#告発状 #### 道路を挟んで金沢地方検察庁の横にあった被告発人若杉幸平弁護士の法律事務所の建物と、金沢地検の歴史

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 まずGoogleマップ金沢地方検察庁の場所を開こうとしたのですが、Googleの検索結果のページにあった金沢地方検察庁の建物の色がこれまでになく赤く見えて気になり、2度ほどリンクを開くと、検事正のご挨拶のページが出てきました。


令和元年11月8日付けで金沢地方検察庁の検事正を拝命いたしました植村誠です。
 前任は鳥取地検の検事正を務めてまいりました。
 出身は東京都で,平成2年に任官し,その後は東京と全国各地の検察庁との間の転勤を繰り返してきました。
 金沢地検での勤務は初めてですが,平成10年4月から平成12年3月までの2年間,隣県の富山地検で三席検事を務めていました。

 最終更新日が2019年11月18日となっています。植村誠検事正とありますが、前にも見たこと読んだことのある内容でした。

 ただ、今回すごく気になったのは、「平成10年4月から平成12年3月までの2年間,隣県の富山地検で三席検事を務めていました。」という部分です。

 ネットで三席検事という言葉を見たのもずいぶんと久しぶりに思ったのですが、この植村誠検事正は昭和38年生まれとあるので、昭和39年11月生まれの私とは1つ違いの年長になります。

 年齢を1つ読み替えるだけなのでとてもわかり易いのですが、よく見ると平成2年に札幌地検で検事任官とあります。私は平成4年の4月の時点で27歳だったのですが、2年引いて1年プラスすると、概算ですが26歳で検事に任官したことになりそうです。

 富山地検の三席検事になったのが平成10年とあるので検事任官から8年目ということがわかり、26歳から8年目で、これも概算になりますが34歳で三席検事。これはずいぶん若く感じます。

 もう何年もネットで三席検事という言葉を見かけていないので、制度改革でなくなっている可能性もあるぐらいに思えるのですが、ずっと前に調べたときもはっきりした役職という情報は見かけなかったように憶えています。

 地方検察庁のトップが検事正で次が次席検事、次席検事はマスコミ対応など広報的な役割も担うと聞きますが、どちらも決済官として、取り調べや法廷など現場に出ることはないと聞きます。そして現場に出る検事のトップが三席検事という話でした。

 三席という検事を最初に聞いたのは福井刑務所にいるときだったと思いますが、それも江村正之検察官がその三席検事だったという話を聞きました。

 金沢地方検察庁のホームページで検事正紹介のページには、右手に「金沢地検の紹介」というメニューがあって、「検事正紹介」の項目の下に「金沢地検の歴史」があることに気が付きました。なお、その下は「仕事・組織」「アクセス」となっています。

 ちょうど検事正紹介のページを開く前に、金沢地方検察庁の現在の建物のことが気になっていたのですが、私が最初に見た頃から現在と同じ建物で、そこに検察庁の建物があると認識した時期ははっきりしないのですが、平成2年頃に一度、未納付だった反則金を支払いに行きました。

 金沢市場輸送まで金沢地方検察庁を名乗る数人が来て、私がいる前で私の名前を出して所在を尋ねたので、私はすぐに飛び出して金沢地方検察庁に向かい、支払いをしたのです。

 断片的なショートムービーのような記憶しかないですが、金沢地方検察庁の建物のかなり上の階で、部屋に一人でいるような人物に背後から声を掛けたのです。まるでドラマの俳優の演技を見るような場面だったのですが、驚いた様子で軽く笑って対応をしていました。

 今考えると、検事ではなく副検事だった可能性が高そうですが、検事であった可能性が高いとも思われ、会ったときの第一印象や表情、そして逮捕された被疑者とは立場がまるで違ったものの、前に応対したのも江村正之検察官ではなかったのかと考えたことがありました。

 金沢地方検察庁の建物というのは警察や金沢刑務所から連れて行かれた以外は、中に入った回数も少なく反則金の納付以外は3回ぐらいしか思い出せないのですが、一度、建物の中を自由に歩き回ったことがありました。

 あてもなく金沢地方検察庁の庁舎内を歩き回ったわけではなく、トイレか部屋を探していたように思います。3階より上の階で、一つ上の階から降りてきたような気もするのですが、建物の正面側の通路に細かく仕切られたような副検事の部屋が並んでいました。

 けっこう数があってほとんどの部屋がドアを開けっ放しにして、通路を歩く私を訝しい目で見ていたのが印象的でした。副検事の部屋だとわかったのは、表札のようなものが掛けられていたからです。同じ間取りで狭い取調室のような部屋でした。

