#告発状 #### 平成4年の傷害・準強姦被告事件で国選弁護人だった被告発人岡田進弁護士の接見

  • 〉〉〉 Linux Emacs: 2021/05/04 09:58:51 〉〉〉

:CATEGORIES: @kanazawabengosi #金沢弁護士会 @JFBAsns 日本弁護士連合会(日弁連) #法務省 @MOJ_HOUMU #被告発人岡田進弁護士

 3日ほど前になりますが,ずっと前に綴りから外れていた1枚の書面に,第2回公判が6月29日とありました。私はずっと6月30日だと思い込みそのように記述してきたように思います。第2回公判とありましたが,これが結審で,審理の終わりに判決公判が8月3日と指定されました。

 初公判を6月18日と記憶しているのですが,本来の初公判の期日は5月28日で,後になって理解をしたのですが,準強姦で追起訴され併合審理となったため,また,川口泰司裁判官の単独審理だったのが,三宅俊一郎裁判長,山田徹裁判官の合議制となったための期日の取り消しでした。

 よく憶えているのは,本来予定されていた初公判の5月28日に,金沢西警察署から金沢刑務所の拘置所に移送されたことです。私の記憶というか残った感覚では移送された翌々日になるのですが,被告発人岡田進弁護士の接見がありました。事前の連絡もなくいきなりで,もちろん初対面です。

 Linuxの環境ではcalというコマンドがあるのですが,「cal 5 1992」と実行するといくぶんアスキーアートに似た整形されたテキストで平成4年5月のカレンダーが表示されます。それによると5月28日は木曜日となっています。

 大都市では刑務所と拘置所が別になっているようですが,地方都市では刑務所の敷地の中に拘置舎があって,巡回する刑務官なども同じです。食事も同じですが,違うのは起床時間ぐらいで2,30分,受刑者の起床時間が早くなっていました。

 土日祭日が免業日と呼ばれ,休日になりますが,刑務官の数も少なく,面会や接見もなく信書と呼ばれた手紙の受発信もありませんでした。5月28日が木曜日ということは,翌日が29日の金曜日ですが,その次の月曜日が6月1日になります。

 被告発人岡田進弁護士の接見があったのは,この5月29日か6月1日のいずれかになるはずですが,拘置所に来た翌日に接見をしたという記憶はなく,また,月が変わって6月に入ってから接見があったという記憶もありません。

 また,よく憶えていることですが,拘置所に来た当日は,私服ではなく映画やドラマでみたような灰色の受刑者の服を与えられていました。検査のためという話であったように思います。翌日の午後には私服が入っていたかもしれないですが,受刑者の服で接見をしたことはないはずです。

 被告発人岡田進弁護士の接見の内容ですが,短い時間の簡単なものでした。今も一通りは記憶しているつもりですが,過去の記述の方が詳しく正確だと思います。これからまとめたものをブログ記事として投稿します。令和3年3月31日付告発状でも使った2つのコマンドになります。

 同じ10時37分ですが,実行したコマンドはhatena-log-search-post が先になります。タイトルに該当件数がないですが,これも早めにスクリプトの修正をしておきたいところです。

20070403:[link]  印象に残ったのは、わずかな接見しかしていない、岡田進弁護士から、16歳の頃に一月ほど仕事をした防水工事屋のことでした。被告訴人のO兄弟のおじさんの会社でしたが、その時は、身元引受人のことで、出た話しかと考えました。接見の時は、そんな話しなど全くなかったので、質問の意図も測りかねたのです。

20061030:[link]  拘置所に移ってから3,4日後ぐらいに国選弁護人になった岡田進弁護士が接見に来たのですが、事前の連絡などなく、まったく初めての出会いでした。また、私の方からも連絡などしておらず、このあたりも普通の被告人とは異なるという不可解な印象を与えていたのかもしれません。

20060924:[link]  以前にも書いたことがあると思いますが、とにかくこの岡田進弁護士は、あきれ果てるほど全くの役立たずでした。「後悔、反省するぐらいなら、初めからするな」と突き放し、それっきり連絡も何もないまま、公判に望んだのです。罪状の認否などという刑事裁判の手続きに関する説明も一切ありませんでした。とにかく、ただでさえ、打ち拉がれているところに追い打ちをかけられたようなもので、一審は、気がついた頃には終わっていたような感じでした。

20060924:[link]  尋常ではなかったのは、むしろ国選弁護人になった岡田進弁護士でした。一度だけ、金沢刑務所の拘置所に面会に来たのですが、理知的に見えながら、異常に興奮しているというか、全身で緊迫感を発奮させているようにも見えました。

20051218:[link]  これは夜に掛けた電話でしたが、同じ頃、岡田進、長谷川紘之、木梨松嗣の弁護士事務所にも電話を掛けましたが、いずれも弁護士本人は不在だといわれました。長谷川弁護士だったと思いますが、会話のなかでご本人かもしれないという印象を受けました。私のことを知っているといい、詰るようなことを言っていたからです。

 はてなブログの検索では岡田進の該当が全部で24件となっています。数が少ないですが,内容も思った以上に乏しいものでした。被告発人大網健二のおじさんのことが記述されていましたが,これはすっかり忘れていました。平成19年4月3日の記事のようです。

