被告発人大網健二が工作の手段として利用したNテック、その仕事の1つとして連れて行かれた能都中学校の真脇の同級生IMが住むという金沢市のはずれのマンション

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被告発人大網健二

TW kk_hirono(告発\市場急配センター殺人未遂事件\金沢地方検察庁石川県警察御中) 日時: 2020-02-04 20:33 URL: https://twitter.com/kk_hirono/status/1224657279812661248
> » 上荒屋 - Google マップ https://t.co/5EDl9ee2wW

TW kk_hirono(告発\市場急配センター殺人未遂事件\金沢地方検察庁石川県警察御中) 日時: 2020-02-04 20:33 URL: https://twitter.com/kk_hirono/status/1224657178369245186
> » 荒屋町 - Google マップ https://t.co/vgqLvySsNU

 金沢市には荒屋町と上荒屋町があって、場所がずいぶんと離れていることもあってややこしいのですが、この地名がすぐには思い出せず調べるのに少々時間が掛かりました。これは同じ金沢市内の新保本と南新保にも似ているのですが、確認のため調べると新保町というのも別にあるようです。

 新保本町と思っていたのですが、Googleマップでは新保本とあって、なぜか新保本町中央公園というのがその中にありました。意外な発見に思ったのは西南部中学校と「どんたく西南部店」が新保本の中にあったことです。

 金沢市の西南部中学校は、現在大相撲で活躍している炎鵬関と遠藤関の出身校として全国放送のテレビで見ることもありますが、被告発人多田敏明の話として被告発人松平日出男社長の息子の出身中学校と聞いたのが最も大きな情報です。

 同じ金沢市内の南新保は、へいせい3年から4年当時に被告発人HTNが住んでいたアパートの住所で、金沢市場輸送の寺川さんのアパートも同じ南新保だと聞いていました。ストライキ中に被告発人東渡好信の姿があった場所でもあります。

TW kk_hirono(告発\市場急配センター殺人未遂事件\金沢地方検察庁石川県警察御中) 日時: 2020-02-04 20:53 URL: https://twitter.com/kk_hirono/status/1224662155116433415
> » ジャスミン - Google マップ https://t.co/4nEIzXsgSs \n 石川県金沢市南塚町

 金沢市の上荒屋は昭和58年の春に聞いた地名だと思っていました。調べたところ、Googleマップで「ジャスミン」とある上記の場所になるのですが、住所が南塚町という初めて聞く地名となっていて、Googleマップの上荒屋からはけっこう離れています。

 Googleマップで「ジャスミン」とある場所ですが、宇出津で2つ後輩となるMKが能都中学校を卒業した後に住んでいて、被告発人大網健二の兄、関係者OSNの影響が強く、溜まり場となっていました。

 上荒屋のMKのアパートというのが仲間内で普通の会話になっていたように記憶にありますし、それ以外に上荒屋という金沢市内の地名を聞くことはなかったと思います。ただ、昭和59年の4月頃にアパートを探したときの候補の住所が上荒屋であったような気がします。

 選んだ東力二丁目のアパートとは二者択一となっていました。たしか水道代がタダとなっていたのも魅力で、陽当たりもよくアパートの建物もいくらか新しく見えたと記憶にあります。東力二丁目を選んだのは、野田専光寺線という店の多い主要道に近かったという利便性でした。

 アパートを借りたのは丸福不動産で野田専光寺線沿いの白菊町の辺りに会社があったように記憶しますが、金沢市場輸送に入社したての被告発人大網健二と一緒に住むために借りていたアパートで、彼の都合で私一人の名義で借りることになったアパートです。

 平成4年4月1日は水曜日でしたが、次の日曜日には被告発人大網健二と関係者KYNに手伝ってもらい新しいワンルームマンションに引っ越しをする予定になっていました。そのときまで住んでいたのが金沢市東力二丁目のアパートで、犀畔荘というアパート名でした。

 途中から大家さんが犀畔荘の隣に家を新築し住むようになっていたのですが、当初は2万8千500円だった家賃が2万6千500円になったという記憶です。何度か家賃を滞納したこともありましたが、いやな顔一つみせない親切な大家さんでした。

 もう一つ問題があったのは、犀畔荘から30メートルほど離れた場所に暴力団事務所があったことです。滝本組の司会になりますが、犀畔荘に住み始めて一年も経たないぐらいの間に、人の出入りがなくなったような様子でした。

 近くに店がないのが不便でしたが、弁当まで置いてあったのか記憶にはないですが、割と近いところにコンビニに近いような店があって、別の方角には余り行かなかったものの東力ストアという店がありました。

 一応、スーパーのような名前の東力ストアでしたが、店の前に自販機がたくさんあったものの、駄菓子屋にも近いような小さな店でした。前に少し触れたと思いますが、金沢市場輸送の元社長で会長となった竹沢俊寿が私に親戚だと話していた店になります。

 金沢市花里の被告発人安田敏のアパートから戻るタイミングで追突事故に遭い、近くの入江派出所の警察官が来たのもその東力ストアという店の前でのことでした。駐車違反を放置していたことなど、前にネットでも記述があるように思います。

 同じ交通違反では、金沢地方検察庁に逮捕されかけたということもありました。金沢市場輸送にい金沢地方検察庁の職員が数人で訪れ、その場を抜け出し、金沢地方検察庁に行き、今思えば副検事になったのかと思われるのですが、呼び出しに応じた形で反則金の支払いを済ませました。

 改めて考えると、京都市内での駐車違反か、富山県北陸自動車道立山インター付近でのスピード違反の反則金になります。金沢市場輸送での大型車乗務での交通違反はこの2回だけだったと思います。市場急配センターでは平成4年2月3日に米原バリアでの重量違反があります。

 金沢市の上荒屋というのは馴染みのある地名だったのですが、再び聞くこととなったのは、被告発人大網健二の兄、関係者OSNが社長をする鳶職の大網商事有限会社で、ナンバー2とも番頭という立場にあると聞いた宇出津の同級生のHSのことです。

 この宇出津の同級生のHSとは、私が昭和50年4月に辺田の浜から宇出津の小棚木に引っ越してきて、すぐの頃から付き合いがありました。元はといえば、大棚木の同級生Hだと思うのですが、下の名前が思い出せなくなっていることに気がつきました。

 宇出津には田町という町内はないのですが、横町と立町のことを田町と呼んでいるようです。現在も北鉄バスには宇出津田町というバス停があります。その田町の豆腐店で葬式があって、一緒になったのが大棚木の同級生Hでした。

 同級生のHSの家は宇出津の城野町という町内でした。もう3,4年ぐらい足を踏み入れたことがないですがほとんどが町営住宅だったという特徴のある宇出津の町内で、高台にあるという特徴もあります。

 その高台にあることの影響が大きいのかと思いますが、宇出津のあばれ祭りでは最初の鵬にキリコを出さなくなった町内だと聞いています。他に聞くのは天徳町と大竹町になりますが、町内が狭いのでそちらは人手の関係が大きそうです。

 昭和の時代は賑わいも感じられた城野町になりますが、町営の住宅地という点では、テレビで見る金沢市の「みどり団地」に似ているものを感じていました。市営になるのか県営になるのか確認はしていないですが、金沢市では最大の団地になるものと思います。

 前出の「ジャスミン」という建物ですが、金沢西インターの近くから右に入っています。国道8号線バイパスは北陸自動車道の真下の左右の一方通行になるので、右折しか出来ないはずです。この右折した道は、突き当たりを左折することで、みどり団地に向かう道路にもなっていました。

