を聞いたときも、似たような意外性でした。全国に支店があるような大手運送会社を別にすれば、石川県で一番大きいと言われていた北都運輸です。

 なお、北都運輸に次いで2番目といわれていたのが、国勝運送になります。国勝運送のことは別に書いておきたいこともあるのですが、北都運輸の仕事をしていたときに、国勝運送の運転手と顔を合わすことがあり、小木分校で1つ年上だった小木の人でした。

 中西運輸商が佐川急便から切られるという話を聞いて、半年か一年後になるのかと思いますが、それまで中西運輸商がやっていて広島・九州便を九州運送がやるようになったと聞き、北陸自動車道でも九州運送のトラックを見かけることが多くなりました。

 広島・九州便を九州運送がすると決まる前のことになるのかもしれません。中西運輸商に替わってそれをやろうとしたのが、YTと藤田博巳さんになります。中西運輸商で配車係をしていたのですが、私の紹介というかたちで金沢市場輸送に入社し、いちおう配車係をするようになりました。

 いちおう配車係、としたのは、本恒夫社長が配車係の仕事を独占していたからで、私もよく不満を聞かされていました。本恒夫社長はお山の大将のようなところがあって、反感を買うことも多かったようです。最後は私も衝突をして、それで金沢市場輸送をやめることにはなりました。

 しかし、その反感というのも他に目的があった計算ずくの演技や工作活動であった可能性があります。被告発人東渡好信が主導した平成3年春のストライキでは、反旗を翻された立場ではありましたが、被告発人東渡好信を金沢市場輸送に招き入れたのも本恒夫社長という話です。
 今は思い出せなくなっていますが、越坂のKSさんも金沢市場輸送にいたときがあったのかもしれません。ただ、大型車の運転手としては話を聞いたことがなく、あるとすれば4トン保冷車の運転手になります。

 被告発人安田敏とは石川県立水産高校漁業科の同級生でもあった蛸島のTSさんは、高校を卒業してすぐに金沢市場輸送で4トン保冷車の運転手を始めたと聞きます。そのときに仲良くしていた、私が別にする運転手がいたとは聞いており、それが越坂のKSさんの可能性があります。

 被告発人安田敏は私の2つ年上でしたが、蛸島のTSさんは、他の高校をやめてから再入学しているので、その1つ年上になると聞いていました。越坂のKSさんは、それと同じ年か、あるいはもう1つほど年上と聞いたように思います。

 越坂のKSさんについては、小木中学校に違いないと思うものの中学生の頃の情報や人付き合いについては余り話を聞かなかったかもしれません。遠洋漁船の漁師したという話も聞かなかったと思います。

 平成1年の1月の中頃と思うのですが、蛸島のTSさんの自殺のニュースが新聞記事にあって、朝に金沢市場輸送に出社したところ、いつもとは違った雰囲気で、金沢市場輸送の事務所の方に運転手が6人ぐらい集まっていました。

 女子事務員の姿がまだなかったとも記憶にあるのですが、運転手の休憩室ではない事務所に、それも事務員が帰った後の夕方の遅めの時間帯でもないのに集まっていたのは珍しいことでした。緊急会議のような趣の感じられました。

 そのなかで茫然自失といえば大げさになるかもしれないですが、ひときわ衝撃を受けた様子だったのが越坂のKSさんでした。他にいたのを記憶するのは、竹林と大西真さんになります。坂田さんもいたような気がします。

 竹林と大西真さんは、ずいぶん落ち着いた様子で事実を受け止めていたようです。図書館で北國新聞の縮小版の記事を探しでも見つからなかったことは前に書いていると思いますが、そのあとに書いたように、自宅で購読していたのが読売新聞であったという可能性があります。

 1月の中頃という時期も記憶がはっきりしているのですが、ずっと範囲を広げて図書館で記事を探しまくり、どんなに探しても見つけることはできませんでした。通常は北國新聞が地元紙で、地元のニュースが優先的に多いと聞いていました。

 ちょうどテレビ欄の裏側の事件事故の紙面になりますが、その左側に2番目のトップニュースという感じで大きな扱いとなっていた記事でした。松波港での自殺になります。

 そういえば昨日辺りに、宇出津の新村浜の2つ年上の女の人のことを書きましたが、その女の人が松波港で自殺したという蛸島のTSさんの妻になります。被告発人HTNに平成3年12月21日の夜、連れて行かれた片町のオーロラ会館で接客をしていた2人の1人です。

 蛸島のTSさんとは、昭和61年の12月から2,3か月ぐらいだったと思いますが、金沢市場輸送で一緒に仕事をしました。ミール移動でしたが、運転免許が取り消し中だった蛸島のTSさんは、フォークリフトの運転などをしていました。浜田漁業金沢工場でのことです。

 12月より早く、11月中だったような気もするのですが、本恒夫社長と蛸島のTSさんと私の3人で、北安江の焼肉店に行ったことがありました。まだ余り寒い時期ではなかったして記憶にあるのですが、別の時と記憶に混同があるのかもしれません。

 昭和61年の秋になると思いますが、金沢市場輸送の市内配達の仕事の現場責任者のような立場にあった高田という人物の仕切りでも、同じ北安江の焼肉店に行ったような記憶があります。若者が集まってガヤガヤとしていました。

 その北安江の焼肉店の周辺というのはすっかりと様変わりしたのですが、平成4年3月の時点では余り変わっておらず、ただ、道路工事が始まっていたような記憶はかすかに残っています。

 平成9年7月に北安江の借家に住むようになって、気がついたのが近所のその焼肉店で、店の前は広い道路となっていました。対面通行で中央分離帯もあったような気がします。Googleマップで調べればすぐにわかる場所です。

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 銭湯に行き、15分ぐらいか前に戻ったのですが、バイクの鍵穴が凍っていてヤカンでお湯を沸かし、エンジンを掛けると次はアクセルが凍ってスロットが回りませんでした。銭湯の帰りも鍵穴が凍っていましたが、銭湯の桶にお湯を入れてきたのですぐに直りました。

 ここ3日ほどは、ずっとWindows10での作業でしたが、記録をしておきたい弁護士ツイートもいくつか出てきて、数があると作業の効率が悪く時間も掛かってしまうので、しばらくLinuxの方で作業を行いたいと思います。

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