 通路というか廊下は、卯辰山の方角から歩いてきたのですが、右手に副検事の部屋が並んでいました。部屋の奥は建物正面の窓になるはずなのですが、一面が壁の密室のように見えたのも野性的な警戒心のような副検事らの反応と相まって異様なものだったと印象にあります。

 他に記憶にあるのは、金沢地方検察庁の建物の正面に小さな駐車場のスペースがあって、そこに自分の軽四を停めていたのですが、帰り際に車に乗り込み、エンジンを掛けたか掛けようとしたタイミングで、守衛のような人が慌てて駆け寄ってきました。

 あまり憶えていないのですが、庁舎に入る許可証のようなものを受取り、それを返さないまま帰ろうとしたのかと思います。何の用事で金沢地方検察庁に行ったのか記憶にないのですが、羽咋市に住んでいるときで、金沢地方検察庁での滞在時間もその時は短かった気がします。

 金沢地方検察庁の庁舎内の構造に関心があったわけではないのですが、振り返ると、入った部屋は1つの例外を除き、建物の裏側の部屋でいずれも陽当りが良かったように思います。

 1つの例外というのが下平豪検事が教官のような司法修習生の実習室のような部屋で、横に細長い部屋でした。考えてみると遠塚さんと話し、告訴状か告発状を手渡した捜査官室も、他に見たことのないような細長さを感じる部屋でした。奥行きが狭く感じられたとも言えます。

 奥行きが広く感じられたのは、反則金のことで入った部屋でした。金沢地方検察庁の建物の正面から右側の面に部屋があったようなイメージなのですが、この面に記憶がある部屋というのは、呼び出した参考人の待合室のような部屋ぐらいです。

 少なくとも平成18年10月の時点では、玄関口での受付さえ済ませば、事実上自由に金沢地方検察庁の庁舎内を歩き回ることができたと思います。この先進入禁止などの立て札を見たような記憶もありません。

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> 「検察審査会の正義」で議員辞職に追い込まれた菅原一秀氏、「秘書にハメられた」についても説明を #BLOGOS https://t.co/gSYeR59mcy

 ブラウザの拡張機能からツイートしたタイミングで、郷原信郎弁護士のツイートが出てきました。

 昭和57年3月に「金沢法務合同庁舎新営」とあります。建物の建設にどれぐらいの期間が掛かったのか気になるのですが、前年の昭和56年8月28日の午後に、私はすぐ近くの金沢家庭裁判所に行っています。

 当時は広坂交差点の角にあった金沢中警察署から護送車に乗せられ、着いた先がその金沢家庭裁判所だったのですが、どこに行くという説明もなかったと思いますし、着いた先の金沢家庭裁判所でもほとんど説明がなく、理解できたのはこれから少年鑑別所に入るということでした。

 金沢少年鑑別所は小立野にあったのですが、広い通りからは離れた閑静な場所でした。2,3年か前にGoogleマップで場所を調べたのですが、場所自体は昭和56年当時と変わっていなかった気がします。

 今でも歴史的な体験をしたように思い出すのですが、当時の金沢少年鑑別所の建物は、今なら移築で歴史遺産になるような建物だったと思います。古い時代の田舎の分校のようでもあったのですが、独居房の扉が分厚い鉄扉で、土蔵のようでした。それでも陽当りは良かったと思います。

 28日以内に審判があって家に戻れるか少年院に行くか決まると言われていたのですが、鑑別所にいたのは26日だったと思います。試験観察でしたが、半年以内には次の審判の結果が出たと思います。保護観察もつかなかったので、不処分のようなものだったとかと思います。

 記憶にあるのは同じ昭和56年の11月の20日頃になると思いますが、七尾市家庭裁判所で調査官に会いました。令和3年3月31日付告発状には記述したように思いますが、待合室で、被告発人安田敏とその母親と会ったときのことです。

 もう一度、審判で金沢家庭裁判所に行ったという記憶もないので、書面のような通知が届いて終わりになったのかと今は考えますが、思い出す以前にあまり考えたことがなかった気がします。

 場所が昭和56年当時と変わっていないと思ったのは隣の学校の建物のことですが、ずっと「ろう学校」だと思っていたのが「石川県立盲学校」になっていることに気が付きました。「ろう」も漢字になっていたはずですが、変換候補に見当たりませんでした。

 「ろうあ者」でも変換候補が出ないですが、差別語として使われなくなっている可能性がありそうです。耳が聞こえず普通に喋れない子供の学校と聞いたのですが、それも鑑別所の中で初めて知ったことでした。

 その石川県立盲学校の隣に、石川県立金沢商業高等学校の建物がありますが、あまり聞いた憶えのない高校名で、校名に金沢とあるのに石川県立というのは、とてもめずらしく感じました。航空写真で見てもずいぶん新しそうな建物です。