 平成10年当時の関係者KYNの配管工事の仕事でも、MT君の自宅がみどり団地の近くにあったので、よく通行していた道路になります。この時は国道8号線バイパスを右折ではなく、直進で横切っていたと記憶にあります。

 MT君の家は、みどり団地にあったのではなく、ちょうどみどり団地を抜けた辺りから道路を左折して、何百メートルか行った先の右手に大きな敷地の家がありました。父親がゴミ収集の仕事をしていると行っていたとも思い、西金沢の辺りで遭遇したこともありました。

 見るからにヤンキー丸出しのようなMT君でしたが、被告発人HTNと同じ金沢市内の暴力団松元組にいたとも話を聞いていました。気になったのは妻となっていた女性の方で、数回しか会ったことがなかったですが、被告発人多田敏明の家と同じ金沢市間明で、年もほぼ同じと推定されました。

 金沢市の間明と東力は同じ高岡中学校の通学になるようです。高岡中学校の場所は金沢市神田だったと思いますが、金沢市内には別に高岡町があってややこしく、高岡町は金沢市内では知名度が高く繁華街の片町に隣接した香林坊のすぐ近くになります。

 高岡と聞くと富山県高岡市を思い起こすことが多いのですが、その高岡市出身という確か当時17歳の少女がいて、その女友達の家が高岡町ということで知った地名でした。高岡市出身は富来町のOTの昭和59年当時付き合い、同棲していた彼女になります。

 上の名前はいつの間にか忘れていることに気がつきましたが、下の名前は憶えています。N子としておきますが、城野町のHSとは親しい付き合いがあったらしく、小木港の遠洋漁船の出港の見送りにも来ていたという話を聞いたように思います。

 この富来町出身のOTについても、前回に取り上げてからまだ1年は経っていないように思いますが、被告発人大網健二が本陣不動産株式会社に就職するきっかけを作った人物でもあります。一時は私に義理を感じたためか中西運輸商の運転手をしたこともありました。

 前にも記述しているはずですが、その富来町出身のOTと知り合ったのも、昭和58年の金沢市観音堂の被告発人安田敏のアパートがきっかけでした。昭和59年の夏、金沢市西念の大三元という看板の近くのアパートに住んでいたUHのことになります。

 宇出津の城野町には被告発人大網健二の家でプロパン配達をしていたAKさんも住んでいた時期があり、妻となった女性の実家でした。久しぶりに思い出したところ上の名前が思い出せなくなっています。旧姓のことです。

 能都中学校の頃から宇出津の新村浜のKHという女性といつも一緒に行動をしていましたが、被告発人大網健二の兄、関係者OSNや被告発人HTNとは同級生になり、親しくしていました。上の名前が思い出せそうで思い出せないですが、宇出津では他に聞かない名前であったような気はします。

 二人ともにOSNや被告発人HTNと同じ学年が私の一つ上になりますが、昭和56年の12月頃かに、被告発人安田敏が自分の車、ブルーバード510を、珠洲市の飯田、シーサイド前の通り、宇出津から来ると手前側の交差点で横転させたときの同乗者でもあります。

 当時は被告発人安田敏の伝説的な話ともなっていましたが、ブルーバード510を横転さえた直後、しばしの沈黙の後に、被告発人安田敏は当時流行していた近藤真彦の「ギンギラギンにさりげなく」という曲を口ずさみ始め、周囲に狂気を感じさせたという話でした。

 平成3年12月21日、この日は被害者安藤文さんとの関係で特別な日ともなったのですが、その夜に被告発人HTNに連れて行かれたのも2人の女性が働く片町の飲み屋で、オーロラ会館の5階辺りだったと思います。

 たぶんずっと前になくなっているので今は知る人も少ないと思いますが、金沢市片町の繁華街にはオーロラ会館というビルにサウナオーロラがあって、当時の金沢市内さらには石川県内での宿泊も出来たサウナは、このオーロラと金石街道にあったサウナエバラだけだったと思います。

 その後には、東力の辺りで野田専光寺線にも駐車場の一部が接するようなサンパリオが出来て、金沢市高柳の近くのももっと大きな入浴施設が出来ていました。これも名前が思い出せなくなっていますが、温水プールもありました。


京都市に本社をおくパチンコ店運営会社「高山物産」がオーナー会社として1987年12月19日にオープンした。

21年のあいだ営業を続けていたが、高山物産が2006年に経営破たんして会社更生法の適用を申請したことに伴い閉鎖が決まり、2008年10月2日午前10時(サンサーカスは前日の10月1日をもって)ルネス、リゾートロッジ、サンサーカスが営業を終了し閉館した。

その後施設はしばらく放置されていたが、2008年末より取り壊しが始まり、一部の施設を残して2009年に解体作業が終了した。サンサーカスの施設はパチンコ店に改装され、ユナイテッド・シネマ金沢は別会社経営のため営業を継続している。

[source:]アクアリゾート ルネスかなざわ - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%82%AF%E3%82%A2%E3%83%AA%E3%82%BE%E3%83%BC%E3%83%88_%E3%83%AB%E3%83%8D%E3%82%B9%E3%81%8B%E3%81%AA%E3%81%96%E3%82%8F

 簡単ではなかったですが、「ルネスかなざわ」という情報が見つかりました。昭和62年12月19日にオープンとあります。一度した入った記憶がないのですが、それも平成3年7月の下旬か8月に入ってからのことで、被告発人大網健二に誘われて一緒に行ったのです。

 高山物産というのはパチンコ店関係で聞き覚えがあったのですが、京都市に本社をおくというのは意外な情報でした。石川県内のパチンコ店は、名古屋の方からの進出という話を聞きましたし、高畠の辺りには「名古屋城」という古い感じのパチンコ店がありました。

 インターネットが普及する前は、ほとんどが口コミの情報であったとも改めて思いました。しかし、一方でネットにはない情報というのもいまだにけっこうありそうだとは考えることがあります。

 宇出津の城野町のHSですが、同じ姓の従兄弟がいて、一つ年上、OSNとは同級生で同じ遊び仲間のグループでもありましたが、昭和50年代は能登町役場の真裏に家がありました。私の同級生の家が向かって右隣になりましたが、その後は、酒垂という町内に引っ越したと聞きました。

 ここで名前を出すわけにはいかないですが、当時、宇出津ではよく聞く名前で、小木でも同じ名前を聞きました。芸能人に名前を見た憶えはないですが、全国的にもけっこうありそうな名前になります。

 その一つ年上のHSの従兄弟は、これも姓・名前というイニシャルにすると同じHSになってしまいます。昭和58年当時は金沢市馬替のアパートに住んでいて、ずいぶん世話になっていたと今は思います。被告発人安田敏と一緒に遊ぶこともありました。

 城野町の同級生のHSの従兄弟で一つ年上になるHSさんは、昭和63年当時、金沢市八日市のアパートで、私とは二つ年下になる姫のDSという女の子と同棲生活をしていました。そのあとには結婚をしているはずで、式場が金沢市北安江の平安閣だったと思います。

 結婚式の出席はなかったのですが、式場でOSNと会った記憶があり、そのとき私は長男と二人でいたという記憶もあります。ここは被告発人大網健二の結婚式があった式場と同じで、半年ぐらい後のことであったと思います。

 昭和63年のお盆休みには、当時、神戸市に住んでいた被告発人大網健二が帰省したのですが、夜遅くに最初に落ち合った先が、金沢市八日市のHSさんのアパートでした。姫のDSという女の子は、被告発人大網健二の妻となったOMとは同級生で、親友のような間柄でした。