 令和3年3月31日付告発状では,蛸島町の火葬場のことで少し触れていると思いますが,コーキングの防水工事で大網武久商会でした。昭和56年の10月頃,長くて一月ほど仕事をしたと思うのですが,給料は払えないと言われ,その場でやめました。

py37_env ❯ twilog-serch 火葬場|grep 蛸島
  • ./kk_hirono2021-05-04_103621.csv:2021-01-11 22:50:16 "蛸島の火葬場と思っていたのですが,これは珠洲市全体での火葬場になるのかもしれません。なお,宇出津の場合は,平体にあった火葬場が,現在の能登三郷に移転しています。 " https://twitter.com/kk_hirono/status/1348628293717614592
  • ./kk_hirono2021-05-04_103621.csv:2021-01-11 22:46:08 "記憶にあるのと同じ辺りなのですが,昭和56年の秋,給料はもらえなかった被告発人大網健二のおじさんのコーキング屋の仕事で,蛸島の火葬場と聞くところに行き,屋上でコーキングの仕事をしたことをよく憶えています。 " https://twitter.com/kk_hirono/status/1348627256042684417

 被告発人大網健二兄弟のおじさんですが,3週間ほど前,年配の人との会話に名前が出て,金沢市内のある場所に住んでいると聞きました。数年前に聞いたときは内灘か粟崎だったようにも思うのですが,金沢市内のやや中心部でよく知る地名でした。

 被告発人大網健二兄弟の祖父の弟と聞いていたように思いますが,その祖父は昭和60年代に亡くなったと思いますし,75歳ぐらいと聞いていたような記憶もかすかですが残っています。

 宇出津の下岩屋に3階建てのビルがあって,そこが被告発人大網健二兄弟のおじさんの会社と家だったのですが,建物は現在もそのまま残っており,人が住んでいる様子です。ちょうど3日ほど前の夕方遅い時間になりますが,前を歩いて通った時,2階から薄灯りが漏れているように見えました。

 ちょうどその付近の写真です。まだ外が薄明るい時間に傘を持って歩いて出掛けていました。Aコープ能都店で買い物をした帰りですが,いやさか道路と聞いたような新しい道路が昨年あたりに開通し,それからは余り通ることがなくなっていた下岩屋の町並みで,気まぐれでスマホで撮影しました。

 この下岩屋には4人ほど男子の同級生がいて,被告発人大網健二の家で一緒に遊ぶこともありました。被告発人大網健二の家には2階に当時珍しかったユニットバスがあり,その中で撮影をした同級生の写真も残っていたと思います。他に写真もないのに珍しい写真でした。

 被告発人大網健二の家のユニットバスは,たぶんですが,ガス器具販売をしていた展示品に近かったのかもしれません。プロパンガスの配達もしていましたが,大通りに面した方がガス器具の店で,家の裏側が自動車工場になっていました。

 そういえばと写真を見て思い出したのですが,コンセールのとはバスの待合所にもなっているのですが,高速バスのようなものは初めて見たように思いました。

 たまたまよく高速バスを見かけたのは,前の能登町庁舎の横にある浜小路のバス停で,16時台であったように思います。

 よくよく考えてみると,浜小路にあるバス停は金沢方面だけのバス停で,道路の向かいが駐車場のある公衆トイレになるのですが,そちらにバスが停車しているのは見たことがなく,停留所にもなっていなかったと思います。

 コンセールのとを出たバスを撮影したのは18時51分で,19時30分に閉店となるAコープ能都店にはよく買い物に行く時間帯なのですが,高速バスを見かけたような記憶はなく,とても珍しいと思いながら,銀河鉄道999に出ているターミナル駅のようにも思えました。

 昭和50年代は国鉄の宇出津駅があった場所になります。宇出津駅のことは記憶にしかないのですが,ネットでは当時の写真を見かけることはあります。それでも数は少なく,昭和50年代のものはみていないかもしれません。

 取り壊し前にデジカメで撮影した写真もあったと思うのですが,廃線となり数年の間に駅のホームはボロボロとなっていました。そこでAコープ能都店で買ってきた弁当を食べたような記憶もあるのですが,ずいぶん風の通る場所だと思ったことも憶えています。

 写真を見返すと,やはり高速バスに違いはないと思いますが,見かけたときは,今から金沢に向かうものと思っていました。よく考えると金沢から来て珠洲に向かう高速バスであった可能性が高そうです。

 この高速バスは2回ほど利用した憶えがあるのですが,2009年3月に宇出津に戻ってからは乗っていないと思います。高速バスは金沢に向かっただけで,高速バスで宇出津に戻ったということはなかったと思います。

 1つだけはっきりしているのは,平成14年9月のことです。これも一週間ほど前に理解に苦しむほど意外な発見があって取り上げる予定にしていたのですが,被告発人大網健二にあずかってもらい,車検を受けて取りに向かったホンダトゥデイの軽四のことです。

 先に少しだけご紹介をしておくと,伊東一廣裁判長の再審請求棄却の決定書が見つかったのですが,驚いたことに平成14年(た)1号となっていたのです。記憶にあるのは平成15年(た)1号で,現物が見つからないのですが,撮影された写真の一部で確認はしています。

  • 〈〈〈 2021/05/04 12:36:27 Linux Emacs: 〈〈〈