 金沢少年鑑別所に入る広めの道路に209という番号があり、県道なのか聞いたことはないものの金沢市市道なのかと迷ったところ、芝原石引町線とあるのを調べたところ県道であることがわかりました。

 ずいぶんと様変わりしたものだと思うのですが、昭和56年当時は、車もほとんど通らないような道で、神社の参道で町外れの火葬場に向かう道のような鬱蒼とした印象がありました。

 近年、ネットで知った情報だと思いますが、この金沢市小立野は寺院も多いようです。また、金沢地方裁判所の前の兼六園下の交差点から上り坂になる高台でもあったのですが、小立野台地と呼ばれることも知りました。

 金沢で小立野といえば、金沢大学病院を思い浮かべる人が多いかと思いますが、これもネットで見かけた情報では住所が金沢市宝町となっていました。

 市内配達の仕事で電柱によく宝町という表示を見たと記憶にあるのですが、高台の下の方の方も宝町を見たように思っていました。Googleマップの範囲はすべて高台になっているようです。同じ高台の下で隣接していると思っていたのが天神町になります。

 小立野の高台から天神町に坂を降りて田井町に向かうというのは市内配達の基本的パターンでしたが、たまに出る配達先でコースを変えることもありました。この市内配達は昭和61年と平成3年にやっていますが、短い期間だったものの、他と比較して憶えていることが多い気がします。

 湯涌温泉の近くにあったのは江戸村ではなかったのかと思ったのですが、明治村の住所は愛知県犬山市とありました。古い建物が県外に移築されたという話は聞いたことがなかったので、てっきり金沢にある場所と思い込んでいました。

 明治時代の金沢監獄と思われる場所を調べたところ、前の金沢少年鑑別所の検索では気が付かなかった、金沢大学の鶴間キャンパスというのが出てきました。角間キャンパスというのは割合よく見かけるのですが、鶴間というのは地名としても記憶にありません。

 鶴間キャンパスの住所も金沢市小立野5丁目となっているので、鶴間というのは地名ではなさそうです。大学でなんとかキャンパスというのは、すべて地名という固定観念がありました。

 Googleで鶴間キャンパスを検索しても賃貸物件のような情報がほとんどで、他に医学部という情報ぐらいしか見当たらなかったのですが、よく考えると鶴間というのも江戸時代の旧地名になるのかもしれないと思えてきました。

  • 上り うっさか 下(お)り つるま ― 鶴間坂 <上> https://t.co/hMgeW5BWMi それまでの牛坂、人は親しみを込めて「うっさか」と呼んだこの坂が「つるま」となるのは瑞祥地名にこだわったからにほかならない。この坂の場合、どうして鶴間坂になったかという経緯から入らなければならない。
  • 上り うっさか 下(お)り つるま ― 鶴間坂 <上> https://t.co/hMgeW5BWMi 旭坂は旭町からきたものだろう。旭町の誕生は昭和11年(1936)。小立野台東端の裾に長く伸びた牛坂村は、降り注ぐ朝日を受けて(崎浦村を経て)旭町になった。

 牛坂という地名は、いえ人名を含めた言葉自体を見かけたことがないように思ったのですが、過去のツイートに牛坂八幡神社がありました。金沢市旭町とあります。

 たまにある配達先で小立野から旭町の方に降りることがあったのですが、決まって十全病院の前を通ったように思います。電柱にもよく十全病院というブリキの看板のようなものを見かけていたのですが、異様に思える古い建物の病院でした。

 十全病院のことは、その場を市内配達のトラックで通るときぐらいしか思い出すことがなく、人に話したことも話を聞いたり情報を見かけたこともなかったのですが、とにかく強烈な印象が残っている古い病院の建物でした。

 十全病院については前にも調べているのですが、田上のことは記憶にありませんでした。十全病院を調べたきっかけは、金沢市近郊における精神病治療の歴史を紐解くことにつながったのですが、拘束で死亡させたという損害賠償の裁判がきっかけでした。

 控訴審で裁判の結果がひっくり返ったように記憶にありますが、その後の報道というのは見ておらず、判決が確定しているのかも不明です。ときわ病院だったと思い出しましたが、卯辰山の麓の常盤町が始まりであったと憶えています。

 令和3年3月31日付告発状で書いたのか憶えていないですが、金沢刑務所の拘置所での生活では、2階の浴場の窓から遠くに見えるヨーロッパ調の三角屋根に見える建物がとても印象的で、ちょうどその方角に現在の十全病院の建物があるようです。

 一人用の小さい浴場の小さい窓から遠くに見える風景だったので、ほんとうに三角屋根の建物だったのか不明ですが、いずれ社会に戻って自由になったら現地に行って確かめてみたいと思いながら行くことはなかったのですが、仕事では何度かその辺りに行っています。

