## 珠洲警察署と佐渡ヶ島,珠洲警察署能登庁舎になる前の能登警察署で係長だったらしい大家警部補 Last update 2020-06-08_1541

 珠洲市の中心部で最も大きな町は飯田になります。私が中学生だった頃の昭和50年代前半,飯田港には佐渡ヶ島行きの汽船がありました。乗用車が積み込めるようなフェリーではなかったように思います。これは確認もあるので少し調べておきたいと思います。

» 新潟県 小木港-石川・珠洲今年の運航 高速船3倍に増便|北陸新幹線で行こう!北陸・信越観光ナビ https://t.co/VD3AZsvkyD

 この高速船のニュースは前に少し見かけていたような気もしましたが,小木港というのは意外です。小木港佐渡の方が知名度が高いと思いますが,能登にも小木港があり,現在は私が住む宇出津と同じ能登町ですが,合併前は石川県珠洲郡内浦町でした。

 能登小木港佐渡小木港は江戸時代から交易があったという話です。九十九湾で身投げの自殺をした「おせん」という遊女の話を聞いたのも九十九湾の遊覧船でのアナウンス放送で,それも午前中に珠洲警察署に行った帰りの立ち寄りでした。


私の生まれた昭和50年、小木と珠洲市(石川県)と姉妹都市締結し、能登飯田港と定期航路が開設されました。なんとカーフェリーです。しかし3年後すぐにホバークラフト「しぐなす」に変わり、五年後には廃止になってしまいました。ちなみにカーフェリーの名前は「かもめ」。当時から??の航路というわけではなく、昔は北前船などで交流があった地域同士だったようです。しかし需要があるわけでもなく、あえなく廃止になったようです。

[source:]佐渡の本州への過去の航路 | なまあず日記style https://namazudiary.kozotrain.net/2017/09/%E4%BD%90%E6%B8%A1%E3%81%AE%E6%9C%AC%E5%B7%9E%E3%81%B8%E3%81%AE%E9%81%8E%E5%8E%BB%E3%81%AE%E8%88%AA%E8%B7%AF/

 とても具体的でわかりやすい情報が見つかりました。昭和50年に始まった「能登飯田港と定期航路」とあります。カーフェリーで,3年後にはホーバークラフトに変わったとありますが,これも少し聞いたように思いますが,ホーバークラフトを見たという記憶は全くありません。

 1,2年前,テレビで北前船の航路をみることがあったのですが,ずっと沿岸沿いの航路に見えました。佐渡だと沖合で沿岸沿いでは行けないはずです。今は聞かないですが,子どもの頃の佐渡ヶ島というのは金山での労働と罪人の島流しという組み合わせで知られていました。


国内外の姉妹、友好都市をご紹介します。
松江市松江市島根県
 「出雲国風土記」(733年)の国引き神話の中に、神が能登半島の先端(本市)から引いてきて縫い付けたのが島根県の先端(美保関町)であると書かれていたことから、1988年3月に姉妹都市提携を結びました。美保関町の基幹産業は漁業と観光です。観光では、関の五本松や美保神社、美保関灯台が名所となっています。
 2005年3月31日に松江市鹿島町島根町美保関町、八雲村、玉湯町宍道町八束町が合併により松江市として誕生しました。
佐渡市  ■佐渡市新潟県
 1975年4月、本市飯田港と佐渡小木港を結ぶ定期航路が開設され、これを契機に姉妹都市提携を結びました。
 佐渡市小木町は江戸時代の金の積み出し港として発展した佐渡南部の観光地です。近年、国際的な公演活動を行っている太鼓集団「鼓童」が中心となり、毎年8月には国際芸術祭「アースセレブレーション」が開催されます。
 2004年3月1日に両津市、相川町、佐和田町、金井町、畑野町、真野町、小木町、羽茂町赤泊村が合併により佐渡市として誕生しました。
江差町江差町(北海道檜山郡
 能登からの移住者が多い江差町では、1992年にその子孫で組織する江差町能登会が結成され、その後、縁故調査をきっかけに交流が深まり、1998年4月に友好都市提携を結びました。
 ニシン漁で栄えたこの町は、回船問屋の旧中村家などが当時の栄華をしのばせています。また江差追分は日本を代表する民謡でもあり、1998年11月には江差追分珠洲支部が設立されました。

