告発に至る経緯・奥能登の蛸島事件と,弁護士列車編### 鵜飼の目医者と蛸島事件,深澤諭史弁護士が後世に残す使命感という法曹養成への恨み

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1156:2021-02-04_14:13:43 深澤諭史弁護士(第二東京弁護士会)# 「(・∀・)恨んでいるというか、後世に残さないと行けない、という、使命感ですね。」というツイート https://hirono-hideki.hatenadiary.jp/entry/2021/02/04/141341
1157:2021-02-04_15:41:56 深澤諭史弁護士(第二東京弁護士会)# 「深澤先生は「弁護士の就職難w」とかほざいてきた相手に恨み骨髄のようですが」という大阪弁護士会所属の弁護士アカウント https://hirono-hideki.hatenadiary.jp/entry/2021/02/04/154152

 資料としてエントリーを2つ作成しました。最近,深澤諭史弁護士のタイムラインで特に多いと感じるのが,「既得権益の側からのネガティブキャンペーン」になるのですが,これはまた別に取り上げる予定でいます。

 いずれにせよ,弁護士鉄道という弁護士業界本体の歩み,営みについて,自省し顧みて改善するという要素は皆無のところであります。

 3年ほど前になるのか,Googleマップで鵜飼は,石川県珠洲市宝立町鵜飼になると知ったのですが,隣接したところに2つの地名があって,どこからどこがどちらになるのかなど疑問に思っていました。だいたいその辺りで一番有名なのが,軍艦島とも呼ばれる見附島になります。

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> 2021-02-04-155435_〒927-1222 石川県珠洲市宝立町鵜飼 - Google マップ.jpg https://t.co/sp3xlaSGzg

 改めて調べてみると,宝立町鵜飼の範囲は意外に狭く,飛び地になっているとも思ったのですが,よくみると間に,鵜飼午,鵜飼卯,鵜飼イという住所がありました。それでも思ったより狭い範囲で,どさん子ラーメンは,けっこう離れた場所から鵜島となっています。

 この鵜島のどさん子ラーメンは,京都の親戚と最後にドライブに行った頃に入って食事をしたという記憶があり,少しあとになると思いますが,宇出津の近所にもどさん子ラーメンの店が出来て,長距離トラックの仕事を始めた頃は,新潟県国道8号線沿いにかなりの数の店舗がありました。

 どさん子ラーメンは,福井県内には見なかったような気がするし,あっても少なかったと思うのですが,遠く離れた島根県出雲市国道9号線沿いに1件の店舗があって,それもずいぶん目立つ場所のお店で,鵜島の辺りの道幅を広くしたような風景も似通っていました。

  • 日本人に味噌ラーメンを浸透させた昭和の巨大チェーン「どさん子」が、完全リブランドして劇的な復活を遂げていた - メシ通 | ホットペッパーグルメ https://t.co/LTHaFtrGmF 40歳以上の方なら、アゴが丼になっているペリカンのロゴで覚えているだろう、1970年代から急激に店舗を増やし、全国展開した
  • 東京近郊はおろか、地方の外食店のない場所にまで店舗を広げ、短期間で1000店舗を超え、日本人に味噌ラーメンという食べ物を定着させた。 そんなセンセーショナルなブランドも、平成に変わる頃にかけて街であまり見かけなくなっていったが、あんなによく目にした「どさん子」 https://t.co/LTHaFtrGmF

 関東でどさん子ラーメンを見たという記憶は余りないのですが,国道沿いの店舗ではなかったのかもしれません。秋田県内にもあったような気がしますが,とにかく横の長さが日本一とも聞く,新潟県内で特に多く見かけたという記憶があります。

 建物も当時のままになるのかと思うのですが,鵜飼にはオランダという喫茶店があって,鵜飼の駅からはけっこう遠くに感じていたのですが,すぐ近くに川と橋があって,喫茶店と橋の間に,平屋の建物だったと思うのですが,目医者がありました。

 今は,バイパスのような珠洲道路があるので,通ることも少なくなっていますが,少なくとも当時は国道249号線だったと思います。中学生の頃によく行った目医者で,コンタクトレンズの処方に行ったのがほとんどだったとも思います。あるいは高校一年生のなってからかもしれません。

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> 今回、この項目で書いておきたかったことが2つあり、一つが途中になっている珠洲市宝立町鵜飼の目医者での体験であり、もう一つが、遠洋漁船に初めて乗った少年の体験談です。

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> 本来この項目で取り上げることを予定していたものを、別の項目でということにしたいとも考えました。長く長すぎている、というのも理由ですが、他のことと関係づける目的もあるので、さらに長いものとなってしまうからです。鵜飼の目医者のこともそれになります。

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> 珠洲市鵜飼の目医者の忘れることのない思い出は、診察室での年配の女の先生と年配の男性の患者との会話でした。女の先生は、治療を受けないと失明するので船には乗るなと、それは真剣になって説得をしていました。それだけ声も大きくなっていたのだと思います。