  • 五木寛之の金沢を歩く (1) (2) https://t.co/zHJbgbwzZd 左の写真が金沢での最初の住まい、金沢市小立野五丁目の「東山荘」です。2棟立っており、どちらかはわかりませんが、二階の一番奥の部屋に住んでいたようです。「…私は、その刑務所の真裏のアパートの一室で、
  • 五木寛之の金沢を歩く (1) (2) https://t.co/zHJbgbwzZd 配偶者である玲子さんの父親は岡良一氏(医学博士)で、昭和14年社会党で石川県議に初当選し、以後衆議院議員6期、金沢市長を2期務められた、金沢では有名な方です。もともとは十全病院の医院長だったようで、この東山荘の近くに病院があり

 五木寛之という人は名のしれた作家だと思いますが、石川県のローカル番組でも名前を見ることがあります、これまで何度か、なかにし礼と取り違えて勘違いしたことがあったのですが、有名な作家だと思っていたのが、名前の漢字を確認する検索で、作詞家だったことに気が付きました。

 作家でもあることを確認するために本をつけて調べたところ、「赤い月」という書名が出てきましたが、これは金沢刑務所の拘置所にいるとき、週刊誌の連載で何度か読んだような記憶があります。それもけっこう衝撃的な内容だったような気がします。満州が舞台だったような。

 1999年から2000年の連載というのは平成11年から平成12年になりますが、安藤健次郎さんの事件での二度目の金沢刑務所の拘置所での生活は、母親からの現金の差し入れも余りなかったように思うので、週刊誌を注文することも少なかったように思います。

 「戦前・戦中の旧満州を舞台に、一人の女性の生き方を描いた物語で、なかにしの実際の体験をもとにした自伝的小説である。」という部分があるぐらいで、内容についてほとんど記載がないのもWikipediaのページでは珍しく感じましたが、もともとミステリー性のようなものを感じていました。

 満州といえば、歴史的に深い関わりのがるのが731部隊と金沢大学ですが、戦後の石川県の医療界で活躍した人も721部隊の関係者が多かったという情報を読んでいます。令和3年3月31日付告発状の作成に取り掛かっている時期で、記述した部分もあるのかもしれません。

 私自身が、被告発人木梨松嗣弁護士と金沢大学の名誉教授で、個人的には石川県を代表する精神病医療という認識の松原病院の会長でもある山口成良金沢大学教授の人体実験にされたような事実関係もあるのですが、一ヶ月でしたがその精神鑑定で入院したのも金沢大学病院の精神科閉鎖病棟でした。

 100万部に迫るベストセラーというのもすごいと思いましたが、20年ほど前でもそれだけ満州に関心のある人がいたことにもなるのかもしれません。金沢刑務所の拘置所にいる頃、「大地の子」の本が読みたく映画もみたかったのですが、宇出津の図書館に貸出のDVDがあると、割と最近になって気が付きました。

 ページ内リンクを開くと、「この作品記事はあらすじの作成が望まれています。ご協力ください。(使い方)」とありました。私も告訴状の実質的意義と目的として、「さらば弁護士鉄道」と「弁護士泥棒神社の物語」を記録しているつもりです。

 この弁護士鉄道は、シベリア鉄道能登鉄道の他、南満州鉄道の歴史的な要素も多分に含んでいます。

 ちょっと忘れていたのですが、そういえば映画「長崎ぶらぶら節」も原作が、なかにし礼となっていました。拘置所ではないですが、金沢刑務所での受刑中に独居房のテレビで視聴した映画でした。

 もうずいぶん前から作詞家や作曲家で有名になる人の名前は見かけていないのですが、昭和の時代は、ときに曲を歌う歌手以上に注目され話題になったのも作詞家や作曲家だったと思います。コンピュータでの制作が進歩しすぎて、趣が薄れたということもありそうな気がします。

 本当は被告発人若杉幸平弁護士をメインに始めた項目なのですが、隣の建物の金沢地方検察庁からずっと離れた内容の記述を行い、いくらか接近したのが金沢市田井町になります。

 パソコンの時計に秒数が表示されていることに気がついたのですが、17時45分です。時計に目を向けたときが44分でしたが、それで図書館が閉館する時間が間近だということに気が付きました。昨日の今頃の時間も図書館にいたのですが、金沢市内の住宅地図に軽く目を通していました。

 被告発人木梨松嗣弁護士の金沢市大手町7−34のごく周辺の住宅地図だけ見たのですが、係の人に金沢市内の古い住宅地図は2017年ぐらいしかないと言われました。資料で古いものは倉庫にしまってあるらしく、北國新聞の縮小版も平成6年とかになるとお願いして倉庫から持ってきてもらっています。

