* 本日令和2年7月14日,初めて知ったと思う広島県の加藤新一老事件,再審請求について早い段階で知った吉田巌窟王事件とは全く別の事件だと確認

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〉〉〉:Emacs: 2020-07-14(火曜日)17:33  〉〉〉

 新一老という名前があるのかと不思議に思ったのですが,加藤新一という人物の冤罪事件のようです。吉田巌窟王事件の場合はよく吉田翁という言葉が使われていましたが,名前に老と付けたのは,今日初めて見たように思います。翁の場合はなんとなく理解が出来ました。

 大正4年に発生した強盗殺人事件で被疑者とありますが,明治生まれなのでしょう。Googleの検索結果には1891年から1980年という記述が見られます。変換候補に出てきました明治24年生まれとなるようです。いまでも普通にありそうな名前なので,それも不思議に感じます。

 今まで目にしてこなかったのも不思議なのですが,その辺りの確認もかねてTwilogで調べておきます。

▶▶▶ kk_hironoのリツイート ▶▶▶

> 日本弁護士連合会:加藤新一老の国賠事件棄却判決について https://t.co/oWfskYhpNb

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> - 667:2020-07-14_17:25:55 * 「日本弁護士連合会:加藤新一老の国賠事件棄却判決について」という1980年(昭和55年)7月15日付けになっている日弁連会長声明 https://t.co/EtseEehC4p

 今まで目にしてこなかったのも不思議なのですが,その辺りの確認もかねてTwilogで調べておきます。

 結果は本日のツイート2件のみでした。他に新一郎での該当がありそうに思っていたのですが,予想がはずれました。上の名前が加藤ではなかったようです。似たような名前でしたが,伊藤だったかもしれません。

▶▶▶ kk_hironoのリツイート ▶▶▶

> 【前川彰司さん】福井女子中学生殺害、最高裁が特別抗告棄却...再審認めず | まとめーたー http://t.co/51bTTqsZzE 2011年11月30日、名古屋高等裁判所金沢支部(伊藤新一郎裁判長)にて、本件の再審を開始する決定が行われた。

 結果は本日のツイート2件のみでした。他に新一郎での該当がありそうに思っていたのですが,予想がはずれました。上の名前が加藤ではなかったようです。似たような名前でしたが,伊藤だったかもしれません。

 再審請求を棄却された裁判長の名前として,たぶん平成11年の事件で勾留質問を受けた裁判官としても記憶にあったのが伊藤新一郎裁判長になります。再審請求に理解があった裁判官になるのでしょう。福井女子中学生殺人事件で再審開始の決定を出していました。

 私は金沢地方裁判所の裁判長として見ているのですが,。福井女子中学生殺人事件で再審開始の決定を出したのは名古屋高裁金沢支部の裁判長としてでした。経歴は名古屋の裁判所も多く,この経歴は被告発人小島裕史裁判長,他に名前を思い出せない裁判長とも似ていました。

名古屋アベック殺人事件 - Wikiwand https://www.wikiwand.com/ja/%E5%90%8D%E5%8F%A4%E5%B1%8B%E3%82%A2%E3%83%99%E3%83%83%E3%82%AF%E6%AE%BA%E4%BA%BA%E4%BA%8B%E4%BB%B6

 金沢地方裁判所の裁判長の名前が思い出せず,被告発人小島裕史裁判長の部下のような立場で裁判体の一人となっていたことを思い出し,小島裕史裁判長の関わった裁判について調べていたところ,名古屋アベック殺人事件が出てきました。関与は少し知っていました。

 Wikipediaの情報は膨大なものですが,被告発人小島裕史裁判長が出した判決の直前で,ふと探していた裁判長の名前を思い出しました。石山容示裁判長です。石山容示裁判長にも再審請求を棄却された憶えがあります。


吉田岩窟王事件(よしだがんくつおうじけん)は、大正時代に発生した強盗殺人事件。事件は名古屋の小売商が殺されたものであったが、殺人事件そのものよりも、被疑者の虚偽の供述から主犯とされた吉田石松が冤罪を訴え、事件発生から半世紀後に再審で無罪を勝ち取った事件として言及されることが多く、この冤罪事件を指し示すことが一般的である。冤罪事件としては、日本弁護士連合会が支援していた。 