 さきほどのジャスミンという場所に昭和58年の春に住んでいたMKも姫のDSとは同級生でしたが、真脇にはHMがいて、私も被告発人大網健二と一緒によく遊びに行っていた時期があるのですが、、この二つ年下のグループは特に仲がよく結束がありそうな感じでした。

 真脇のHMの家によく遊びに行っていたというのは、私が宇出津の大棚木の広沢造船所に働きに行っていた時期のことで、昭和57年の年末に名古屋市港区から戻った後、昭和58年の1月から2月のことです。

 私は自動二輪での1年間の運転免許取り消しで普通免許の取得が遅れていたのですが、同じ誕生日の被告発人大網健二はすでに普通免許の取得をしていて、家の大網自動車工場の代車であった、ポンコツのコロナという古い車を夜になると乗り回し、私もその助手席に同乗していました。

 被告発人大網健二と兄の関係者OSNの家は、宇出津の梶川沿いの大橋組という町内で、大通りに面した梶川橋の部分は、大網プロパンというプロパンガスの配達とガス器具の販売、後ろの新村や浜小路という町内に隣接した辺りには大網自動車工場をやっていました。

 しかし、その数年後には大橋組の大きな家を引き払うことになり、それが昭和59年とも記憶にあるのですが、同じ宇出津の音羽町の古い借家のような家に住むようになっていました。変わらなかったのは溜まり場となっていた少年少女の出入りの多さでした。

 今は記憶にしかないですが、大橋組の被告発人大網健二と兄の関係者OSNの家は、梶川沿いの大きな家で、民家と言うよりは古い旅館や妓楼のような趣がありました。あばれ祭りのメインともなっていた神輿を落とすのが、その家の真ん前の梶川でした。これは現在も同じです。

 違っているのは被告発人大網健二と関係者OSNの家があとかたもなくなり、現在は駐車場となっていることです。その分、神輿見物のスペースは広くなっていますが、以前は人のすれ違いもままならないような川沿いの私道で、なかほどに家の玄関のような出入り口がありました。

 私より2つ年下の学年の中心にあったのが被告発人大網健二と関係者OSNの妹になるのですが、最後に会ったのも平成2年と思われる被告発人大網健二の結婚式のことで、当時は被告発人大網健二らが前に住んでいた神戸市にいると聞いていました。

 被告発人大網健二とは平成13年12月31日に会ったのが最後になるかと思いますが、電話で話したのも平成16年か17年が最後のことでした。スノータイヤのことで電話をした平成14年11月の終わり頃には、すでに名古屋市内で生活をしていると聞いていたように思います。

 最後の被告発人大網健二との会話となった羽咋市のアパートでの電話のことも、はてなダイアリーからエクスポートしたはてなブログの記事には探せば情報があると思いますが、そのとき以来なにの進展もない状況です。開き直り怒りだしていましたが、最後は悲しそうに電話を切っていました。

 被告発人大網健二の兄の関係者OSNについても、もう7年ほど前に宇出津小学校の裏の墓場で会ったという話を聞いたのと、その後になるのか、宇出津の新村浜のバス停で、子供連れの、それと思われる人物の姿を見たのが最後の情報です。たぶんツイートもあると思います。

 以前は、お盆休みや正月休みの連休になれば、宇出津のスーパーで顔を合わすかもしれないと思っていた被告発人大網健二の兄弟ですが、より特徴的な兄の関係者OSNではない被告発人大網健二であれば、今では顔を合わせても気がつかないかもしれないと思っているぐらいです。

 城野町の同級生HSもけっこう特徴があったと思いますが、会って気がつくかといえば自信が持てず、話を聞くこともありません。

 城野町の同級生HSは、馬替のアパートのすぐ近くで、従兄弟のHSさんの車を運転し、私が助手席に同乗していたのですが、蛇行運転でハンドルを切り損ね、中に車がなかった駐車場の小屋を突き破り、隣の民家の塀をなぎ倒すという事故を起こしました。

 城野町の同級生HSは、免許停止で当時、金沢市観音堂にあった運転免許センターに講習に行き、講習中に教官と口論となり、乗ってきた車に乗って帰ろうとしたところを無免許運転として摘発されたということもありました。

 余り憶えてはいないですが、免停中の無免許運転であれば運転免許の取り消しで、それと事故の被害賠償もあったと聞きますが、城野町の同級生HSは、それで泣く泣く小木港の遠洋漁船に乗ることになりました。

 最初は小木港の遠洋漁船だったと思いますが、昭和60年の春には、姫の高倉漁港からの出港で、見送りに行き、姫の長い堤防から海に飛び込んで見送ったという記憶もあります。そのときに流れていたのが、北島三郎の「北の漁場」という当時の流行歌でした。

TW kk_hirono(告発\市場急配センター殺人未遂事件\金沢地方検察庁石川県警察御中) 日時: 2020-02-05 00:30 URL: https://twitter.com/kk_hirono/status/1224716774534336512
> » 北の漁場 北島三郎 - YouTube https://t.co/408k4Gs0Oq

 久しぶりに曲を聴いたのですが、歌詞にそのまま「二百海里」とあるのは、少し驚きでした。小木や姫の遠洋漁船の漁師が替え歌で歌っていたものと思っていたからです。

 八千代丸事件というのがあって、以前はネットで情報がありました。北朝鮮に拿捕され、その前に船長が銃撃で射殺されたという事件でしたが、そのときに八千代丸に初めて乗船していたのが松波の人物で、被告発人安田敏とは石川県立水産高校本校の同級生でした。

 それも昭和58年の春先になると思いますが、出漁直前に、城野町の同級生HSと、その従兄弟になるHSさんと私の3人で、松波の人物が彼女と仲睦まじく同棲生活をしていたマンションに遊びに行ったということがありました。当時の野々市町だったと思いますが、松任市に近い場所でした。

 城野町の同級生HSは、2つ下になる真脇のHMと同じ遠洋漁船に乗船していたと聞きましたが、それも同じ八千代丸として話を聞いたように思います。輪島市海士町の先輩漁師がいて、寝る前運動ということで毎日のように殴る蹴るの暴行を受けていたとも話に聞きました。

 当時の小木港の遠洋漁船は、スパルタ教育で殴る蹴るの暴行が当たり前とも聞いていましたし、北海道の港に着いてから能登に逃げ帰るのはとんでもない恥だと聞いていましたが、宇出津の一つ年上には、その逃げ帰ったという人物が2人ほどいました。

 輪島市海士町は特に気性が荒いので、小木港の遠洋漁船では一人しか乗船させない決まりになっているとも聞いていたのですが、金沢市場輸送での輪島市海士町の運転手は、数えて5人いて、その全員が小木港の遠洋漁船の経験者でした。それが漁師の修行として当たり前になっていたようです。

 同じ能登半島の奥能登でも、輪島市の方が冬場のシベリアからの季節風が激しく、海が荒れて冬場は一月に1,2回しか出漁できないことがあるとテレビの石川県内ニュースでも聞いたことがあります。富山湾に面した宇出津や小木港はその点、冬場でも海が穏やかなことが多いです。

 その海の荒れ方の違いもあるのかわからないですが、輪島の漁師はヤクザ者と同じように入れ墨を入れることが多いと聞いていました。金沢市場輸送にもいましたが、水死体となったとき弔ってもらうための目印が目的という話でした。

