#告発の事実・補充書準備編 #告発状202103 ### 被害者安藤文さんの兄のこと,鬼滅の刃の兄妹と重なり「鬼滅の刃と,弁護士列車編」を作成開始,ベースのテーマは「泥棒神社の物語」

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 最初の記録が昨年2020年11月14日で,Coogleのマインドマップスクリーンショットの画像ファイルでした。

 うの字のツイートは,深澤諭史弁護士のタイムラインで深澤諭史弁護士のリツイートを見たものです。弁護士鉄道記念のタイムスタンプようなスクリーンショットも作成しています。

2013-09-08 12:20:07 "@hideo_ogura 毎度のことですが小倉秀夫弁護士の理屈をみていると、弁護士というのは因縁を売りにする「泥棒神社」なのかと思えてきます。 " https://twitter.com/hirono_hideki/status/376545456098390016

2015-02-13 14:24:02 "太田裕美 さらばシベリア鉄道 - YouTube http://ow.ly/IZ0Nd この巨躯を聴いていると「さらば弁護士鉄道」という言葉が頭に浮かんできました。このテーマで行きたいと思います。よろしくです。 " https://twitter.com/hirono_hideki/status/566105495648620544

2019-10-02 09:18:17 "RT @sonoma_59: 無限列車編・映画化ってこういうことだろ ※謎時空 ※単行本ネタバレ絵注意 ※キャラ崩壊注意 ※捏造しかない ※本イラストには強めの幻覚がかかっております http://pic.twitter.com/9h9KgQtDGB " https://twitter.com/hirono_hideki/status/1179188819091849228

 鬼滅の刃は少ししか視聴しておらず,正月に無料視聴のサービスがあって14話の途中ぐらいまで観たように思います。契約している業者から何ヶ月か無料視聴できる配信サービスの案内が来て,それで鬼滅の刃が全作視聴できるとも聞いたのですが,申込みをしませんでした。

 申込書の封筒が来て開かずにいたら,業者から再び電話があって,申込みをしていないと答えると,申込みの期間が終わったように言われました。「鬼滅の刃 無限列車編」は,時間に余裕ができたら決済の出来る有料サービスで視聴をしたいと思っています。「長崎ぶらぶら節」も。

 「長崎ぶらぶら節」は途中で消灯時間になったので,川沿いの町中の場面までしか観ていないのです。放送時間の開始が,20分ぐらい遅れていたので,20分程前の強制終了となりました。偶然とは考えられないですが,それだけ強いメッセージ性が金沢刑務所にあったとも考えられます。

 被害者安藤文さんの兄ですが,平成4年4月1日の事件前,電話の応対に出たことが2回ありました。2回とも被害者安藤文さんが不在だと言っていましたが,対応を受けたときの印象がかなり違っていました。

 実際に会ったのは,たぶんそうですが,平成4年の秋,控訴審の公判で,裁判長が変わったのと時間帯が異なることから,2回目の公判になると思うのですが,2回目だとすると被告発人小島裕史裁判長を始めてみたときで,これも初公判と同じく夕方に近い時間帯だったと思うのです。

 傍聴席に安藤健次郎さんと二人,一緒にいたのですが,これは午前中の後半か昼過ぎの公判で明るい時間帯でした。私が退廷する時に,傍聴席で,その被害者安藤文さんの兄が暴れだしたのです。安藤健次郎さんの方は落ち着いた様子で,静止で掴みかかったようにも一瞬見えました。

 私はすぐに刑務官に引っ張られ,法廷の外の通路に出て,最初は駆け足になったとも記憶にあります。広い廊下のような通路でした。

 安藤健次郎さんは,その後も何度か,法廷の傍聴席に姿を見せていましたが,判決前の最後の審理の公判では,被害者安藤文さんの母親と一緒にいて,傍聴席の一番奥く,出入り口に一番近い席に,母親がいて,隣に被害者安藤文さんが座っていたように思います。