なお、本項の事件名は一般的に知られた通称の一つであり、他に昭和の岩窟王事件、日本岩窟王事件、吉田翁事件、吉田石松老事件など複数の名称で呼ばれる。岩窟王とは、後述するように黒岩涙香の翻案小説『巌窟王』に由来する(原作はデュマの小説『モンテ・クリスト伯』)。

[source:]吉田岩窟王事件 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%90%89%E7%94%B0%E5%B2%A9%E7%AA%9F%E7%8E%8B%E4%BA%8B%E4%BB%B6

 「判決から9か月後、1963年12月1日に老衰と肺炎によって永眠した(享年84)。」とありますが,続けてある「栃木県の墓には「人権の神ここに眠る」と墓碑銘が刻まれている。」という部分は前に読んだのと同じ内容ですが,すっかり忘れていました。

 こちらも名古屋の事件,名古屋の裁判だったようです。大正2年に2度の再審請求をおこなったとあります。共犯者として巻き込まれたとありますが,最近よく見かける冤罪の類型です。この吉田巌窟王事件のことは早い段階で知っていました。平成7年頃になるかもしれません。

 さきほど見かけた情報では,この有名な吉田巌窟王事件より,加藤新一老事件の方が,拘束期間は長かったとのことです。吉田巌窟王事件は一審で死刑,控訴審と上告審で無期懲役とあります。

 「そして1935年(昭和10年)3月に仮出獄したのちに、自分を陥れた2人が先に1930年(昭和5年)に仮出所して埼玉県にいるのを新聞記者の協力で探し出し、虚偽の自白をしたことを認める詫び状を1936年(昭和11年)11月に受け取った。」とありますが,再審請求は棄却されたとのことです。

 昭和35年4月に5度目の再審請求が認められたが,検察の異議申し立てがあり,昭和37年10月30日の最高裁大法廷決定で再審開始が決定,同年12月6日から再審の公判審理が開始されたとあります。大法廷判決ではなく大法廷決定となっているのも気になるところではあります。

 以前は,余り参考にならない時代の異なる昔話のように思っていた吉田巌窟王事件でしたが,この時間の経過や紆余曲折ぶりは参考にすべきところの資料とも思えてきました。無罪判決が出たのが昭和38年2月28日,9ヶ月後に亡くなる間に,刑事保障が支給されたが,自力歩行は出来なかったとあります。

 「不当に身柄拘束された21年7か月7日(7889日)の月日に対し、1日あたり400円の刑事補償(315万5600円)が支給された。」とありますが,315万5600円の行方は記載がなく,「栃木県の墓には「人権の神ここに眠る」と墓碑銘が刻まれている。」とあるのも印象的です。

 10年ほど前でも刑事補償は最高額が1日あたり1万2千500円辺りになっていたと思います。それが昭和38年には400円だったようですが,大学卒の初任給が1万5千円とかいう時代に近いのかもしれません。それでも貨幣価値を正しく見積もるのは難しい気がします。


戦後になり1952年(昭和27年)6月には新聞社や弁護士にも訴え、1958年(昭和33年)には4度目の再審請求を行ったが、これも棄却された。そのため吉田は最後の手段として法務省に向かい、法務大臣あてに直訴を試みたが、大臣との面会は拒絶された。しかしその際、絨毯にしがみついて大臣に合わせてくれと懇願する吉田を見かねた職員が案内して務省刑事局参事官安倍治夫に面会を依頼。安倍はしっかりと話を聞き直訴状にも目を通した上で主張に一貫性があり吉田の主張が信用しうるものと判断。吉田氏にあなたを助けてくれる人が居るところを紹介するから一緒に行こうと言って、弁護士会館の日本弁護士連合会人権擁護部へ案内した。面会した日弁連関係者が資料を精査して動き始めると世論の関心も高まり、仮出所後のわび状提出を受けた時に立ち会った新聞記者が報道を見て立ち会った事を証言。1959年(昭和34年)10月には日本弁護士連合会が特別委員会を設置し、国会も人権擁護の観点から動き出した。

[source:]吉田岩窟王事件 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%90%89%E7%94%B0%E5%B2%A9%E7%AA%9F%E7%8E%8B%E4%BA%8B%E4%BB%B6