 前にも書いていると思いますが、小木と姫が北洋の遠洋漁船に乗り出すようになったのは、沿岸の水深が大きく関係していて、宇出津では冬場の寒ぶり漁にも代表される定置網の設置ができない事情があったとのことです。沿岸の水深が深く定置網の設置は水深50メートルが限界とも聞いたことがあります。

 小木港の漁業の歴史については、比較的最近にネットで記事を読んだのですが、やはり小川水産の功績が大きかったようです。この小川水産は、金沢市野々市町のパチンコ店、それと金沢駅駅前の都ホテルの経営ということで話を聞いていました。

 金沢市のパチンコ店として話を聞いたのは金沢市間明の陸橋の横にあるマカオというパチンコ店で、野々市町のパチンコ店の方は店名を忘れましたが、関係者KYNと一緒に店に入ったことがあり、戦後の韓国利権のパチンコ店にダンプカーを突っ込まれたことで有名になっていました。

RT kk_hirono(告発\市場急配センター殺人未遂事件\金沢地方検察庁石川県警察御中)|hirono_hideki(奉納\さらば弁護士鉄道・泥棒神社の物語) 日時:2020-02-05 01:15/2019-08-19 10:11 URL: https://twitter.com/kk_hirono/status/1224728116179787776 https://twitter.com/hirono_hideki/status/1163257168201576449
> 【わがまちの偉人】 能登町 小木のイカ釣り漁師 小川 栄一(1921~97年):石川:中日新聞(CHUNICHI Web) https://t.co/fJkgAwDLW9 \n 小木地区の目の前には、沿岸部の水深が深い海が広がり、地形的… https://t.co/b7EatAf3nE

RT kk_hirono(告発\市場急配センター殺人未遂事件\金沢地方検察庁石川県警察御中)|hirono_hideki(奉納\さらば弁護士鉄道・泥棒神社の物語) 日時:2020-02-05 01:15/2019-08-19 10:13 URL: https://twitter.com/kk_hirono/status/1224728080167489538 https://twitter.com/hirono_hideki/status/1163257678887436290
> 【わがまちの偉人】 能登町 小木のイカ釣り漁師 小川 栄一(1921~97年):石川:中日新聞(CHUNICHI Web) https://t.co/fJkgAwDLW9 \n 栄一が小木漁業協同組合(現県漁協小木支所)の組合長だった七… https://t.co/1rZzYQolYC

RT kk_hirono(告発\市場急配センター殺人未遂事件\金沢地方検察庁石川県警察御中)|hirono_hideki(奉納\さらば弁護士鉄道・泥棒神社の物語) 日時:2020-02-05 01:14/2019-08-19 10:15 URL: https://twitter.com/kk_hirono/status/1224727969312018432 https://twitter.com/hirono_hideki/status/1163258067372269568
> 【わがまちの偉人】 能登町 小木のイカ釣り漁師 小川 栄一(1921~97年):石川:中日新聞(CHUNICHI Web) https://t.co/fJkgAwDLW9 \n かつては「船に三年乗れば家が建つ」と言われるほど栄え、現在… https://t.co/3MB41nXgIQ

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> » 奉納\さらば弁護士鉄道・泥棒神社の物語(@hirono_hideki)/「小木 小川」の検索結果 - Twilog https://t.co/3HcooVGp7v


 リンクにあった北陸中日新聞の記事は削除されているようでしたが、奉納\さらば弁護士鉄道・泥棒神社の物語(@hirono_hideki)のTwilogに痕跡が残されていました。昭和51年がピークの最盛期でもあったようです。

 昭和51年というのは私が宇出津小学校の6年生の頃で、小木が最も暴力的であった時代でもありました。全国的な校内暴力の時代にも先駆けていましたが、小学生が便所でくわえタバコをし、注意した教師に暴行を振るうという事件もありました。

 そのような小中学校の校内暴力にいち早く対応し、成果を出したとも聞いたのが小木になりますが、小木分校では私の3つ年上の年代、これが小木分校の専攻科の1年生にもなったのですが、受け継がれた暴力の連鎖を断ち切ったことで大きな改善となったという話も聞きました。

 小木港の小中学校の荒廃は、父親が不在の遠洋漁船の仕事が最大の要因で、その辺りの改善から始めたという話を聞いたこともありました。その小木港で父親の漁の安全を願って明治時代に、子どもの遊びから始まったのが「とも旗祭り」と聞きます。

 話には聞いていた小木港の「とも旗祭り」ですが、私が最初に見たのは東日本大震災が起こった年になるので2011年になるのだと思います。昭和55年当時は、通学路でも小木港の港に目を向けることさえなかったのですが、羽咋市から戻らなければなかったことかもしれません。

TW kk_hirono(告発\市場急配センター殺人未遂事件\金沢地方検察庁石川県警察御中) 日時: 2020-02-05 01:57 URL: https://twitter.com/kk_hirono/status/1224738732881764353
> » とも旗祭り 昭和五十一年 - YouTube https://t.co/URXpHo77YB

 以前に何度か視聴してきたのと同じYouTubeの動画になるのかと思いますが、今回の視聴では印象がずいぶんと違っていました。オレンジ色の船はさきほどの中部船になるのかと思いますが、まず、小学生ぐらいの女子が多いのが今回の意外な発見でした。

 小木港のとも旗祭りは、割と近年になって5月の初めの連休中になったと聞きますが、春祭りになるはずです。宇出津のも以前は曜日ではなく日付が固定されていた春祭りがあって、曳山祭になりますが、小中学校の女子の参加というのはほとんど記憶になく、これは7月のあばれ祭りも近かったように思います。

 小木港の堤防のコンクリートがずいぶんと新しくきめ細やかに見えたのも気になりました。小木港湾内の堤防でアジ釣りをするようになったのは平成10年の12月の20日過ぎが初めてのことでした。それまで堤防のことはほとんど気にかけたことがなかったです。

 小木港で大きなアジが釣れるという話は、羽咋市に住んでいた頃から聞いてはいたのですが、魚釣りをするために小木港まで行くのはとんでもない話だと思い込んでいました。宇出津の人で小木港にアジ釣りに行き、死んだ人がいるという話も聞いていました。

 宇出津では昭和の時代の記録フィルムのような動画を見たこともないのですが、昭和51年であれば、宇出津の長楽寺でお斉市の催しもあった頃になるのかと思います。小木では経済的な余裕もあったので、記録フィルムを残すようなことも出来たのかと思います。

 前にも書いたことがあると思いますが、金沢市内でレンタルビデオ屋が始まったのも昭和59年のことで、当時は2泊3日という決まりであったような憶えもありますが、一本が1500円という、映画館の料金とも余り変わりのないものでした。当時の金沢の映画館は、香林坊になります。

 金沢市の荒屋町のことになりますが、金沢市内で近くで最も知名度があるのは、福久になるように思います。平成18年ぐらいにはパチンコ店マルハンの福久店がありました。現在はイオンとなっている大きな商業施設もあります。

 国道8号線バイパスでは、金沢東インターの少し先になりますが、ちょうど金沢東インターの乗り口を、少し超えた先に北陸自動車道は直進し、国道8号線バイパスは緩やかに左に曲がるという分岐点がありました。たぶん、現在も同じかとは思います。

 福久の辺りでは国道8号線バイパス沿いにいつの間にかケンタッキーフライドチキン吉野家の牛丼の店舗も出来ていました。その辺りの大きめの交差点を右折して、少し行ったところが金沢市荒屋町でした。