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> その鵜川の町医者のことは憶えている人も多く、最近、話題として話を聞いたのですが、はっきりとは思い出せなくなっています。眼科だったように思うのですが、小さい頃は眼科のことを、「めんしゃ」と聞いていました。目医者が訛ったものと思います。

 今は,バイパスのような珠洲道路があるので,通ることも少なくなっていますが,少なくとも当時は国道249号線だったと思います。中学生の頃によく行った目医者で,コンタクトレンズの処方に行ったのがほとんどだったとも思います。あるいは高校一年生のなってからかもしれません。

 過去にも取り上げたことは記憶にあったのですが,2016年の11月というのは思ったより前のことで,古くても2018年辺りかと思っていました。取り上げたしばらく後に,その辺りに行くことがあり,目医者の建物はなかったですが,橋の付近をスマホで撮影したと記憶にあります。

 1つ写真が見つかったのですが,2019年7月27日の写真でした。鵜島のどさん子ラーメンの写真もあるのですが,今日の午前中も同じ日のことを思い出しながら,昨年つまり2020年の7月の下旬のことと勘違いをしていたことに気が付きました。

  • タイノエ珠洲市木ノ浦海岸の夜釣りで釣ってきた小鯛の頭に寄生していたタイノエの写真4枚。 \n 2016-11-05_12.38.11.jpg \n 2016-11-05_13.09.03.jpg \n 2016-11-05_13.09.11.jpg \n 2016-11-05_13.12.23.jpg https://t.co/86RWdYCE2a

 何年のことか思い出せずにいたのですが,タイノエの写真が出てきました。同じ日に,死んだ小鳥の写真もあるのですが,捕獲して逃がすのに失敗して死んだのは,この1羽だけだったと思います。勢いよく戸に激突しました。窓が開かず,迷い込むと出ていけないような場所です。

 同じ4月だったと思いますが,たぶん翌年になる2018年はサバは皆無で,アジもなかなか釣れず,夕方の早い時間に東一文字堤防から戻って,そのまま九十九湾に行って魚釣りを続けたところ,長谷川紘之弁護士が死んだという話を聞いたのです。2018年らしいと確認出来ました。

 数年前は,何か別の名前だったように思うのですが,調べてみると珠洲ビーチホテルという名前になっていました。中に入ったことはないですが,大学のように見える建物です。住所は蛸島町になるのかもしれません。鉢ヶ崎海水浴場の側です。

 ようやく探していた鵜飼の目医者のあった場所の写真を見つけ出しました。けっこう寒い時期だったという記憶はあったのと,2017-12-25_15.57.52.jpgの写真は,後の時間になりますが,やはり鵜飼の入浴施設の写真で,露天風呂から見附島を撮影したものです。

 2017年12月は,刑事告発・非常上告_金沢地方検察庁御中(@kk_hirono)への投稿が4日しかありませんでした。しばらく前に鵜飼の目医者のことを取り上げていると思っていたのですが,何か別のことと勘違いしていたのかもしれません。


> その鵜川の町医者のことは憶えている人も多く、最近、話題として話を聞いたのですが、はっきりとは思い出せなくなっています。眼科だったように思うのですが、小さい頃は眼科のことを、「めんしゃ」と聞いていました。目医者が訛ったものと思います。

 先程は気が付かなかったのですが,2019年1月8日のツイートは,鵜飼の目医者ではなく,鵜川のことを取り上げていました。たぶん,このあとになると思うのですが,人から鵜川の町医者は草山という名前だったと聞きました。さらに現在,小木にある草山という医院とも関係があるように聞きました。

 確認したのですが,やはり小木にあるのは歯科医院です。それと混同したのか鵜川にあった医院も歯科医院だったのかと考えるようになっていました。しかし,「めんしゃ(目医者)」という言葉は,やたらと強く記憶にあるのに,他にそれらしい医院は思い当たらずにもいました。

  • 内浦町 - Wikipedia https://t.co/rusTJvNcL7 \n 1955年(昭和30年)10月10日 - 松波町が能都町字小木、越坂、市之瀬、明野、羽生の一部(羽生ろ)を編入。 \n 1958年(昭和33年)12月1日 - 松波町が改称し、内浦町となる。

 確認のため調べたのですが,昭和33年に松波町が内浦町になったとあります。けっこう調べてきたのですが,この松波町というのは初めて目にしたように思いました。

 今日の昼前か昼過ぎにも考えていたのですが,蛸島事件ではどちらも公害訴訟やハンセン病訴訟に関連したという二人の弁護士の名前が出てきます。一人は豊田誠弁護士で,もう一人が下の名前は忘れましたが松波という名前の弁護士でした。