 Googleマップストリートビューでは2012年の状況しか確認できなかったのですが、図書館にある金沢市の住宅地図なら被告発人若杉幸平弁護士の金沢市田井町の住所がただの住宅地のままなのか、金沢弁護士会のホームページにもあった若杉法律事務所の表示になっているのか確認できそうです。

 大病を患い弁護士としての活動を大幅に縮小したことで金沢地方検察庁の横にあった貸事務所を引き払ったという可能性もありそうですが、Googleにおける被告発人若杉幸平弁護士に関する情報は、異常と思えるほどの少なさ、乏しさで、専門の業者が依頼を受けて活動しているのかと勘ぐりたいぐらいです。

 繰り返しになりますが、平成11年の2月頃に被告発人大網健二を介して被告発人若杉幸平弁護士と会ったのが最初で最後になるのですが、かなり若く精力的に見えたという印象が残っています。ベテランで30代に見えたということはなかったですが、たぶん実際の年齢よりは若く見えているのだと思いました。

 令和3年3月31日付告発状には書いていないように思いますが、羽咋市に住んでいる頃、夜に金沢の東インターの近くのガソリンスタンドに入ったとき、暴力団対策のチラシのようなものに被告発人若杉幸平弁護士の名前を見たことがありました。平成16年から18年ぐらいの間であったように思います。

 Googleマップの表示を金沢市宝町のままにしていても、マウスの中ボタンのスクロールで少し拡大表示すると名前の表示が出てくるのが「越田商店」です。今までほとんど意識することのなかった建物というか店の名前ですが、この表示の建物に2階にあったのが若杉法律事務所だったと思います。

 さきほどストリートビューで拡大した表示をすると、ただのタイル張りではなさそうに見えた建物の外壁ですが、金沢地方検察庁の建物とも似たような模様と色になります。レンガのような色と模様になります。

 レンガで割と思い出すのが、731部隊の本で有名な「悪魔の飽食」ですが、なかの古い資料のような写真に、崩れたレンガのような建物があったと記憶しています。前回、731部隊について調べたときは、資料が偽物であると指摘され、手直しで編集し直したものが再出版になったような情報がありました。

 先程から少し思い出したように思いながら、まだ確認をしていないのですが、昨年2020年12月の10日過ぎ、テレビで石川四高の記念公園を見たことがきっかけで、他と同時進行的に731部隊について調べたような気がします。やたらと詳しい関係者の資料がでてきました。

 時刻は18時24分です。今日は珍しく起きた時間が朝の10時頃で、少ししてから昨日、どんたく宇出津店で買ってきたパンを2つ食べたのですが、一つは手作り感のある焼きそばパンで、もう一つがランチパックのようなシリーズのミートソースだったのですが、すごくお腹がいっぱいになりました。

 たいした量ではなかったのですが、不思議なほどお腹がいっぱいで、少し苦しくなり、昼は何も食べずに過ぎています。早めの夕食を考えていたのですが、今もあまり食べたいとは思いません。

 過去のツイートでも見かけていたことを思い出したのですが、被告発人若杉幸平弁護士の法律事務所があったと思われる建物の住所が金沢市丸の内となっていました。裁判所と同じ丸の内という住所ですが、裁判所以外の建物というのは数が少なそうです。

 実際にGoogleマップで丸の内を検索すると、金沢城公園がすっぽり中に入ったのですが、黒門前緑地とかある近江町市場の近くの一角も、住所が丸の内になるというのは意外でした。それと金沢城公園の敷地が、尾山神社と隣接し、背中合わせのようになっているのも意外な発見でした。

 尾山神社は、前を歩いて通ったような記憶しかないのですが、石川県では有名な前田家ゆかりの神社で観光のスポットにもなっているようです。前を歩いて通っても中に入ろうと考えたことはなかったのですが、周辺の町並みにも特徴があったと思います。

 越田商店のストリートビューを確認すると撮影日が2019年7月となっていました。過剰と思わるほど隙間のないカーテンがしまり、一階の店が営業を続けているとは思えないのですが、アルミサッシのガラス窓に「たばこ」と大きなシールが赤字で貼ってある様子です。

 もともと何を売っている店なのか気になることがあったのですが、金沢中央卸売市場の中にある高瀬商店と似たような品揃えのある店なのかもしれないと考えたことはありました。

 高瀬商店は間口が狭く、奥行きはそこそこあった小さな店でしたが、揚げ物の惣菜とかおにぎりとか手軽に食べられるものが揃えてあり、カップ麺にお湯を入れてくれたようにも思います。大人の駄菓子屋のような雰囲気もあったのですが、奥の方には週刊誌の漫画本も揃えてあったような記憶があります。

 近くの検察庁や裁判所の職員が、カップ麺にお湯を入れてもらって食べるとは、想像もできなかったですが、その場所に適したニーズで便利屋にも近いような雑多なものを売っていそうな店という印象がありました。