 その金沢市荒屋町という地名を知ったのも、被告発人大網健二に関連があることで、Nテックの仕事して、NK興産株式会社のFPの家の展示会場となったのが、その金沢市荒屋町にある民家だったからです。

 なにか事情があって、新築の家は完成したが引っ越しもしておらず、住んでもいないという話でしたが、確かに家具のようなものは一切ない今思えば不思議な家でした。

 数年前のことになりますが、Googleマップストリートビューで、そのFPの家の展示会場となった家を特定しようと試みたのですが、うまくいかなかったということがありました。

 その家の外観というのは特徴のなさが特徴的だったとも記憶にあるもので、一階と二階がほぼ同じ建物になっていました。それが一番安上がりという話は聞いたことがありましたが、他に、家の敷地と同じぐらいの駐車スペースがその家の前にはありました。舗装はされていたと思います。

 FPの家というのは、3,4年ぐらい前までは石川県でテレビCMがありましたが、いつの間にか見かけなくなっていて今夜も久しぶりに思い出しました。たぶんネットで検索すれば、今でも情報はありそうです。

TW kk_hirono(告発\市場急配センター殺人未遂事件\金沢地方検察庁石川県警察御中) 日時: 2020-02-05 02:49 URL: https://twitter.com/kk_hirono/status/1224751802014265347
> » FPの家について | FPの家 https://t.co/L07NLldw8d

 北欧や北海道をモデルにした住宅建築だったと記憶にありますが、夏場など高温多湿でもある北陸、石川県の気候、風土に合うのかという疑問がありましたが、ずいぶん長くテレビCMが続いていたので、それなりの評価や実績はあったのではと思います。

 NK興産株式会社と西宅建株式会社については、ネットでは十分な情報を記述していないかも知らず、そのうちに私の記憶も薄らいではいます。

TW kk_hirono(告発\市場急配センター殺人未遂事件\金沢地方検察庁石川県警察御中) 日時: 2020-02-05 03:00 URL: https://twitter.com/kk_hirono/status/1224754631667941376
> » 雪吊橋 - Google マップ https://t.co/sQ0VyfpUxR \n 〒920-0059 石川県金沢市示野町西

 今調べて初めて知ったのですが雪吊橋とありました。Googleマップには橋の写真もあるのですが、記憶にあるものとは違っています。昭和59年の12月に、アルバイトの仕事を吹雪の中やっていた記憶のある橋でもあります。

TW kk_hirono(告発\市場急配センター殺人未遂事件\金沢地方検察庁石川県警察御中) 日時: 2020-02-05 03:05 URL: https://twitter.com/kk_hirono/status/1224755827912790016
> » 北陸地建(株) - Google マップ https://t.co/I4rPfQmzay

 現在もほぼ同じ場所に会社があることを確認しましたが、アルバイトに行っていたのは北陸地建という会社で、私の他、被告発人大網健二、富来町出身のOT、そして当時はHMだったと思いますが、婿入りで姓が変わったSMが一緒でした。

 昭和59年の10月に私が一人で北海道に行き、戻ってすぐのアルバイトでした。12月の20日過ぎには中西運輸商で仕事を始めたことになるので、それより前になるのですが、今では考えられないほど12月でもたくさんの雪が降り、積雪がありました。

 当時も同じ名称であったのか不明ですが、最新のGoogleマップの情報では雪吊橋とあります。高畠の交差点から国道8号線バイパスの下をくぐり、川沿いに金石方面に向かうと最初の信号機の交差点で、右折したところにあるのがその雪吊橋でした。

 その雪吊橋とは反対側の国道8号線バイパスから斜めに入ることが多かったとも思うのですが、雪吊橋の手前にはそちらからだと右折して、観音堂に向かう裏道がありました。被告発人安田敏の運転でよく通った道でもあるのですが、それには理由がありました。

 金沢市内から被告発人安田敏の観音堂のアパートに戻るには金石街道を通行するのが普通だったのですが、大徳の派出所があって、信号待ちで停車すると改造車である被告発人安田敏の車は警察官に停車を求められ、棍棒で車のボンネットを叩かれたこともありました。

 その金石街道を通行しないで観音堂のアパートに戻っていたのが示野の裏道になります。そのようになかなか思い出のある裏道ではあったのですが、ちょうど右折する角辺りに敷地の広い製材所のような工場があって、あとで知ったのですがNK興産株式会社の元々の木材の会社でした。

 NK興産株式会社の社長の名前も今は思い出せなくなっていることに気がつきましたが、娘の名前は「ひろみ」であったように思います。漢字のことは思い出せないですが、それこそ強姦被害をでっち上げるような工作的な言動が親子であったことは記録にある通りの事実になります。

 少し思い出したような気もするのですが、名前は西永だったかもしれません。ちょっと違っているような気もしますが、はてなダイアリーにエクスポートしたはてなブログには、以前の記録が残っているものと思います。

TW kk_hirono(告発\市場急配センター殺人未遂事件\金沢地方検察庁石川県警察御中) 日時: 2020-02-05 03:28 URL: https://twitter.com/kk_hirono/status/1224761776484409344
> » 興産株式会社 の検索結果 - 金沢市駅西本町所在市場急配センターにおける組織犯罪殺人未遂事件として再捜査の要請書/石川県警察珠洲警察署御中 https://t.co/bJowaZ6x6w

 ほとんど見聞きしなかった名前で、はてなブログでの検索結果に少なからず意外性を感じてもいるのですが、記憶に自信が持てなかったもののやはり「西永親子」と情報がありました。


[写真資料]組織犯罪の協力関係の写真資料
 この問題については、連載エントリ「組織犯罪と法的救済について」において詳細を書く予定です。
事前に、写真資料を公開しておきます。
 この問題に関連しているのは次の人々です。
●エヌー・ケー興産株式会社
●西宅建株式会社
●本陣不動産株式会社
●チェリー商事
 エヌー・ケー興産株式会社の西永親子においては、より濃厚な関与を行っており、美人局のような工作活動を私に仕掛けてきました。娘の名前は「西永ヒロミ」でした。漢字の方を忘れてしまいましたが、金沢地方検察庁に平成14年1月頃、資料として名刺等を郵送してあります。
 西永親子は、金沢市古府町あたりにエヌー・ケー興産株式会社の事務所をかねた自宅兼建物を所有し、その一部屋を借りて不動産会社を営業していたのが「西宅建株式会社」です。
 大網健二によると、西永はもともと富山県福光市あたりに済んでいたとか、以前は通勤していたそうです。金沢市内示野あたりに、割と規模の大きい材木会社を営業していました。
 西宅建株式会社の社長は、西という名前ではありませんでした。名前を忘れましたが、自宅は金沢市大野にあると聞いていました。
 写真に写っているのは、西宅建の倉庫であり、本年(2006年)3月20日に撮影したものです。となりにあるのが、大網健二がチェリー商事の社長からもらい受けると話していた倉庫です。
 隣接していますが、いずれも金沢市桂町あたりで、丸西観光(以前は、丸西水産輸送)という運送会社の、道路を挟んで真向かいあたりです。

[source:]hatena-diary_20060917 - 金沢市駅西本町所在市場急配センターにおける組織犯罪殺人未遂事件として再捜査の要請書/石川県警察珠洲警察署御中 http://hirono-hideki.hatenablog.com/entry/2018/09/20/135818

 西宅建株式会社の社長の名前が、西ではなかったというのもすっかり忘れていた情報になりますが、記事にある平成18年9月17日頃の時点で思い出すことの出来なかった名前になるようです。

