#弁護士鉄道遊郭編 #告発状202103 #### 3月3日の小夜衣からデジカメと斐川雅文弁護士の上告趣意書,深澤諭史弁護士らの成仏理論から弱者救済,お小夜塚(11)

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20051218:[link]  掲載した写真についてですが、いずれも平成6年に起こっています。弁護士宅の強盗事件は5月16日、美川の2少年殺人事件は10月の28日か29日日に起こったようです。今日久しぶりに、図書館で確認しました。

2016-05-01 09:10:50 "「美川2少年殺人事件」などと呼ばれていた事件ですが、被害者というのは二人とも、被告訴人OSNの会社の社員でした。50万円の借金の返済を執拗に迫られ追い詰められた上での犯行ということになりました。求刑は死刑で判決は無期懲役。 " https://twitter.com/kk_hirono/status/726564501080788992

2016-05-01 09:24:30 "その「美川2少年殺人事件」のことは図書館の北國新聞縮小版で事件や裁判の記事に目を通しましたが、急いでいたり、他に優先したいことがあったので、ざっと目を通した程度で、よく理解の出来ていない部分もありました。 " https://twitter.com/kk_hirono/status/726567941794222081

2016-06-23 12:23:31 "新聞には美川2少年殺人事件と書かれていたように思います。駐車中の車で背後から首を絞めたという単独犯の報道になっていましたが、いろいろと納得のできない事件でした。犯行を隠すために被害者の自宅の縁の下にもぐって放火をしたという放火未遂も新聞の記事になっていました。 " https://twitter.com/kk_hirono/status/745819549786767360

 被告発人大網健二兄弟の父親が,殺人事件の被害者の家の縁の下に入って放火未遂をやったという新聞記事は,小さな扱いの記事でした。その当時も今どき人が潜り込めるような縁の下のある家があるのかと不思議に思っていたのですが,蛸島事件の遺体の発見現場も高倉彦神社の縁の下となっていました。

 縁の下に潜って放火をしたという話は他には聞いたことがなく不思議に思っていましたが,それで一体何を放火により消失させたかったのか,北國新聞の短い記事では全くの謎でありながらミステリー性を感じていました。それも身近な人物の犯行です。

 昭和57年の春先に東京の浅草に行ったのも,その美川2少年殺人事件の実行犯である被告発人大網健二兄弟の父親が一緒で,宿泊となったマンションは,平成2年頃になって被告発人大網健二が,あのとき世話になった人物で父親の兄弟分だと私に直接話をしていました。

 そのときにも東京でヤクザをやっていると話は聞いていたと思うのですが,平成3年のこれも春先になると思うのですが,被告発人浜口卓也が連絡をしてきて,ヤクザの事務所を開いて独立するので祝い金を集めているといい,5千円ほどを払い,後日,大きな灰皿を一つもらったと記憶にあります。

 同じ旧能都町で被告発人浜口卓也の実家の真脇に近いとも被告発人大網健二に話を聞いていましたが,名前は今も憶えています。ヤクザが独立して事務所を持てば暴力団組長ということになるのではと考えたのですが,東京の暴力団組長と兄弟分であったのが,美川2少年殺人事件の実行犯になります。

 地元では父親は身代わりで,被告発人大網健二の兄,関係者OSNが実行犯ではないかという話を実際に耳にしましたが,もともと単独で2人も続けて殺害できる事件なのかという疑問は大きくありました。どちらかと言えば小柄で,かなり細身の体型であったと思います。

 なんでも車の後部席にまわって,後ろからロープで首を絞め殺したという新聞の報道になっていたかと思います。第一報は,福井刑務所で工場内で中吊りの読売新聞をみたのですが,テレビ欄の反対側の1面のトップ記事になっていたと記憶にあります。

 けっこう大きな写真があって,それが公園の入口に見えましたし,記事にもそのような記載があったように思います。第一報の時点では,そのまま閲覧できたと思いますが,その事件で逮捕されたという同じ読売新聞の記事は墨塗りがあり,かなり珍しいことであったように思います。

 さきほどTwilogの記録に,「美川の2少年殺人事件は10月の28日か29日日に起こったようです。」とありましたが,今になって同じ年の11月に長谷川紘之弁護士の訴状が届き,しばらくして母親経由で被告発人木梨松嗣から一件記録が郵送で届いた時期に近かったのだと認識しました。

 美川2少年殺害事件は,たぶん美川町の公園内に放置されていた遺体が見つかってから半月か長くても一月以内に被告発人大網健二兄弟の父親が逮捕されたという記憶となっています。

 これもそのうち図書館で確認しておこうと考えていたのですが,平成6年なのか7年なのかも思い出せず,月ごとに分かれている北國新聞の縮小版も特定できず,探すのに時間が掛かりそうだったので,告発状提出後と思い,これも先延ばしをしていました。