 最後となった控訴審の審理の公判では,山口成良金沢大学教授の宣誓と証言がありました。被告発人木梨松嗣弁護士が,公判が始まる直前の頃に,白衣を着た医師のような人物を同伴して,慌ただしく席につき,被告発人小島裕史裁判長に心のこもった何か一声を掛けられていました。

 金沢地方裁判所の一審の公判は,初公判が平成4年6月18日,次の6月30日の公判で結審し,三宅俊一郎裁判長が被告発人岡田進弁護士に声を掛けて確認した後,8月3日に判決公判を指定すると宣言していました。

 この金沢地方裁判所の一審の公判に安藤健次郎さんの姿は一度もなかったのですが,被害者安藤文さんの親友と思われる同年齢の女性が,立ったまま私に厳しい視線を向けていて,それが諸江のKNさんの可能性が高いと考えています。供述調書もあった被害者安藤文さんの友人です。

 被告発人小島裕史裁判長の控訴審は,拘置所にいる時に判決公判の期日を平成5年9月7日に指定するという紙が届きました。いきなり来たことと,説明を求めて木梨松嗣弁護士に手紙や電報を何度送っても,一切,対応がなかったことは既述していると思います。

 被害者安藤文さんの家族構成や兄の仕事先も,安藤健次郎さんの供述調書か妻で被害者安藤文さんの母親の安藤紀世さんの供述調書に記載がありました。被告発人多田敏明に吹き込まれていた弁護士という安藤健次郎さんの職業も金沢信用金庫の社員だったと記載がありました。

 銀行員ということは谷内孝志警部補から取調べの時に聞いていましたが,定年退職してすぐにこの事件になったとも聞きました。定年の延長のような話も聞かない時代だったので,55歳だったのではと考えられます。

 安藤健次郎さんの年齢を計算してみると,平成4年が1992年,昭和11年が1936年で,引くと56年になりますが,誕生日が12月なのでやはり平成4年4月当時55歳だったことになります。

 昭和39年11月生まれの私は,今年11月で57歳になります。一昨年といえば2019年,平成31年から令和元年になった年ですが,4月1日は金沢にいて,令和の新年号が決まったと知りました。同じ55歳の4月1日に,被害者安藤文さんは一人娘が意識不明で県立中央病院に運ばれたと知らせを受けたはずです。

 平成4年4月,私は27歳でしたが,自分が50歳になるとは想像したことがなかったと思います。ただ,自分の父親が50歳ぐらいで亡くなったとは聞いていたので,気になる年齢ではありました。

 今も体力の衰えのようなものは感じることがありますが,そんなに変わってはいないと思うところもあって,平成4年当時の安藤健次郎さんより2つ年上になっていたことに思いを馳せる一方,その安藤健次郎さんが今年の12月で85歳となり,健在なのかすらわかりようのない現実があります。

 それにしても昨夜,数年ぶりに読んだ山口治夫弁護士の手紙は,私のことをよほどおかしい人間と思い込む異常さがあって,これが弁護士脳なのかとそのことをしみじみと感じました。見ている事実が表面的でごくわずか,それより全く見つめようともしないで,「鋭意記録を精査して」とか。

 そもそも被告人本人に一切内容が伝わらない記録とやらを精査するというのが弁護士頭の構造なのだと理解しました。安藤健次郎さんがどのような供述をしていたのか不明ですが,平成4年の傷害・準強姦被告事件の供述調書や告訴状は読んでいます。抽象的で簡単な内容でした。

 そもそも事実をしらないのですから感情的なことぐらいしか供述できないのも当然かと思いますが,ところが本件告発事件では,安藤健次郎さんや妻で被害者安藤文さんの母親の安藤紀世さんも,本来特別な事実を経験しているのです。

 被害者安藤文さんの兄ですが,平成11年のいつ頃だったのか思い出せないですが,一度,私が掛けた電話に出たことがあり,私が喧嘩腰に挑発するように,「今から出てこい。勝負してやる。」などと言ったところ,思い余った感じで電話を切られたことがありました。