 建物が3階建てになっていることも昨日辺りに同じGoogleマップストリートビューで気がついたのですが、被告発人若杉幸平弁護士と話をしたのは、かなり雑然とした印象も受けた正面の窓のある部屋でした。

 奥の方が訪問者の待合室のようにもなっていたのですが、右手に机ではなくラックで組んだようなパソコンの前に座り、タイピングを続ける女性の姿があり、それも印象的でした。タイピングの技術も目をみはるようなものがあったと思うのですが、集中力を含めたその場の雰囲気が異質な世界に映りました。

 ずっと前には、東電OL殺害事件の被害者の顔写真に、どこか似ている感じの女性だったという表現で記述をしたという記憶もあるのですが、卓越した事務作業の能力ともに、ミステリー性を感じるところが強く、それが謎の多いとされた事件との共通項になっていたとも思います。

 たぶん貸事務所だったのだと思いますが、2階にある被告発人若杉幸平弁護士の法律事務所は、個性的なこだわり感の強い、喫茶店や小さなレストランのような雰囲気も感じられました。実際に、そのような店に入ったような体験もあったので、それと重なって見えたのだと思います。

 本件告発事件の一つの鍵を握るのが、この被告発人若杉幸平弁護士で、まるで古本屋にあるミステリー小説の世界のようですが、雑然と置かれた書類のようなものも、古本屋に置かれた資料のように見えたのだと思います。部屋の中がかなり薄暗く感じられたのも印象的でした。

 事務員のような女性がパソコンの前に座る部屋は対照的に明るかったのですが、少なくとも女性事務員がいた部屋の左手と奥は、一面がガラス窓でカーテンなど最初からなかったような気がするぐらいです。陽光の差し込みぐらいでへ眩しさで仕事に支障もありそうですが、何かと印象深い法律事務所でした。

 今改めて考えると、女性事務員は被告発人若杉幸平弁護士の妻だった可能性も一応ありそうですが、法律事務所内に人は被告発人若杉幸平弁護士とその女性の2人だけではなかったと思います。

 被告発人若杉幸平弁護士の法律事務所に男性がいたという記憶はないのですが、他に女性事務員がいたとしても他に印象に強すぎることがあり、記憶に残らなかったのかもしれません。他に弁護士らしい人の姿を見たという記憶もありません。けっこうワンマンにも思える雰囲気が感じられました。

 Googleマップで上空からの写真を見ると、さほど奥行きのない建物で、やはり部屋は2つだけだったのかと思ったのですが、撮影された写真が歪んでいるのかとも思うのですが、隣の金沢地方検察庁の建物と比較すると、建物の横幅が5分の2には相当しそうなスペースです。

 たまたまなんでしょうが金沢地方検察庁の建物は真下に裏側の駐車場があり、大きなガラスで2部屋分に相当するスペースの長さが駐車場の白線で乗用車5台半分に相当するとわかります。越田商店の建物の長さと同じぐらいに見えます。

 今まで考えたことがなかったのですが、駐車場での一台分の幅の長さを調べると2.5メートルという情報がありました。5台半だと13.7メートルほどになりそうです。

 Googleマップで上空から見ると、建物の一辺の長さが金沢地方検察庁の建物と変わらないように思えた金沢弁護士会の建物ですが、余り拡大しない状態だと建物に「法テラス石川」とだけ表示されているのですが、かなり拡大すると金沢弁護士会という表示が一緒になりました。

 横並びで見ると金沢地方検察庁の建物と重なる部分があるのですが、私の拙い記憶では、今の金沢弁護士会の建物の辺りに金沢家庭裁判所の建物があり、金沢地方裁判所の建物との間に、平屋のお堂のような金沢弁護士会の古い建物があったような記憶です。

 その金沢弁護士会の古い建物は、日本で最後に陪審員裁判が開かれた法廷としてネットのニュースになっていました。もう10年ほど前になると思いますが、それでも2009年3月15日に羽咋市から戻った後に、見たニュースであったように思います。

 内容は同じかと思いますが、ページのデザインが記憶とは全く違い、やたらと白地のスペースが多い珍しい記事です。記事の日付が2008年12月27日となっていますが、私が検索で見つけたのはだいぶん後日であったとも考えられます。それでも2010年4月にTwitterを始める前かもしれません。

 久しぶりに見た前の金沢弁護士会の建物の写真は、思っていたよりずいぶん小さく見えたのですが、屋根が瓦に見えるものの外壁がモルタルなのか、それともコンクリート造りの建物に瓦屋根を乗せているだけなのか微妙に思える写真です。