 西宅建株式会社は夫婦でいるところを会社事務所で見たような記憶はあるのですが、従業員の姿も話もなく、なぜ株式会社になっているのかという疑問はありました。

 被告発人大網健二の話では、住宅造りという趣味を最大限にしたような経営で、自分で住宅をデザインし作り上げてからの建売住宅をメインにしているという話でした。私が知るその最後のものが平成11年4月に被告発人大網健二と会った西金沢の建売住宅の展示場になります。

 その前に話を聞き、青っぽかったとも記憶にある新聞の広告チラシを受け取っていたのが、金沢市上荒屋の建て売り住宅でした。それで、みどり団地の高層の住宅にも飛び込みの営業に行きましたが、ドアを開け応対してくれる家は一軒もなかったという記憶があります。

 金沢市上荒屋は、さきほどGoogleマップで久しぶりに場所を確認したところですが、御経塚の交差点より少し美川よりでした。何年か前にGoogleマップで御経塚が金沢市内ではなく野々市と知って驚いたのですが、石川郡野々市町だったのが現在の野々市市になったのか微妙な時期だったとも思います。

 その金沢市上荒屋として記憶にあるのが、城野町の同級生HSが新築の住宅を建てたという場所で、被告発人大網健二の全面的な協力で住宅ローンの問題もクリアでき新築の住宅を建てることが出来たという風に被告発人大網健二は私に話していました。

 この住宅ローンの問題については、被告発人大網健二の付き添いで、金沢市南町辺りのビルの前まで同行したような記憶もあります。ちょうど尾山神社の近くだったとも思いますが、南町というのは香林坊と近江町市場の間で、金沢市のオフィス街にもなっているという話です。

 前に少しは書いているはずですが、昭和58年当時は金沢市南町というのは、夜になるとナンパのメッカになっていました。その後は金石海岸に移ったと平成4年当時には聞いていましたが、金沢西警察署でも警察官が「ちゃんかい」と読んでいました。これは方言で性行為に街道をくっ付けた言葉になります。

 あれから22年以上の年月が経過した現在でも信じられない思いが強いのですが、被告発人大網健二は当時、金沢で4指に入るとも聞いていた本陣不動産株式会社の営業課長でありながら、宅地建物取引主任者の資格を持っていないと言っていました。

 それは平成9年の秋のことになりますが、私は当時の野々市町金沢工業大学宅地建物取引主任者の試験を受けました。同じ日に被告発人大網健二とは電話で話をしたのですが、不動産会社の社員なので試験の優遇措置もあると言いながら、家族と外に遊びに出ていたという話をしていました。

 これはちょうど宅建業法の改正の時期と重なり、事務所に一人の宅地建物取引主任者の有資格者がいなければ、不動産取引の成立がならないということになっていました。資格の必要性は格段に大きくなっていたはずなのに、被告発人大網健二の態度が不思議でならず、実際は資格を取得済みの可能性が高いとも考えていました。

 金沢市上荒屋は、車で通り抜けることがあって、たぶん運転をしていた被告発人大網健二に、あの辺りが西宅建株式会社の物件の家とか、世話をした城野町の同級生HSの家があの辺りとも聞いたように憶えています。

 Googleマップでみると金沢市上荒屋は国道8号線の御経塚の交差点にかなり近いのですが、当時の私のイメージでは海にかなり近いところで、その先のさらに海に近い辺りに見たのが、真脇のIMが住むという古いマンションだったのです。

 御経塚の交差点と海の間には、金沢市の金石から当時の松任市松任駅の近くに出る主要道がありました。途中の松任駅に近い方に御経塚の交差点から来た道路と交差する大きな交差点がありました。

 Googleマップにある宮永の交差点がそれになると思いますが、御経塚の交差点から来ると宮永の交差点を直進して向かうのが美川で、その先には小松市安宅の関片山津温泉があり、その目的地が国道8号線では遠回りになるという事情もあり、よく通行をした道路になります。

 現在では近くに広い道路が出来ていて、そこに北陸自動車道の白山インターもあるようにGoogleマップにありますが、金石から松任市への主要道は県道なのかもわからなかったですが、金石松任線と呼ばれていたかもしれません。

 その金石松任線を海の方に越えた辺りにあるのが安藤健次郎さんが部長をしていた鐵工所のある旭工業団地になります。その辺りは長距離トラック運転手の仕事でもよく通っていて土地勘があるはずなのですが、海には近いと思った真脇の同級生IMが住むという場所は、位置が把握しきれないところがありました。

 海に向かって突き当たりのような場所に大きなマンションがありました。それは印象的によく憶えています。羽咋市内でもそれにいくらか似たような場所があって、マンションではなく入浴施設となっていました。

 とにかく記憶に強く残るのは、上荒屋を通過して、その真脇の同級生IMが住むと被告発人大網健二が説明したマンションに行ったことです。

 被告発人大網健二が真脇の同級生IMのことをやたらと強調しているのも会話の中できになっていました。被告発人大網健二との会話の中で出てきたのか今は記憶にないですが、IMは、小木分校の同級生で小木中学校の出身だったIKと結婚していると聞いていました。

 今も名前はフルネームで記憶がありますが、ここで書くことはありません。石川県立水産高校小木分校では、ちょうど真後ろの席に彼女がいたことで、それも記憶には残っていますし、以前に書面では記述をしたようなこともありました。

 私は夜遊びで、出席日数も足らず留年をし、2か月ほど後に小木分校を自主退学していますが、1年生のときに他に2人が退学した他は、関係者KYNを含め全員が石川県立水産高校小木分校を卒業しているものと思います。

 退学をしていたこともあり、その後に同窓会のような話を聞くこともなかったのですが、高校1年生の頃はとても仲が良くよく一緒に遊んでいた関係者KYNと真脇の同級生IMがケンカで仲違いをしたような話は小耳に挟むことがあり、そのあとは会話で名前を聞くこともなかったように思います。

 真脇の同級生IMは、同じく高校1年生の頃まではいつも関係者KYNとも一緒に遊んでいた宇出津のTYと珠洲実業高校に通っていましたが、二人とも退学をしたのであったか、同じ頃に小木の遠洋漁船に乗るようになっていました。

 宇出津のTYの方は小木港の遠洋漁船で春に見送りに行き、それが昭和57年の春であったとも記憶にあります。ホンダのホークⅡという400ccのバイクに乗っていたのですが、わずか2か月ほどで中型自動二輪の免許が取り消しとなる前のことでしたのでよく憶えています。

TW kk_hirono(告発\市場急配センター殺人未遂事件\金沢地方検察庁石川県警察御中) 日時: 2020-02-05 05:15 URL: https://twitter.com/kk_hirono/status/1224788527394590720
> » ボースンとは - コトバンク https://t.co/sJBISWXMBE

 2,3年後にはボースンになったというような話を聞いていたのですが、ボースンというのも久しぶりに思い出した言葉で、今回初めて調べてみると「船の甲板長。水夫長」、「親方」という意味が出ていました。

 宇出津の城野町のHSが遠洋漁船に乗ったのは、早くとも昭和58年の翌年になるので昭和59年のことになります。当時は5月の出港で、小木に戻るのが12月の10日過ぎとも聞いていました。現在の小木港の中型イカ釣り漁船は6月から1月の操業とテレビのニュースでみることがあります。