 松波というのは地名にもよくありそうな名称ですが,北海道の一部と沖縄を除く全国の津々浦々をめぐった長距離トラック運転手の仕事でも,当時の珠洲郡松波以外に,地名を見た記憶がなく,あとで検索で調べてみようとも考えていました。なお,内浦町で町役場があったのが松波です。

 検索したところ,千葉市内と山形市内に松波という住所があるようですが,自治体の所在地とは違うようです。

 松波の先に恋路があるのですが,恋路の海岸線に出ると,珠洲市の内浦の海岸線が一望され,恋路を抜けたところで珠洲市に入ります。平成元年1月,金沢市場輸送でも運転手をしていた蛸島のTSさんが自殺した場所も松波の港でした。なぜ死に場所に選んだのかも謎でした。

 2,3箇所だったと思いますが,石川県奥能登でおきた蛸島学童殺人事件裁判記録という本では,「鵜川の草山医院」が出てきます。不思議に思ったのですが,鵜川は当時も能都町になると思いますが,石川県鳳至郡内で,珠洲市との間には松波に役場のある珠洲郡もあったのです。

 被告発人安田敏の出身地でもある当時の能都町鵜川ですが,近年まで名前は記憶になかった草山医院の他,母親に鵜川にあるお寺にもよく連れて行かれていました。どちらも辺田の浜に住んでいる頃で昭和40年代後半になると思います。

 蛸島と鵜川は,国道249号経由で39.2km,農免道路と国道249号経由で42.0Kmとあります。長距離トラック運転手の仕事では距離的に近いのですが,子供の頃からの実体験が強く影響するのか,宇出津から蛸島の間でも未だにずいぶん遠く感じられるというのが率直な感想です。

 蛸島と宇出津だと,28.2kmと26.6km,農免道路経由で32.3kmということです。この距離を見るとずいぶん近くに感じますが,車で行ってもけっこう遠く感じます。見慣れた風景ばかりですが,それがなおさら長く遠い場所に感じさせるのかもしれません。

 蛸島事件の被害者は,当時10歳で小学校5年生となっていたように思います。誕生日が3月11日となっていたので,同じ年でも学年が一つ上になります。なので学年に一つの違いはありますが,私は小学校5年生に進級する4月の初めに,辺田の浜から宇出津の小棚木の家に引っ越してきました。

 これまでの記録には何度か書いていると思いますが,私はずっと小学校4年生に進級するときと思っていたのですが,8,9年ほど前でしょうか,ネットで辺田の浜の神目神社の酒樽返しの神事が昭和50年に再開されたと知って,1年勘違いしていたらしいと気がついたのです。


1斗入りの酒樽に酒を入れて供え、祝詞を田奏上、終われば島崎の網(間島)・赤倉の網(辺田ノ浜)の両網から選ばれた10名余の若者達が身をきよめ、真新しいふんどし1つの裸となり、1斗入りの酒樽をかつぎ出して、田や海の中で奪い合う。

 長島に寅御前の墓といわれる五輪塔の墓が二基あるが、源義経が奥州に渡るとき、寅御前が病気になり、伴の女3人と7つの樽に乗って流れ着いた。寅御前がそこで歿したので、伴の1人は自国へ1人は義経のもとへ行ったので、御前ともう1人の伴人の墓が残された。昔の樽祭りは旧3月2日八王子神社の樽祭りを行い、上組(八王子神社側、間島・二谷の網元方)と下組(大宮神社側、駒田・小配の網元方)に分かれ、辺田の浜・柳倉・間島からそれぞれ五升樽を供え、それを一つ樽にあけて、これを奪い合った。そして勝負により大漁を占った。八王子・大宮の二社が明治41年、上目神社に合祀されてからこの神社の神事となり、昭和21年以降2~3回行われただけで途絶えていたが、昭和50年復活して現在に及んでいる。
開催日 /毎年4月2日
開催場所/能登町藤波地区(神目神社)

<見所>
 午後2時頃に1斗樽を担いだ若衆が神社を出発し、田んぼや海の中で樽を奪い合う。

 これまでに何度か情報を読んでいる酒樽返しですが,初めて知るようなことがいろいろと書いてあります。「八王子・大宮の二社が明治41年、上目神社に合祀されてからこの神社の神事となり、昭和21年以降2~3回行われただけで途絶えていたが、昭和50年復活して現在に及んでいる。」。

 上目神社というのは初めて見るもので,誤記なのかと思ったのですが,下には「開催場所/能登町藤波地区(神目神社)」とあるので,間違いではなさそうです。地元の辺田の浜の人から聞いた話では,神目神社は,藤ノ瀬の近くにあった神目という集落が由来となっているとのことでした。

 石川県奥能登でおきた蛸島学童殺人事件裁判記録の本では,眼疾と記述されていたように思いますが,目のどのような病気なのかわからず,調べていません。その病気で頻繁に鵜川の草山医院に国鉄で通っていたとのことで,被害にあった日は,草山医院が臨時の休みとなっていたようです。