 今回は、いっそう、火葬場にある礼拝所のようなお堂の建物に思えてきました。中に入ったのは1回だけでしたが、窓口で話をして、そこから行った先が、なんとか美智子弁護士の法律事務所でした。ときどき思い出していたのですが、上の名前が思い出せなくなっています。

 Googleで「金沢弁護士会 美智子」という検索を実行する直前に思い出し、検索で確認した形になるのですが、畠山美智子弁護士でした。畠山というのは能登羽咋市の辺りで由緒のある名前と聞いたこともあるのですが、室町時代か戦国時代の守護大名の名前になっていたと思います。

 個人的な感覚になりますが、羽咋市能登というイメージがあまりなく、金沢市にも近いですが河北郡かほく市と同じグループというイメージがあります。実際は、羽咋市より金沢市に近い羽咋郡宝達志水町から能登地方になるという話です。

 奥能登では畠山という名前を1つの例外を除いて聞いた覚えがないのですが、その1つの例外というのも婿養子に行ったという話でした。けっこう本件告発事件とも接点があり、参考になる人物と思うのですが、プライバシーの問題もあり、ここでは深入りしません。書面の記録にはあるはずです。

 昨日Googleマップをみていて思ったのですが、金沢市大手町というのは、思っていた以上にずいぶん広い範囲になっていました。全国的にも大手町という地名は、官庁街のようなイメージがあるのですが、住宅地の住所もかなり大手町となっていそうな感じでした。

 そのままテレビのドラマに出てきそうなおばさん弁護士という印象のあった畠山美智子弁護士でしたが、完全に私を軽くあしらったようなその場しのぎの対応が際立っていました。かんたんに言えば、どうでもいいから帰ってくれ、という感じでしたが、事務員の姿はなく二人っきりだったような記憶です。

 割と広い部屋でしたが、住所が大手町となっていたような記憶もあるものの、市内配達の仕事でけっこう行ったことのある近江町市場の近くという感じでした。近江町市場も北陸新幹線の開通で、知名度が全国的になったという感じですが、仕事で行っていた頃は、余り特別な場所という気はしませんでした。

 近江町市場で買い物をしたという記憶はなく、唯一が平成3年の11月頃、被告発人安田敏と二人で入った店で回転寿司だったような気がします。個人的には、少し離れた場所にある横安江町のアーケード街の方が印象に残っています。

 詳しいことはしりませんが、金沢駅の方に向かって歩いているときに、東別院、西別院という大きなお寺を見たという体験もあるので、もともとは寺院の参道として発展した歴史もあるのかもしれないと考えた横安江町のアーケード街ですが、映画「不敵にわらう男」のロケ地にもなっていました。

  • 拳銃無頼帖 不敵に笑う男 | 映画 | 日活 https://t.co/uCgbqXSGvr 製作年:1960公開年月日:1960/8/6

 「笑う」という漢字は「嗤う」なのかもしれないと思ったのですが、製作年が昭和35年で、公開が同年8月6日となっています。

 金沢の横安江町アーケード街の女性専門の洋服店から、近くでお祭りをやっているというようなセリフから、いきなり宇出津のあばれ祭りが出てくるのですが、7月の7日8日と決まっていた時代と思います。

 その間に、香林坊で太鼓を叩く場面があったような気もするのですが、吉永小百合の恋人役が靴磨きをする場面も香林坊となっていながら、横安江町とは違い、まったく記憶にない香林坊の風景でした。香林坊というよりは竪町に近いような風景に思えました。

 「拳銃無頼帖 不敵に笑う男」は、令和3年3月31日付告発状の郵送の後、Amazonプライムビデオで視聴したのですが、部分的には以前にYouTubeでも動画をみていました。映画の筋に全く関わりがなく、宇出津のあばれ祭りと小木港のとも旗祭りが出てきたことは、全部を視聴したことで理解ができました。

 「拳銃無頼帖 不敵に笑う男」は、令和3年3月31日付告発状の郵送の後、Amazonプライムビデオで視聴したのですが、部分的には以前にYouTubeでも動画をみていました。映画の筋に全く関わりがなく、宇出津のあばれ祭りと小木港のとも旗祭りが出てきたことは、全部を視聴したことで理解ができました。

 前にもGoogleの検索結果で一度は見たことのあるページだと思ったのですが、ロケ地の説明文に「金沢刑務所(=本編冒頭タイトルバック。「北陸刑務所」という設定)」とあることに気が付きました。県外の刑務所の建物と思っていたのですが、小立野5丁目にあったという金沢監獄なのかもしれません。

 はっきりした記憶はないのですが、Amazonプライムに会員登録したのが4月の10日すぎで、「拳銃無頼帖 不敵に笑う男」を視聴したのは4月14日辺りになるかと思います。視聴期間の目安がまだわかっていないのですが、今も視聴できることを確認しました。