 たぶん平成11年の7月には入っていたと思います。そもそも私が被害者安藤文さんの自宅に電話をするようになったのは,安藤健次郎さんが今度会って話をする。日時と場所を連絡すると言いながら,それまで電話をしていた西鐵鋼所に電話をすると,会社を辞めたと言われたのです。

 その平成11年の6月に入った頃ではと思いますが,私にPHSの電話番号を教え,そちらに掛けてくるように言われました。よく覚えているのは山中温泉の山奥の現場からの帰りで,勅使町という変わった地名の場所でした。電話の後に通った場所という可能性もありますが,印象的でした。

 前にも調べていますが,小松市なのかと思っていたのが加賀市でした。山中温泉からの帰り道だと山代温泉のひとつ先という感じでした。山代温泉の現場は,けっこう長く短くても半月ぐらいは通ったように思います。毎回同じ道を走っていたはずですが,その時だけ勅使町が印象的でした。

 勅使というのはテレビの時代劇で聞いた言葉でしたが,朝廷の使者という意味ではないかと思っていました。辞書で調べたことはなかったですが,そんなイメージがあり,それが思いもよらぬ安藤健次郎さんからPHSですが電話番号を知らされたことに,重なるところがあったのだと思います。

 「hatena-log-search 勅使」の結果がないのも意外です。山中温泉の現場からの帰りで,勅使町の先が粟津温泉で,そこから国道8号線に出たのだと思います。現在の国道8号線とは違った道路で,粟津温泉ソープランドの大きな看板の少し先までが,片側2車線でした。

 加賀市から金沢市に向かうとその当時の国道8号線の右手に小松警察署がありました。その前後の左手に「くるまやラーメン」の店舗があって,平成4年3月31日の夜,食事をして,その駐車場で眠ろうとしたのですが,ずっと寝付けず,夜中に荷降ろしをする近くまで移動しました。

 荷物は愛知県小牧市アサヒビールの大きな工場から積んだ荷物でアサヒスーパードライの缶ビールであったように思います。卸先は,北陸になるのか,それとも小松になるのかわかりやすい名前に酒販をつけた会社であったと思います。予定通り,朝一番に荷降ろしをしました。

 いくらか小松空港に近い場所だったと思います。小松市もけっこう広いのですが,市場急配センターの市内配達のマルエーの仕事を別にすれば,たまに仕事で行く程度で,それより加賀市や福井方面の通過点としてよく走ったという記憶はあります。

 そういえば,金沢市の北安江にもよく似た酒販の会社があって,「北栄」という会社でしたが,北都運輸の市内配達の仕事ではほぼ毎回,配達があったように思います。配達に行っていた頃は,入り組んだ路地のややこしい場所という感じでした。

 ストリートビューで見ると建物が新しくなっていますが,場所は変わっていない可能性が高いのではと思われます。この北安江というのも以前は,空き地も多く夜は人気も少ない場所でしたが,駅西の開発で周辺に店も増え,アルプラザ平和堂も出来ていたので,地価は高くなったと思われます。

 思っていた場所と違っていたのですが,数ヶ月前にも別のことで周辺を調べています。Googleマップにある諸江通りから一本入った道路ですが,2本目の道路沿いに私が住んだ借家がありました。住所は当時北安江479−2になっていたような気がします。

 北安江出雲線という広い道路がありますが,借家からこの道路に出て右に少し歩いたところに焼肉店がありました。その焼肉店に初めて行ったのは,昭和61年の秋になります。飲み会ということで行ったのですが,これも路地の先のややこしい場所でした。

 金沢市場輸送で高田さんが現場責任者をしていた頃のことです。そのあとたぶん同じ昭和61年の12月になると思うのですが,当時は配車係だけだった本恒夫社長と蛸島のTSさんの3人で,その焼肉店に行ったことがありました。本恒夫社長は,ビールを一杯も飲めないと言っていました。

 ビールをコップで一杯飲むと,顔が赤くなって限界と話していたかもしれませんが,そう言いながら,富山市内の繁華街で複数の飲み屋を経営し,カラオケを先駆けて設置していたとも話していました。