 昭和59年というのは1月に私が金沢市場輸送での長距離トラック運転手の仕事を始めた年になりますが、7月のあばれ祭りで被告発人大網健二が城野町のキリコを担ぎ、腰を痛めたという話で、中央市場にも近い金石街道沿いの病院に入院しました。

TW kk_hirono(告発\市場急配センター殺人未遂事件\金沢地方検察庁石川県警察御中) 日時: 2020-02-05 05:29 URL: https://twitter.com/kk_hirono/status/1224792080326651904
> » 波多野整形外科医院/病院の口コミ https://t.co/FeZ7Yltn16

 ほとんど記憶通りの場所に波多野整形外科医院という情報を見つけたのですが、Googleマップには見当たらず、閉院する前の古い情報の可能性もありそうです。医院とありますが、普通に入院施設も整ったような規模の病院でした。

 遅くとも10月には病院を退院し、ナンパで遊び回っていた被告発人大網健二ですが、貸していた私のカリーナ1600GTを事故で廃車にし、10万円の現金をくれたことで、私は金沢市場輸送をやめた直後に北海道に行ったのです。

 黄色のカリーナ1600GTは、当時はまだ金沢市神田にあったカーチェイスという中古車店で買った中古車で、その社長というのが宇出津の覚照寺という寺の息子でした。私の父親の寺でもありました。

 黄色のカリーナ1600GTは、50万円ほどだったと思いますが、前年の昭和58年7月から3回目の車の買い換えで、ローンの支払いが150万円以上になっていました。月々5万7千円ほどの支払いで3年間の36回払いだったとも記憶にあります。

 10万円で被告発人大網健二に車を廃車にされたのは痛手でしたが、金沢市場輸送でも、そのあとの中西運輸商でも4トントラックを通勤の自家用車のように使っていました。

 今ではそういうことのできる運送会社も少ないような気がしますが、そのあたりは自由で気ままな時代であったと思います。

 確証は持てないもののやはり宇出津の城野町の同級生のHSが遠洋漁船に乗ったのは昭和59年の春の可能性が高く、その年か翌年辺りには、被告発人HTMも遠洋漁船に乗船したという話を聞いていました。

 はっきりと記憶にあるのは昭和60年の春のことで、そのときは中西運輸商で仕事をしていましたが、遠洋漁船の出港の見送りに姫の高倉漁港に行きました。何時間か前に書いたと思いますが、「北の漁場」の曲を港の漁船で聴いたときのことです。

 姫の300トンの漁船とも聞いていた記憶があります。小木港の遠洋のイカ釣り漁船でよく聞いていたのは100トンで、北海道の小樽港との間を行き来する日本海と呼ばれたイカ釣り漁船は、それより小さく60トンと聞いていたようにも思いますが、入浴がなく一月ほど風呂に入らないと聞いていました。

 100トンの遠洋漁船になると風呂はついていたのかと思います。日本海の遠洋漁船は一月ほど風呂に入ることが出来ず、小樽港のサウナの入浴施設に行くと、本当なのか浴槽のお湯の色がいっぺんに濁るという話でした。

 見送りに行った姫の300トンの遠洋漁船は、友人が3,4人乗船していたと記憶にあり、被告発人HTNもその一人だったのかもしれません。

 被告発人HTNは、家業だった繊維工場をやめてすぐ、父親と一緒に漁師をしたという話でしたが、まもなく父親が死亡し保険金がたくさん入ったという話を噂話のように聞いたことがありました。

 しかし、それも根も葉もない噂話とは思えず、同じ真脇の離れた場所に御殿のような新築の家を建てそちらに引っ越していました。その家に遊びに行ったのがいつ頃かはっきりとは思い出せないのですが、一度は弟と一緒に爆睡している姿を見たという記憶があります。

 被告発人HTNが市場急配センターの仕事をするようになったのは、少なくとも平成2年6月よりは後のことになります。その6月には片山津温泉のホテル長山で、一泊の慰安会があり、そこで輪島の運転手とトラブルになったのですが、HTNの姿がまだなかったことははっきり記憶にあるからです。

 市場急配センターの仕事をするようになる前は、金沢港の漁船に乗っているか、乗っていたという話を噂話のように聞いたことがあったように思います。市場急配センターでの仕事を決める前に私のアパートに電話があったようなのですが、前妻は姫のNKさんと取り違えたような様子でした。

 それまでの出会いや声や話し方の違いから前妻が取り違えをしたとは考えにくかったのですが、特に疑うような事情もなかったので、根掘り葉掘りと前妻に事情を確認するようなこともありませんでした。

 はっきりしていることは、小木か姫の遠洋漁船の仕事をするようになってから、宇出津の城野町のHSと真脇の被告発人HTNの関係がいっぺんに身近になったことで、HSは全くタメ口で話すようになっていました。昔の軍隊のような上下関係を伝統にしていた土地柄でありました。

 私は平成9年の11月頃から関係者KYNのところで配管工事の仕事を始め、現場で大網商事の城野町の同級生HSと顔を合わすことも何度か会ったのですが、遊びに誘われるようなことは一度もなく、かなり距離感を置いているな、と感じることはありました。

 その距離感というのは警戒心と言い換えてもいいものです。その距離感が一番縮まったのが、平成11年の3月か4月になると思いますが、被告発人大網健二が金沢市粟崎の被告発人HTNの自宅にいると言いながら携帯電話に掛けてきた電話のときでした。

 どこからどこへ向かっていたのか今は記憶にないですが、その被告発人大網健二から掛かってきた電話を受けていたのも、金沢港の前の道路で粟崎の近くでした。まるで浴室で話しているように電話口の声が響いていたのですが、何かで録音や盗聴の兆候だと聞いたことはありました。

 当時の被告発人大網健二にすれば、ようやく私を手懐け、コントロールが出来そうだという見込みのある様子がうかがえましたが、私はそのずっと前から被告発人大網健二に対する警戒心を強めていました。

 今だとだいぶん前の記述になるとも思いますが、長い間、姿を見せなかった被告発人大網健二が姿を見せるとともに主体的な言動を見せるようになったのが、平成10年の秋、11月に入っていたとも思いますが、西金沢駅近くの一水に関係者KYNと三人で行ったのが最初の頃になります。

 その前後には、大学の先生を講師に呼んで、関係者KYNの事務所の家で大網商事の社員教育のための講義を開くという話がありました。仕事先から戻った時点では、その講義が終了したという話を聞いたように記憶にあるのですが、信じがたく裏の思惑がありそうに思えてならない話でした。

 関係者KYNのところで配管工事の仕事の仕事をしたのは平成9年の11月から平成10年の10月いっぱいで、長く見て一年と二ヶ月にしかならないのですが、その間には、隣に住んでいた建築業の若い夫婦の家をまるごと買い取り、事務所にしたということもありました。

 はっきりした金額は現在思い出せないのですが、以前は書面に記述があるはずで、数億円の融資を宇出津に本店のある興能信用金庫から受けたという話でした。それも平成10年の秋頃の話だったと思います。

 3億円とかそういう金額の話ではなかったと思いますが、現在も億の金額として記憶にあり、1億円というものよりは大きく、具体的な金額だったと思います。ただ、その金額と用途には釈然としないところがありました。

 融資の時期というのも併せておきたいところです。ようやく融資が決まったというのは秋以降の話だったと思いますが、同じ平成10年の春頃には、新本設備の下請けではありましたが、当時の能美郡で、辰口庁舎と、いしかわ動物園という大きな仕事が始まっていて、高そうな資材も買い入れていました。