[source:]姉妹、友好都市のご紹介 https://www.city.suzu.lg.jp/soumu/outline_friendship_city.html

 隣になる珠洲市姉妹都市というのは今日まで知らなかったですが,能登町の場合は千葉県流山市と宮崎県小林市になっていたように思います。なにかいわれを読んだような気がしますが,憶えていません。


能登町とのかかわり
 能登町合併前の旧内浦町では、能登杜氏として多くの方々が日本各地へ酒造りに出かけられ、流山市内の酒造会社に杜氏として勤められたのが縁で、流山市へ移住する方が多く、昭和初期に遡ります。長年友好的な交流を続けておりましたが、更に親交を深めるため、平成24年1月17日に姉妹都市の盟約を締結しました。

[source:]能登町姉妹都市|お知らせ|能登町役場 https://www.town.noto.lg.jp/www/info/detail.jsp?common_id=7363


能登町とのかかわり
 能登町合併前の旧能都町が、平成7年に小林市合併前の旧野尻町姉妹都市協定を締結し、中学生のホームステイ受け入れや、物産展、イベントへの参加等の交流をおこなっていました。能登町合併後も変わらぬ交流が続いていましたが、お互い合併により新市町となったことから、あらためて交流を深めるために、平成24年11月23日に能登町と小林市の姉妹都市締結をおこないました。

[source:]能登町姉妹都市|お知らせ|能登町役場 https://www.town.noto.lg.jp/www/info/detail.jsp?common_id=7363

 「能登町合併前の旧能都町が、平成7年に小林市合併前の旧野尻町姉妹都市協定を締結」とあります。流山市平成24年の締結となっていましたが,小林市の方が最近になるものと思っていました。

 数年前の「やなぎだ植物公園」での「ござれ祭」のときだったと思いますが,挨拶をしている人が能登町を「のとまち」とよんでいたので間違っていると思ったのですが,その時は長野県の野沢湖の市町村とばかり思い込んでいました。

» 九十九湾 おせん - Google 検索 https://t.co/rNzEjNBFQT

» 九十九湾 遊女 - Google 検索 https://t.co/NoUQfMvFfG

» まだ見ぬオギ 九十九湾|能登九十九湾振興協議会 https://t.co/KJy3xzpMHI

» イカの駅つくモールは6月20日オープン | まだ見ぬオギ 九十九湾|能登九十九湾振興協議会 https://t.co/shJ4nXryaJ 石川県の能登地方にある船凍イカで有名な小木港、そして日本百景の九十九湾、。 \n \n そんな九… https://t.co/L9LnJ5B45q

» 九十九湾|お知らせ|能登町役場 https://t.co/1fI7ApwDMs

 今回も九十九湾で身投げをした遊女おせん,の情報はネットで見つかりませんでした。遊覧船でアナウンスされていました。録音による放送です。同じ能登の暮坂出身という「おさよ」はネットで情報が多く,共通したのは遊女で身投げをしたというお話です。

 死んだおさよは,沖合の船を沈めるようなパワーで,祠を海が見えない向きに変えたという情報もありました。昭和の時代は地縛霊という言葉も聞いたものですが,今は世の中も変わって聞くことがなく,この前,銭湯のテレビでポルターガイスト現象を見たときも珍しく感じました。


「昔、能登国・仁岸の郷の渡瀬という部落に、次郎助という百姓家があった。次郎助の娘お小夜は家が大変貧乏だったので近くの女郎屋に遊女として売られたが、その後、江戸の吉原まで流れてゆき、吉原いちの売れっこ花魅になった。義理にかたく、情に厚く、芸に秀でていたので、一目千両の花魁お小夜と、もてはやされた。そのうち同郷の誼で、能登輪島の重蔵という船乗りが、お小夜のもとへ通いつめ、お小夜はこよなく重蔵に魅かれた。だがあるとき重蔵は輪島に帰ったまま、ばったり寄りつかなくなってしまった。不審に思ったお小夜が輪島の重蔵のもとへ行ってみると、すでに他の女がいた。愛憎半ばする心で故郷の靱地へ帰ったお小夜は、海に身を投げて自らの命を絶ってしまった。その怨念が砂浜にのりうつって、砂の上を歩くと泣き声に似た音をたてるようになった」