 ただの昔のどこかの刑務所の建物と思っていたのが、金沢刑務所の昔の建物だと知って一気に注目度も高まったのですが、刑務所の塀や外壁の殆どがレンガ造りになっていたことに気が付きました。どことなく海に近いような場所だと思っていたのですが、松の木で防風林をイメージしていたようです。

 北陸刑務所を出所した次の場面が海岸線を走る機関車の映像でトンネルの上の山に白い灯台が見えますが、これもどこか県外のロケ地と思っていたものが、県外には違いないですが能登半島になる富山県の雨晴海岸に思えてきました。

 昨年になるのか一昨年になるのか思い出せないですが、7月か8月に雨晴海岸に行ったとき、線路と電車を見ていたのですが、どこまで行く電車なのかと考えながら、七尾駅に富山方面への乗り換えはなく、鉄道もつながっていないはずだと漠然と考えていました。

 雨晴海岸が高岡市になることを確認しましたが、電車の線路は氷見駅が終着駅と始発駅になっているようです。3ヶ月ほど前になるのかTwitterのトレンドでも雨晴海岸が能登半島になるのかと話題になっていました。

 距離的に近いだけあって雨晴海岸の写真は立山連峰の冠雪がくっきりきれいに見えていますが、一昨日の5月31日月曜日に、蛸島港に行ったとき、一部でしたが立山連峰の冠雪が見えて、珠洲市内から立山連峰を見たのは初めてのように思いました。

 ネットの写真では高性能のカメラで撮影したと思える珠洲市内から富山県内の夜景が見える写真も数年前に見たことがあり、珠洲市の方が富山湾にせり出す地形となっているので、対岸との距離も短く近くに見えやすのかと考えていたのですが、珠洲市内から立山連峰のことは考えたこともなかったのです。

 Twitterでは富山市内からの立山連峰の景色もトレンドで見かけたことが2,3回あるのですが、長距離トラックの仕事で富山県内を走行することは多かったのですが、遠くの山の方に目を向けることはなかったのか、立山連峰を見たという記憶は全く残っていません。

 宇出津からも立山連峰が見えることは多いですが、空気が澄んだ寒い季節にきれいに見えることが多いとは聞いていました。平成3年の11月頃から平成4年の3月は、七尾市から国道160号線の海岸線をよく通行していたのですが、より身近に見えたはずの立山連峰を見たという記憶が、これも全く残っていません。

 ただ、その国道160号線の海岸線を走りながらこの海の向こうにはシベリアがあって、太田裕美の歌にあるシベリア鉄道があってヨーロッパにつながっているのかと思いを馳せることはあったと記憶に残っています。

 時刻は21時33分です。冷蔵庫に日曜日の昼辺りにすりおろしお酢をまぜていた山芋を見つけたのですが、変色などしておらずそのまま食べられそうです。2回ぐらい食べようと思いながら忘れていたのですが、さすがに口にするのはリスクがあると思い捨てるつもりです。

 すりおろした山芋は昼にすったものを夜に食べたことはあったと思いますが、一日置いたものを食べたことはなかったと思います。大きくなく変色していないものをみつかけると買ってくることのある山芋ですが、お好み焼きに入れることが多い食材です。

 お好み焼きを作るのも2ヶ月に1回ぐらいのペースだと思いますが、安く仕上がる反面、食べ過ぎたり、洗い物に時間がかかるという難点があって、これまで敬遠しがちでもありました。

 雨晴海岸へは、朝に宇出津から出発した車に乗せてもらって金沢市内から向かったのですが、途中で小矢部市のアウトレットとかいう大きな店に立ち寄り、七尾市に向かったときは自動車専用道路でしたが、その前に国道160号線沿いの氷見警察署を助手席から眺めていました。かなり古い建物でした。

 弁護士鉄道の歴史には記念碑のような冤罪事件がその富山県氷見市であり、強姦事件として福井刑務所で服役したあとでの冤罪発覚だったと思いますが、弁護士らが横から手柄を横取りしたようなかたちで、確か鳥取県警で連続強姦事件の被疑者が自供したことでの発覚が端緒にあったと憶えています。

 その富山氷見強姦冤罪事件は、まるで弁護士一座の地方巡業講演で、チンドン屋のラッパ吹きが集まって曲芸をしているように思える弁護士鉄道の歴史的一幕がありました。

 現在の私の記憶のままで書くとまだ10年は経っていないように思うのですが、その富山氷見強姦冤罪事件が発覚し、テレビでニュースになっていた時期は、2年か3年ほど続けて、NHKの20時45分から始まるニュース石川845という番組だったようにも思いますが、富山市のチンドンコンクールをみていました。

  • 〈〈〈 2021/06/02 21:59:03 Linux Emacs: 〈〈〈