 どちらも元請けはアムズ株式会社で、辰口庁舎の現場ではJVとかいう共同体の一つとして看板のようなものが出ていたと思います。大きな融資が必要となったのもその2つの大きな仕事以外は考えられないのですが、数ヶ月前に仕事は始まっていたという不思議があります。

 特に資材の買い入れに経費が掛かっていたと思われるのが、いしかわ動物園の仕事で、2カ所ほどトイレの配管工事のような仕事はあったのですが、メインとなったのがロシアから友好で送られ間違いがあると国際問題にもなりかねないと関係者KYNが言っていたのが、アザラシを展示と飼育する施設でした。

 その前には同じ当時は能美郡だった辰口町北陸先端大学で、インターネット設備の地下ピットの配管工事をしていたのですが、それとも比較にならないような特殊な器具やバルブを使ったのが、いしかわ動物園での配管工事でした。そこではビニール溶接というのもありました。

 以前は、記憶が新しい段階で徹底的な記述をしているはずですが、このビニール溶接の練習というのも私の再審請求の活動を妨害するような目的性の高いもので、志賀原子力発電所に講習を受けにまで行ったのですが、最後はあっさりと委託した専門の業者にすべてを任せていました。

 最終的には、会社を辞めるか続けるかの決断を迫って、事実上私の再審請求の活動を阻止する挙に出たのが関係者KYNになります。発注者を市場急配センターとして、最後の下請け、実行者になっているのが関係者KYNなのではと考えることもありました。

 そして関係者KYNに任せたままでは先行きに期待が出来ないと言うことで表に出てきたのが被告発人大網健二になりますが、関係者KYNとしては、間接的にコントロールがしやすいと期待できる、新本設備に私をあずけることを狙った節があります。

 はっきりしていることは、その新本設備との合同の新年会に関係者KYNの会社を辞めたあとに参加されられたことで、一泊になりましたが金沢西インターの近くテルメ金沢での新年会でした。

 被告発人大網健二の話では当然のように金沢市黒田一丁目の関係者KYNの自宅兼会社の中古物件の購入の保証人になったということでしたが、被告発人大網健二本人は金沢市円光寺の中古住宅の購入に、誰にも保証人にはなっていないという話でした。

 金沢市黒田一丁目は、Googleマップで確認すると伏見川沿いとなっていますが、かなり水害の発生の危険性がありそうな場所で、金沢市内でも土地単価がかなり低そうでした。

 一方の被告発人大網健二が中古住宅を購入した金沢市円光寺ですが、金沢市高尾あるいは高尾台などと並んで、金沢市内でも特に土地単価が高いと聞いたことがありました。東京で言えば山の手の高級住宅地にもなりそうですが、伏見川の上流はその山科の辺りにあるようです。

 金沢市内というのは住んでいて実感したことですが、そのほとんどが平野の平地になります。Googleマップで確認しました円光寺の辺りはまだ同じ平地に見えて、その少し先から緑が多い山の高台となるようです。

 金沢市犀川浅野川という大きな川が2つあるのですが、今だと10年以上前になるのかと思いますが、浅野川で大きな水害があって裁判沙汰のようなテレビのニュースをみたのも、大きな被害は高台にもなるはずの山間部に近い地域であったような記憶があります。

 この水害の危険性という土地単価を気にするのは、他にも1つ理由があって、被告発人大網健二の付き合いで、喫茶店での不動産取引に同席したことがあったのですが、相手は若そうでしたが、ずいぶんと水害のリスクにこだわり続け、その場所というのが金沢港の一部にもなりそうな粟崎だったのです。

TW kk_hirono(告発\市場急配センター殺人未遂事件\金沢地方検察庁石川県警察御中) 日時: 2020-02-05 07:38 URL: https://twitter.com/kk_hirono/status/1224824561021026305
> » 粟崎町 - Google マップ https://t.co/umnKmxzyDS

 Googleマップでみたところ金沢市粟崎で直接金沢港に面しているのはごく一部のようです。大野川というのがありますが、これは比較的最近になってGoogleマップで知ったもので、そのまま河北潟につながっています。

 金沢市粟崎の辺りは海抜が低そうにみえるので、それが水害のリスクであったり、おそらく過去には大きな水害があったという事実があるのかもしれません。浅野川がそのまま大野川に出ていることは、今回初めて気がつきました。


平成25年4月5日、金沢地方裁判所において、浅野川水害被害住民70名(吉島聖和原告団長、中村正紀弁護団長)が石川県と金沢市に対して、損害賠償を求めた訴訟の裁決がなされた。2009年に提訴して、4年あまりで和解が成立した。同様の水害裁判では、画期的な早さでなされたという。
 
 浅野川水害は、2008年7月28日早朝5時から8時にかけて、浅野川上流で3時間251ミリメートルの記録的な豪雨が発生し、浅野川流域で約2000棟の浸水家屋被害があった。昭和28年(1953)にも同じような洪水氾濫があったが、それ以来、55年ぶりのことであった。

 コンクリート堤防の切れ目を塞ぐ石川県の対応が遅れたり、金沢市が管理する水門を閉めなかった支流から逆流したりするなど、管理責任を果たしていないという理由で、石川県と金沢市に対して、1億6900万円の損害賠償請求したものである。

 石川県は、「未曾有の自然災害で予見できなかった。」、金沢市は、「水門を操作するのは危険で不可能だった。」などと、それぞれの責任を否定した。

 これに対して、金沢地方裁判所(源孝治裁判長)の判断は、記録的な集中豪雨で発生したとし、行政側の過失は明示せず、今後の治水対策に万全を期するようにとの付記がなされただけで、責任は問われていない。しかし、実害を1億2000万円と認定、和解金4700万円(石川県3500万円、金沢市1200万円)支払いの裁決をした。実質的には、住民の訴えを妥当と認めた裁決であり、両方の面子をたてた大岡裁きというところだろう。

[source:]浅野川水害訴訟>浅野川水害訴訟が和解 - 犀川の河川整備を考える会 https://blog.goo.ne.jp/nakatoshiki/e/fd9297e1fe35bcf2e8361a8bd73c3b31

 記憶ははっきりしていなかったのですが、浅野川の水害は平成20年7月28日とありました。石川県と金沢市の責任が問われ、石川県3500万円、金沢市1200万円になったというのも参考になるところがある発見でした。


掲載更新 2009.11.5

浅野川洪水とはなんだったのか?
次第に分かってきたのは、県が主張するような天災ではなく、55年前に起きた洪水をきっかけに進められた河川整備がほぼ完成した後、そのまま放置され、土砂堆積が1.5m~2.0m進んだ結果であった。
また、浅野川の洪水対策で作られた浅野川放水路の管理が行われず、ここも堆積がすすみ、計画どうりに分水できなかったことである。
明らかに石川県や金沢市の責任があるのだが、行政がそんな無責任な態度をとる要因は、第三者委員会に参加している専門家と称する委員の無責任さと、県の意向に添った調査報告を作成した(株)アイエヌエー(INA)なるコンサルタントの存在であろう。このコンサルタントは、石川県の主要な河川整備に関わる調査委託業務を独占的に受注してきた。県職員の天下り先でもある。
下流に住む者として、堤防決壊の危険性や河床堆積の放置は見逃すことができない。死人の出ることも考えられるからだ。
このページで、浅野川洪水の数々の問題を総まとめをしていきたい。

[source:]浅野川洪水のすべて http://nagi.popolo.org/dam/asano/kouzui_subete.htm

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