 他には書いていると思いますが,数年前から過去の北國新聞の縮小版は,倉庫のような場所に移動して保管されるようになったらしく,それに気がつくのもだいぶん間があったのですが,新しい珠洲市の図書館に行ったことで別の場所に保管され,お願いで持ってきてもらえることがわかったのです。

 まだ,一般の図書と同じ場所に置いてあり,自由に過去の北國新聞の縮小版が手にとれた時期,他のことはそっちのけで調べまくり探し出すことが出来なかったのが,平成1年1月と思われる,蛸島のTSさんが松波の港で車ごと入水自殺をしたという記事でした。

 範囲を広げて探しまくったのですが,その挙げ句に思い出したのが,一時期,北國新聞ではなく,読売新聞を購読していた時期があったことです。それも被告発人安田敏の友人で蛸島出身のSMに頼まれ,しぶしぶ仕方なしの定期購読でした。3ヶ月か長くて6ヶ月だったと思います。

 テレビ欄と地元の事件事故のニュースにしか関心がなかったのですが,読売新聞は地元石川県のニュース記事が少なく,北國新聞が地元のニュースも豊富だと聞いていました。

 ずいぶん前から自殺者のニュースが新聞に大きく載せられることはないと思うのですが,すぐに蛸島のTSさんとわかったのも実名だったからと思います。テレビ欄の裏面で左側でしたが2番目に大きな記事となっていました。

 当時も他にそのような自殺のニュース記事を見た記憶はなかったのですが,最近になって自殺に不審な点があったから情報提供を期待して大きな扱いになっていたのかと考えるようになりました。それにしても北國新聞が全く記事にしなかったというのも不思議です。

 自殺した蛸島のTSさんには多額の保険金が掛けられていたという話を聞いたのですが,能登の地元で聞いた話ではなく,ずっと本当のことだと思っていたのですが,今考えてみると事実なのかと思い返しながら,なぜその能登とは無関係の可能性もある蛸島のTSさんの自殺をしっていたのかということです。

 御庁つまり金沢地方検察庁には書面でそのままのことを記憶が新しい段階で伝えてあると思いますが,その接点となったのも被告発人浜口卓也のことでした。だいぶん前から正確な保険金の金額が思い出せなくなっているのですが,少なくて1億5千万円以上であったようには思います。

 ./20051206の記事に,「1億円以上の保険金が降」と記録されているのを確認したのですが,ストレートすぎると思われる記載が一緒にありました。現在の実名匿名の使い分けを堅持しているのですが,当時の記録はありのままの事実として,そのままにしておいた方がよいと判断しています。

 人物の名前は憶えやすかったこともあり,今でもフルネームで憶えているのですが,今改めて考えると,被告発人松平日出男の知人で付き合いがあったという可能性もありそうです。全く知らない人が友人,知人だったという可能性もあり,身近でも知らない人がいるので特定はできません。

 狭い宇出津の町の近所でも車はあるのに,長年姿を見かけず,たまに気になる家の人というのもいます。そうかと言えば,広い金沢市内で,数年前の友人,知人にたまたま出会うということも割とよくあった経験です。

 蛸島のことでついでに書いておくと,昭和56年の8月28日から26日間,金沢市小立野の金沢少年鑑別所にいたとき,雑居房で一緒になったのが,蛸島の19歳の少年でした。私は11月の誕生日前でまだ16歳でした。

 金沢少年鑑別所を出た後,関係者OSNに話をしたところ,いくらか知っている男だと話をしていました。名前は忘れましたが,ちょっと変わったあだ名は記憶にあり,それは関係者OSNから聞いたあだ名であったように思います。

 蛸島事件は16歳の少年が逮捕され金沢地裁七尾支部で無罪判決を受けているのですが,交通事故であったとも記憶にある金沢少年鑑別所の当時19歳の少年は,蛸島から来たと話していたように思い,金沢に住んでいて捕まったという話ではなかったように思います。

 夏の終わりで最も収容者の多い時期と聞きましたが,それでも30人はいなかったように思います。余り広くない中庭のような運動場で,朝だけラジオ体操をしていたことをよく憶えています。雨の日は少なかったのか記憶にありません。

 夏の終わりは金沢少年鑑別所の収容者が一番多くなる時期で,それを見込んだヤクザが,少年を使って組織的な目的をやりやすくするための犯行をやらせるという話も16歳の時点で聞いていました。

 日付が変わって3月6日になっていますが,昨日になるのかTwitterで,山口組の田岡組長が警察の一日署長になっていたという写真付きのツイートをたまたま見かけていました。これは聞いたことのない話でしたが,昭和50年代もヤクザというか暴力団がずいぶん身近な存在であるという時代でした。

 暴対法という法律で状況はその後,一変するのですが,そのような時代の大きな変化も肌で感じたということがあります。買収防止法の前後もどれだけの変化があったものなのかと想像するのですが,弁護士業界もいよいよ終焉のときが近づいているように思え,それを期待しています。