[source:]お小夜の悲恋伝説 http://bigai.world.coocan.jp/msand/sand/what/gomeosayo.html

» 仁岸川 - Google マップ https://t.co/ITfwSJj8UP


 能登のお小夜には大きく2つの説があることは知っていました。「能登国・仁岸の郷」を珠洲市の仁江海岸と勘違いしたことをGoogleマップで確認しました。仁江海岸は塩田があって,全国放送のテレビでもちょくちょく見かけているので,地名は知らなくても見ている人はいそうです。

» 門前町馬渡 - Google マップ https://t.co/mGdxuO7fke

 門前町は以前,宇出津が能都町だった頃,同じ石川県鳳至郡で,その後,輪島市と合併しています。馬渡という場所が剣時の琴ヶ浜の近くというか,川の上流になるのだと知って納得しました。しかし,同じ門前町でも暮坂とはかなり離れています。

» 暮坂住吉神社 から 石川県輪島市門前町馬渡 - Google マップ https://t.co/lBqDaMp8OS

 暮坂の神社が住吉神社というのは意外に感じました。この門前町暮坂は,他に見たことがないほど小さな集落で,今思ったのですが,同じ敷地に親族の家が3軒と聞いたと思う大崎事件の事件現場に規模が似ているかもしれません。

 神社というより祠というの建物でしたが,確かに海ではない方を向いていました。その少し坂の上がカーブになっていて,奇妙な懐かしさを感じました。もともと能登の原風景なのかもしれません。

 Googleマップでみると現地で見たより家の数はありそうでした。しかし,これほど人里離れた小さな集落というのは同じ能登でも宇出津の周辺ではあまりないように思います。買い物も大変そうです。宇出津の周辺でも大変そうで,歩いて買い物に行けるのは恵まれていると考えるようになりました。


加賀藩高崎半九郎らは金に困り、19人の遊女を囲い、か弱い彼女らを利用して、あくどい金儲けをしていたことが発覚し、4人の武士は加賀藩の流刑場、越中五箇山へ配流され、おさよたち遊女は元禄3年(1691)奥能登外浦に流されることになりました。

ところが、おさよだけは暮坂生まれですから、故郷に近いという理由で、さらに、五箇山の小原村に流されることとなり、その村の肝煎庄兵衛方に預けられました。ここで数年間過ごすのですが、天性の歌のうまさと美貌が評判になり、とくに、幼少時の哀しく切ない故郷への想いが「麦屋節」に込められて、人々の心をつかんでいきました。これが越中麦屋節なのです。

おさよの悲運はまだ続きます。隣の在所の吉間という若者と恋におち、子供を身ごもったのです。流人の身では決して許されないことでした。そして、今まで親切に接してくれた五箇山の人たちにも迷惑がかかることを恐れて、庄川に身を投じたのでした。


おさよ28歳での悲運の最後でした。おさよの亡骸は村人たちによって引き上げられ、小原村に葬られました。吉間も一時は身を隠していましたが、のちに僧侶となり、一生おさよの菩堤を弔ったということです。また、後年、おさよの愛誦歌詞を刻んだ立派な歌碑が建てられました。

輪島でも小峰山には石臼に組み合わせて作った「おさよ塚」と呼ぶ供養塔、生誕の地暮坂には、供養碑が建てられており、今でも時々線香やお花が供えられています。



[source:]輪島素麺ものがたり http://www.wajimacci.or.jp/rintoumen/

 同じページには「平成に作られたおさよトンネル」とありますが,初めにバイクでこのトンネルを通ったとき,トンネルの名前が気になったのですが,その時は庄川で入水自殺したというおさよのことはまだ知らなかったと思います。

 その門前町皆月の辺りでは,能登麦屋節という石碑や看板を見かけ,それをネットで調べたことで「おさよ」のことを知ったように思います。一人の女性の生涯になり,それも被害者安藤文さんの人生と重ねて考える理不尽さがありました。同じ頃に仙台高尾もありました。

 Twilogで大家警部補とお小夜を一緒に調べてみたいと思います。大家警部補も今は物語に出てくるだけのような登場人物になっています。被害者安藤文さんの人生に与えた影響を,考えてもらえたらと思いますし,女人救済というのも輪島の信仰の歴史にはあるようです。

 そのあとで稿を改めるかもしれないですが,私の母親の人生と大家警部補についても物語ではない事実を記録します。