 ざっと目を通したところ弁護士の名前を見かけなかったように思ったので,簡易ですがページ内検索をしたところ,上記の引用部分,「そのため吉田は最後の手段として法務省に向かい、法務大臣あてに直訴を試みたが、大臣との面会は拒絶された。しかしその際、絨毯に」を発見しました。

 このWikipediaは最初の方に「事件発生から半世紀後に再審で無罪を勝ち取った事件として言及されることが多く、この冤罪事件を指し示すことが一般的である。冤罪事件としては、日本弁護士連合会が支援していた。」ともありますが,具体的な弁護士名は出てこないようです。記録にないのか。

 該当は6箇所,「日本弁護士連合会が支援する再審事件」,「日本弁護士連合会が支援していた。」,「新聞社や弁護士にも訴え」,「弁護士会館の日本弁護士連合会人権擁護部へ案内した」,「日本弁護士連合会が特別委員会を設置し、国会も人権擁護の観点から動き出した。」です。

 次に加藤新一老事件です。大正4年に発生した強盗殺人事件とあります。「虚偽の供述により共犯とされた男性に、事件発生から62年後に再審無罪が言い渡された冤罪事件である。日本弁護士連合会が支援していた。」と続きます。


服役後[編集]
Xは1918年に三池刑務所で獄死。加藤は模範囚として久留米少年刑務所(現在の佐賀少年刑務所)で職業訓練を指導し、服役から14年後の1930年(昭和5年)に仮出所した。

その後、加藤は1963年の吉田岩窟王事件の再審無罪を聞き、同年から1974年までに独力で[5]5度にわたる再審請求を行ったが、全て棄却された。1972年には日本弁護士連合会(日弁連)が事件調査に乗り出したこともあったが、新事実の発見は困難であるとして支援は断念された[6]。しかし1975年の白鳥決定を経て日弁連は支援を再開、物証の再鑑定と精神鑑定の結果を踏まえ翌年9月に広島高裁は第6次再審請求を受理、再審を開始した。なお、第6次再審請求において凶器とされていた藁切り刀の再鑑定を行った上野正吉東京大学名誉教授は、遺体の傷は藁切り刀とは一致しないと結論付けるとともに、今まで1度も法医学的な再鑑定が行われなかったのは弁護士の怠慢であると指摘している[7]。

1977年7月7日、干場義秋裁判長は、共犯者の供述は信用し得ず全ての物証に証拠価値はない、として加藤に無罪を言い渡した。事件発生から62年後の無罪判決は日本の司法史上最長である。

その後、加藤は国家賠償請求訴訟を起こすも、その最中の1980年4月29日に89歳で死去した。訴訟はその後も続けられたが、裁判官の過失が否定されるなどして同年7月15日に請求は棄却された[8]。

[source:]加藤老事件 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8A%A0%E8%97%A4%E8%80%81%E4%BA%8B%E4%BB%B6

 1916年に無期懲役で確定したとありますが,「加藤は模範囚として久留米少年刑務所(現在の佐賀少年刑務所)で職業訓練を指導し、服役から14年後の1930年(昭和5年)に仮出所した。」とあります。

 「1977年7月7日、干場義秋裁判長は、共犯者の供述は信用し得ず全ての物証に証拠価値はない、として加藤に無罪を言い渡した。事件発生から62年後の無罪判決は日本の司法史上最長である。」と続くので,仮出所から47年経過したことになるようです。

 「加藤は1963年の吉田岩窟王事件の再審無罪を聞き、同年から1974年までに独力で[5]5度にわたる再審請求を行ったが、全て棄却された。1972年には日本弁護士連合会(日弁連)が事件調査に乗り出したこともあったが、新事実の発見は困難であるとして支援は断念された[6]。」

 仮出所後に,吉田岩窟王事件の再審無罪を知ったことで,独力の再審請求を始めたとあります。「しかし1975年の白鳥決定を経て日弁連は支援を再開、物証の再鑑定と精神鑑定の結果を踏まえ翌年9月に広島高裁は第6次再審請求を受理、再審を開始した。」ともあります。

 白鳥決定は再審開始の基準を最高裁が示した有名なものと思います。以前はたびたび見かけていました。この白鳥は殺害された警察官の名前だったと思いますが,基準が示されただけで,その裁判に有利になることはなかったと読みました。

 確認もあるので調べておきます。

〈〈〈:Linux Emacs: 2020-07-14(火曜日)19:11  〈〈〈